人というのは不思議なものだ。
先日亡くなった母は、脳出血によって半身不随になったのは28年前。62歳の時だった。
それでも60代のうちは、結構リハビリに励み、専用の器具の付いた靴などを履けば、杖をついて歩けたし、右手は使えたので、台所に立って(立っているわけではないが^_^)料理などもできた。
近所にもう1人結婚して子供が3人いる兄がいるのだが、
ここの孫達は、中学生くらいの頃は腹減らしで、しょっちゅう婆ちゃんのところに集まってはなんか作ってもらっていた。
70代に入ると、次第に寝ている事が多くなり、昼間、同居する兄が会社に行っている留守の間に、1時間ほどヘルパーさんに来てもらうようになった。
今から思うとよく乗り越えたと思う日々だが、案外母は楽天家で、「私は腰が動くから、自分で尿パットくらい取り替えられるのよ、だから大丈夫」と、言って、昼間人が来るのは、そのヘルパーさんと、リハビリの先生が週1、後、看護師さんが身体の様子を診たりしにきてくれていた。
その頃兄は朝、母に朝食を食べさせると、簡単なおにぎりやサンドイッチなど片手でつまめる昼食を作り、仕事へ行った。すると、昼にヘルパーさんが来て、オムツを取り替え、兄の作った昼食を食べさせる連携プレー。寒い季節、おかずによっては電子レンジで温めてくれたりもする。
女の人って、太いというのか、図々しいのか、ヘルパーさんと母は、そんな関係でもありながら よくお喋りをして、共通する趣味が植木(けして、ガーデニングではなくて^_^)だった事から、すっかり仲良くなった。そのヘルパーさんのお人柄をすっかり気に入った母。その事業所も、母のワガママをよく聞いてくれて、ずっとその同じヘルパーさんにお願いすることも出来た。
母は、たまに訪ねる私によくそのヘルパーさんの話をし、この20年くらいの間、私は一度も会った事が無いのに、すっかり、よく知ったおばさんのような感じになっていた。同じ県内の、ごく普通の主婦でもある方だった。
リハビリの先生にしても、看護師さんにしても、日曜日に訪ねる私とは会えたことはないが、母の話を通じて
よく知った人の様になっていた。
やがて母は、歳をとり80代に入ると大腿骨骨折をやり、ほとんど寝たきりとなった。認知症も進み、手元に置いてある緊急連絡用のコードレスフォンを四六時中かけては、介護事業所の方々や、親戚、孫や私達子供にうんざりされるようになった。
デイサービスというものがこの頃大分増えてきて、私なんかは同居し始めた姑を週3〜4日通わせていたので、その楽しさを伝えながら推めても、母は
「私は嫌!御宅のお姑さんみたいに元気なら楽しいけど、私なんかはつまらないよ」などと言って受け付けなかった。
そんな事で進展の無い数年が経ち、ある時兄の大腸癌が見つかった。介護のストレスからか、そして自分の身に構う隙のなさから、かなり進んでから分かったのだった。
兄の緊急入院もあり、なんだかんだ言っていた母も、強制的にお泊まりの出来るデイサービスに入所することとなった。
案ずるは生むが易し…というとうり、母は、そこで有能で、優しい介護士さん達と出会い、兄が退院してからも、週3で通い続ける事となった。
孤独感から解放されたか、母は電話をかけまくる事も無くなって、たまに訪ねる私に、デイサービスでの写真を見せながら楽しい日々を話してくれた。
ほとんど寝たきりで、自分では一歩も外に出られなかった母。せいぜい車椅子での散歩か、デイサービスの事業所までくらいが母の移動の範囲だった。
自分では何も出来ず、その割に注文や指図が多くて、
時々こちらも頭に来てぞんざいに扱うと、「自分でやりたくたって出来ないんだから」と悲しそうな顔をした。
元来お嬢様育ちで、苦労がちっとも身につかない人だったけど、やはりこういう生活が長くなると悟ったような事を言う様になった。
「あの頃は、ただ自分のことしか考えていなかったけど、今になるとおばあちゃん(姑である私の祖母)にとても感謝している。ありがとうって、今は毎日手を合わせているの。」
母は、未亡人になった後も姑をずっと養った。私はおばあちゃんに育てられた様なもので、働く母には必要な存在だったのだろうけど、その頃はたいして有難いとは思わずに、かえって自分が面倒見てやってる…くらいに思っていたのだろう。
「わたしは腰が動くからまだ良いのよ。自分でオムツをが取り替えられるんだから。有難いことよ。ヘルパーさんに、凄いですって、褒められるのよ。有難いことだわ。」
能天気で、気分屋。妹達がしっかり者のお陰で、なんでもやってもらえるのは当たり前と思ってるこのひとから、こんな言葉を聞くとは思わなかった。人はそういうことを学ぶように運命づけられているのか。
それにしても、学ぶ時間が余りにも長かった。わたしはいつも「神様、仏様、そろそろ母を勘弁してやって下さい。安らかにお導きをして下さい」と、祈っていた。
兄は献身的とも言えるほど母に尽くしていたが、亡くなる直前頃は、自分も手術や抗がん剤治療などで身体がきつくなり、オムツ替の時などに粗相をされると、イラっときて声を荒げる事もあった。
私は心配して、これ以上在宅で介護するのは無理ではないか?と施設入所を勧めるくらいだったが、兄は、ここで断念するのは自分の支も失うことになる、と言った。そんな矢先に母は逝った。
正直、兄にとっても限界だったろう。
通夜の晩、「肩の荷が降りた…。」と兄は言った。そして、「俺も身体がキツくて婆ちゃんに怒鳴った事もあった…。可愛そうな事したよ…。悪かったなぁ。」と。
そしてどんな時でも、ひとにはやさしくしてあげなきゃいけないんだ、それを母に教えてもらった、と言った。
母は、動けず、自分では何も出来なかったけど、思った以上に沢山の人と出会い、多くの事を学び、人が生きることの意味を私達に教えてくれた。母の姿を見て育った孫のうち2人は介護士の道へ進んでいる。
母の最期は、偶然兄の入院中と重なり、預けられたデイサービスでの看取りだった。私達子供や孫、妹達ともみんなお別れが出来て、 在宅介護医の主治医の先生と、介護士の皆さん、日頃お馴染みのデイサービス利用者の仲間の方々に囲まれながら、暖かい日差しの差し込む部屋でごく自然な日常の音や会話が交わされる中で、安心して眠るように逝った。
沢山の方々に囲まれて逝った。
寂しくて、一人置かれた部屋で電話をかけまくってた母にとっては、思いがけない最期だったろう。私も思いもしなかった。いつも、一人で逝ってしまうのだろうと覚悟していたから。
よく人は、ピンピンコロリと逝きたいねぇなどというが、そう簡単にはなかなかいかない。本当に大切なことを学び、生や死について考えることをしてからでないとお迎えが来ないこともある…のかも。
母は、寝そべったまま、ほとんど自分では何も出来ず、着替えすら出来なかったのに、お世話して頂くことで沢山の方々と出会い、沢山の感謝を抱いて死んでいった。そして、その母がただ「いてくれた」ということがどんなに私達の心を満たしていたのか、亡くなって初めて私達はわかったのだった。
母の遺影と形見のブロウチ。
先日亡くなった母は、脳出血によって半身不随になったのは28年前。62歳の時だった。
それでも60代のうちは、結構リハビリに励み、専用の器具の付いた靴などを履けば、杖をついて歩けたし、右手は使えたので、台所に立って(立っているわけではないが^_^)料理などもできた。
近所にもう1人結婚して子供が3人いる兄がいるのだが、
ここの孫達は、中学生くらいの頃は腹減らしで、しょっちゅう婆ちゃんのところに集まってはなんか作ってもらっていた。
70代に入ると、次第に寝ている事が多くなり、昼間、同居する兄が会社に行っている留守の間に、1時間ほどヘルパーさんに来てもらうようになった。
今から思うとよく乗り越えたと思う日々だが、案外母は楽天家で、「私は腰が動くから、自分で尿パットくらい取り替えられるのよ、だから大丈夫」と、言って、昼間人が来るのは、そのヘルパーさんと、リハビリの先生が週1、後、看護師さんが身体の様子を診たりしにきてくれていた。
その頃兄は朝、母に朝食を食べさせると、簡単なおにぎりやサンドイッチなど片手でつまめる昼食を作り、仕事へ行った。すると、昼にヘルパーさんが来て、オムツを取り替え、兄の作った昼食を食べさせる連携プレー。寒い季節、おかずによっては電子レンジで温めてくれたりもする。
女の人って、太いというのか、図々しいのか、ヘルパーさんと母は、そんな関係でもありながら よくお喋りをして、共通する趣味が植木(けして、ガーデニングではなくて^_^)だった事から、すっかり仲良くなった。そのヘルパーさんのお人柄をすっかり気に入った母。その事業所も、母のワガママをよく聞いてくれて、ずっとその同じヘルパーさんにお願いすることも出来た。
母は、たまに訪ねる私によくそのヘルパーさんの話をし、この20年くらいの間、私は一度も会った事が無いのに、すっかり、よく知ったおばさんのような感じになっていた。同じ県内の、ごく普通の主婦でもある方だった。
リハビリの先生にしても、看護師さんにしても、日曜日に訪ねる私とは会えたことはないが、母の話を通じて
よく知った人の様になっていた。
やがて母は、歳をとり80代に入ると大腿骨骨折をやり、ほとんど寝たきりとなった。認知症も進み、手元に置いてある緊急連絡用のコードレスフォンを四六時中かけては、介護事業所の方々や、親戚、孫や私達子供にうんざりされるようになった。
デイサービスというものがこの頃大分増えてきて、私なんかは同居し始めた姑を週3〜4日通わせていたので、その楽しさを伝えながら推めても、母は
「私は嫌!御宅のお姑さんみたいに元気なら楽しいけど、私なんかはつまらないよ」などと言って受け付けなかった。
そんな事で進展の無い数年が経ち、ある時兄の大腸癌が見つかった。介護のストレスからか、そして自分の身に構う隙のなさから、かなり進んでから分かったのだった。
兄の緊急入院もあり、なんだかんだ言っていた母も、強制的にお泊まりの出来るデイサービスに入所することとなった。
案ずるは生むが易し…というとうり、母は、そこで有能で、優しい介護士さん達と出会い、兄が退院してからも、週3で通い続ける事となった。
孤独感から解放されたか、母は電話をかけまくる事も無くなって、たまに訪ねる私に、デイサービスでの写真を見せながら楽しい日々を話してくれた。
ほとんど寝たきりで、自分では一歩も外に出られなかった母。せいぜい車椅子での散歩か、デイサービスの事業所までくらいが母の移動の範囲だった。
自分では何も出来ず、その割に注文や指図が多くて、
時々こちらも頭に来てぞんざいに扱うと、「自分でやりたくたって出来ないんだから」と悲しそうな顔をした。
元来お嬢様育ちで、苦労がちっとも身につかない人だったけど、やはりこういう生活が長くなると悟ったような事を言う様になった。
「あの頃は、ただ自分のことしか考えていなかったけど、今になるとおばあちゃん(姑である私の祖母)にとても感謝している。ありがとうって、今は毎日手を合わせているの。」
母は、未亡人になった後も姑をずっと養った。私はおばあちゃんに育てられた様なもので、働く母には必要な存在だったのだろうけど、その頃はたいして有難いとは思わずに、かえって自分が面倒見てやってる…くらいに思っていたのだろう。
「わたしは腰が動くからまだ良いのよ。自分でオムツをが取り替えられるんだから。有難いことよ。ヘルパーさんに、凄いですって、褒められるのよ。有難いことだわ。」
能天気で、気分屋。妹達がしっかり者のお陰で、なんでもやってもらえるのは当たり前と思ってるこのひとから、こんな言葉を聞くとは思わなかった。人はそういうことを学ぶように運命づけられているのか。
それにしても、学ぶ時間が余りにも長かった。わたしはいつも「神様、仏様、そろそろ母を勘弁してやって下さい。安らかにお導きをして下さい」と、祈っていた。
兄は献身的とも言えるほど母に尽くしていたが、亡くなる直前頃は、自分も手術や抗がん剤治療などで身体がきつくなり、オムツ替の時などに粗相をされると、イラっときて声を荒げる事もあった。
私は心配して、これ以上在宅で介護するのは無理ではないか?と施設入所を勧めるくらいだったが、兄は、ここで断念するのは自分の支も失うことになる、と言った。そんな矢先に母は逝った。
正直、兄にとっても限界だったろう。
通夜の晩、「肩の荷が降りた…。」と兄は言った。そして、「俺も身体がキツくて婆ちゃんに怒鳴った事もあった…。可愛そうな事したよ…。悪かったなぁ。」と。
そしてどんな時でも、ひとにはやさしくしてあげなきゃいけないんだ、それを母に教えてもらった、と言った。
母は、動けず、自分では何も出来なかったけど、思った以上に沢山の人と出会い、多くの事を学び、人が生きることの意味を私達に教えてくれた。母の姿を見て育った孫のうち2人は介護士の道へ進んでいる。
母の最期は、偶然兄の入院中と重なり、預けられたデイサービスでの看取りだった。私達子供や孫、妹達ともみんなお別れが出来て、 在宅介護医の主治医の先生と、介護士の皆さん、日頃お馴染みのデイサービス利用者の仲間の方々に囲まれながら、暖かい日差しの差し込む部屋でごく自然な日常の音や会話が交わされる中で、安心して眠るように逝った。
沢山の方々に囲まれて逝った。
寂しくて、一人置かれた部屋で電話をかけまくってた母にとっては、思いがけない最期だったろう。私も思いもしなかった。いつも、一人で逝ってしまうのだろうと覚悟していたから。
よく人は、ピンピンコロリと逝きたいねぇなどというが、そう簡単にはなかなかいかない。本当に大切なことを学び、生や死について考えることをしてからでないとお迎えが来ないこともある…のかも。
母は、寝そべったまま、ほとんど自分では何も出来ず、着替えすら出来なかったのに、お世話して頂くことで沢山の方々と出会い、沢山の感謝を抱いて死んでいった。そして、その母がただ「いてくれた」ということがどんなに私達の心を満たしていたのか、亡くなって初めて私達はわかったのだった。
母の遺影と形見のブロウチ。
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