Ring-A-Ding 日々ロック,R&B,そしてゴスペル〜💋

おばちゃんがココロに浮かぶ由無し事を、気ままにつぶやく。ロックな時間。

バストの悩み

2018-03-28 21:08:03 | その他
乳がんで、左の乳房を全摘したのは33歳の時。
今からすると「若い身そらで可愛そうに」と、我ながら思う。
しかし、その時私はすでに結婚して3人の子持ち。私がOLとして勤めていた当時はまだ25歳過ぎると会社に居ずらい…というくらい、世間は、女の子は年頃になったら結婚してお母さんになるものだ…というのが当たり前みたいな世の中だった。「お局」なんて陰口も生まれたのはこの頃だろう。そんな中で適齢期といわれる年頃に結婚退社した。そんなだから、まだ33歳なのにもうおばさんなんだと思っていた。
今、33歳くらいの子がまだ学生みたいな顔をして遊びまわっているのを見ると、自分の33歳とは今の45歳位だなーと思う。


ガンの診断を受けて、今から20年以上前の治療法としては、全摘が最善で、温存はよほど初期の癌でしかかなわなかった。
だから33歳で、子供も3人もいる私は、オッパイなんて、もう用済みだし、無くてもいっか…と、さほど未練もなく手術をうけた。幼い子供達のためにも命の方が余程大切であった。
もともとたいして自慢のバストでもなかった。Cカップではあったが、それは体型が逆三角形の筋肉質で、アンダーとトップの差があった、というだけで、美乳ということもない、むしろ平らに近い形だった。


その時の入院中に同室だったスレンダーなご婦人が、「私も乳がんやって取っちゃったけど、大丈夫よブラジャーのカップの中にハンカチてでも詰めとけば。」と仰った。ふーん、そうかぁ、と思い、当時は私もガーゼのハンカチなんかを丸めて突っ込んでいた。
子供が小さいので、水着も着ざるおえなかったが、平気で着たし、どうということはなかった。もともとバストに存在感がなかった。
それが、どうにも悩みの種となったのは、中年になってからである。


有る方の胸に文句をつけるのはばちあたりかもしれないが、中年になって、なんかやたらオッパイがデカくなって垂れるのである。
よく思い出すと、私のおばあちゃんのオッパイは昔デカくて垂れていた。あれがもし垂れてなかったら叶姉妹かというくらいデカく感じたが、今なんとなくわかる。
垂れてない年頃には大してデカくはなかったんだ。
そういう歳になって、皮下脂肪なんだか中年の肥り方なんだか、無駄にデカくなるのである。
それで、細胞にハリがないから垂れる。
両方あればバランス的には問題ないが、私の場合、ダミーの片方は垂れて来ない。無いから。だから、おまんじゅうの様なパット(なんと手作り!)を入れているのだが、重さがないので垂れて来ない。
正面から見ると明らかに左右が段違いになっているのだ。


重さのあるシリコン製のパットを入れていたこともある。これは、セーターなどのピッタリしている服の時はリアル感があって良いのだが、ブラジャーの肩ひもが直ぐに伸びてしまうし、重いのだ。そう、身体にくっついてない乳房分の重みというのは「重い」。
そういうパットを肌に着ける両面テープの様なものもあるが、痒くなる。
いずれにしても苦労が多い。
最近は、同年代に乳がんの経験者が増えて、バストの悩みを語り合う事がよくある。
でも、最近は温存とか、全摘後再建の人など多い。やっぱり私とは時代が違うんだなぁ。でも、「乳房再建」の場合、歳をとったらやはり私の様なの悩みが生まれるのではないか?再建されたバストは歳をとったらどうなるの?デカくなって垂れてくる?それとも原型のままツンととがって綺麗なラインを保ち続けるの?
私はこの頃ばちあたりと知りつつ、切に思う。残っている方のオッパイも取ってしまって、両方再建したいと。

だってもう本当に正真正銘おばさんになってしまって、オッパイの役割なんてないんだもん。
残る片方のオッパイも乳がんリスクが高いのだからいっそ取った方がどれほど楽か。
最初から念のために両方取る、という人もいたと聞いたこともある。
体型の崩れ、整体上のバランスのためにもオッパイの重さの均衛をとるのは大切なことなのだ。
癌という病気の恐ろしさとは別の次元だが、実際、日々の悩みの中で気が滅入ることこの上ない。
乳がんの人のための下着ももっとよく考えられたらと思う。


ちょっと変わった椿。幸朴公(コウボクコウ)

母の遺していったもの

2018-03-17 22:23:42 | その他
人というのは不思議なものだ。

先日亡くなった母は、脳出血によって半身不随になったのは28年前。62歳の時だった。
それでも60代のうちは、結構リハビリに励み、専用の器具の付いた靴などを履けば、杖をついて歩けたし、右手は使えたので、台所に立って(立っているわけではないが^_^)料理などもできた。
近所にもう1人結婚して子供が3人いる兄がいるのだが、
ここの孫達は、中学生くらいの頃は腹減らしで、しょっちゅう婆ちゃんのところに集まってはなんか作ってもらっていた。

70代に入ると、次第に寝ている事が多くなり、昼間、同居する兄が会社に行っている留守の間に、1時間ほどヘルパーさんに来てもらうようになった。
今から思うとよく乗り越えたと思う日々だが、案外母は楽天家で、「私は腰が動くから、自分で尿パットくらい取り替えられるのよ、だから大丈夫」と、言って、昼間人が来るのは、そのヘルパーさんと、リハビリの先生が週1、後、看護師さんが身体の様子を診たりしにきてくれていた。



その頃兄は朝、母に朝食を食べさせると、簡単なおにぎりやサンドイッチなど片手でつまめる昼食を作り、仕事へ行った。すると、昼にヘルパーさんが来て、オムツを取り替え、兄の作った昼食を食べさせる連携プレー。寒い季節、おかずによっては電子レンジで温めてくれたりもする。

女の人って、太いというのか、図々しいのか、ヘルパーさんと母は、そんな関係でもありながら よくお喋りをして、共通する趣味が植木(けして、ガーデニングではなくて^_^)だった事から、すっかり仲良くなった。そのヘルパーさんのお人柄をすっかり気に入った母。その事業所も、母のワガママをよく聞いてくれて、ずっとその同じヘルパーさんにお願いすることも出来た。
母は、たまに訪ねる私によくそのヘルパーさんの話をし、この20年くらいの間、私は一度も会った事が無いのに、すっかり、よく知ったおばさんのような感じになっていた。同じ県内の、ごく普通の主婦でもある方だった。
リハビリの先生にしても、看護師さんにしても、日曜日に訪ねる私とは会えたことはないが、母の話を通じて
よく知った人の様になっていた。


やがて母は、歳をとり80代に入ると大腿骨骨折をやり、ほとんど寝たきりとなった。認知症も進み、手元に置いてある緊急連絡用のコードレスフォンを四六時中かけては、介護事業所の方々や、親戚、孫や私達子供にうんざりされるようになった。
デイサービスというものがこの頃大分増えてきて、私なんかは同居し始めた姑を週3〜4日通わせていたので、その楽しさを伝えながら推めても、母は
「私は嫌!御宅のお姑さんみたいに元気なら楽しいけど、私なんかはつまらないよ」などと言って受け付けなかった。
そんな事で進展の無い数年が経ち、ある時兄の大腸癌が見つかった。介護のストレスからか、そして自分の身に構う隙のなさから、かなり進んでから分かったのだった。
兄の緊急入院もあり、なんだかんだ言っていた母も、強制的にお泊まりの出来るデイサービスに入所することとなった。


案ずるは生むが易し…というとうり、母は、そこで有能で、優しい介護士さん達と出会い、兄が退院してからも、週3で通い続ける事となった。
孤独感から解放されたか、母は電話をかけまくる事も無くなって、たまに訪ねる私に、デイサービスでの写真を見せながら楽しい日々を話してくれた。

ほとんど寝たきりで、自分では一歩も外に出られなかった母。せいぜい車椅子での散歩か、デイサービスの事業所までくらいが母の移動の範囲だった。
自分では何も出来ず、その割に注文や指図が多くて、
時々こちらも頭に来てぞんざいに扱うと、「自分でやりたくたって出来ないんだから」と悲しそうな顔をした。
元来お嬢様育ちで、苦労がちっとも身につかない人だったけど、やはりこういう生活が長くなると悟ったような事を言う様になった。
「あの頃は、ただ自分のことしか考えていなかったけど、今になるとおばあちゃん(姑である私の祖母)にとても感謝している。ありがとうって、今は毎日手を合わせているの。」
母は、未亡人になった後も姑をずっと養った。私はおばあちゃんに育てられた様なもので、働く母には必要な存在だったのだろうけど、その頃はたいして有難いとは思わずに、かえって自分が面倒見てやってる…くらいに思っていたのだろう。

「わたしは腰が動くからまだ良いのよ。自分でオムツをが取り替えられるんだから。有難いことよ。ヘルパーさんに、凄いですって、褒められるのよ。有難いことだわ。」
能天気で、気分屋。妹達がしっかり者のお陰で、なんでもやってもらえるのは当たり前と思ってるこのひとから、こんな言葉を聞くとは思わなかった。人はそういうことを学ぶように運命づけられているのか。
それにしても、学ぶ時間が余りにも長かった。わたしはいつも「神様、仏様、そろそろ母を勘弁してやって下さい。安らかにお導きをして下さい」と、祈っていた。



兄は献身的とも言えるほど母に尽くしていたが、亡くなる直前頃は、自分も手術や抗がん剤治療などで身体がきつくなり、オムツ替の時などに粗相をされると、イラっときて声を荒げる事もあった。
私は心配して、これ以上在宅で介護するのは無理ではないか?と施設入所を勧めるくらいだったが、兄は、ここで断念するのは自分の支も失うことになる、と言った。そんな矢先に母は逝った。
正直、兄にとっても限界だったろう。
通夜の晩、「肩の荷が降りた…。」と兄は言った。そして、「俺も身体がキツくて婆ちゃんに怒鳴った事もあった…。可愛そうな事したよ…。悪かったなぁ。」と。
そしてどんな時でも、ひとにはやさしくしてあげなきゃいけないんだ、それを母に教えてもらった、と言った。


母は、動けず、自分では何も出来なかったけど、思った以上に沢山の人と出会い、多くの事を学び、人が生きることの意味を私達に教えてくれた。母の姿を見て育った孫のうち2人は介護士の道へ進んでいる。

母の最期は、偶然兄の入院中と重なり、預けられたデイサービスでの看取りだった。私達子供や孫、妹達ともみんなお別れが出来て、 在宅介護医の主治医の先生と、介護士の皆さん、日頃お馴染みのデイサービス利用者の仲間の方々に囲まれながら、暖かい日差しの差し込む部屋でごく自然な日常の音や会話が交わされる中で、安心して眠るように逝った。
沢山の方々に囲まれて逝った。
寂しくて、一人置かれた部屋で電話をかけまくってた母にとっては、思いがけない最期だったろう。私も思いもしなかった。いつも、一人で逝ってしまうのだろうと覚悟していたから。

よく人は、ピンピンコロリと逝きたいねぇなどというが、そう簡単にはなかなかいかない。本当に大切なことを学び、生や死について考えることをしてからでないとお迎えが来ないこともある…のかも。


母は、寝そべったまま、ほとんど自分では何も出来ず、着替えすら出来なかったのに、お世話して頂くことで沢山の方々と出会い、沢山の感謝を抱いて死んでいった。そして、その母がただ「いてくれた」ということがどんなに私達の心を満たしていたのか、亡くなって初めて私達はわかったのだった。

母の遺影と形見のブロウチ。

死んだ後の心配

2018-03-10 03:54:26 | その他
私の住んでいる町は、寺町と言って良いくらいお寺さんが多い。ウチの店の常連客にもご住職が何人かいるし、駐車場もお寺に借りている。
お寺さんのシステムというのがどうなっているのか詳しくは知らないが、どうも観ているとその資産は個人のものではなく、子孫に後継者が無い場合は、弟子など、然るべき後継者が選出され、あとを引き継いでいるようだ。
我が家の裏にあるお寺は、最近ご住職が亡くなった。そこは娘さんばかりで、その娘さんに、僧侶との縁談など迎えることなく出て行ってしまった。そのあと、小さい子供のいる、若いお坊さんが後を継ぎ、そのまま住んでいる。
先代のご住職は、年配の方で、大学の先生などされていたようだが、特に表に現れる活動は無かった。
それが、若いお坊さんになったら、何やらイベントやら、本堂でのコンサートなど催して賑やかだ。
そのイベントには、何のゆるキャラだか「小坊主くん」なんていうマンガの一休さんみたいのまで来る。
お釈迦様のbirthday「花祭り」には、お稚児行列なんていうのもやるが、最近のインスタ流行りの影響か、申し込みが殺到。たった10分間の行列に、100人近い人々が集まるようだ。



別の近くの別のお寺では、そこの門前から続く長い行列に「何だ?」と、思って聞いてみると、何とそれは「ご朱印帳」にご朱印を描いて頂くため並んでるのだとか。
なんでもそこのお寺では、ご朱印が、判子では無く、ご住職が手書きする特別な日があるらしい。そのため、一人一人の時間がかかるうえ、昨今のご朱印集めの流行に乗り、この騒ぎになっているのだとか。
先着何名とか縛りを付けないお人好しのご住職は、その日にやり切れない分は後日送付という形でご朱印帳を預かるという優しさ。しかし、それはもとより無料。送料以外は頂かないという潔癖さ。その純朴さは必ず人の心を癒す力を持っていて、人々は知らずとも感じるに違いない。
こういうお寺さんには親しみを感じ、そんな流行りに乗った事が縁でも、それがやがて宗教的な支えにまで繋がる可能性まで生まれるだろう。
とにかく、私が抱いた「お寺離れ」的な不安は、ひと昔前からの葬式仏教にあるのだと思う。


葬式仏教のみに経営活動を行うお寺は、そう長くない時期に衰退して行くだろうな。そう思うのは私が抱いた不安は、世間一般の共通の不安であるに違いないからだ。
お寺にお墓を持っているが故に、今生を生きるものが経済的負担が重くては、そうは保たないだろう。
葬儀、四十九日法要、納骨、それに続く新盆やら一周忌やら、その先ずーっとなにかにつけては供養のためのお金がかかるようになっている。必ずしもしなくてはならないというわけでもないだろうが、
しかしそれをしないと何となく先祖をおろそかにしているようで、後ろめたい。
そういう気持ちにつけ込んでいる…と言っては口が悪いが、本来の教義を調べると、お釈迦様ご自身、葬式もせず、墓も作らなかった、そのような事にかまけずに、「生きているものが幸せになりなさい」とおっしゃった…というのが本当の教義というらしい。
それがなんでこうなっちゃったのかね?


人は死後何処へゆくのか…。
先祖供養とは何か…。
いずれにせよ、僧侶が人並み以上の贅沢な暮らしをしている以上、素直に説教など聞けるか?
広大な敷地に瀟洒な住まいまで改築し、外車を定期的に乗り換えるところなど、私には、これから先までその栄華が繰り広げられるとは思えない。
清貧…とまではいかないまでも、
その務めの本質を知る者としての生活の仕方を分かっているひとが、残っていくのではないか、と予感がしてならない。

死んだ後の心配までするような歳になったっていうこっちゃね。


母の手作りの雛。
何年かぶりに出してみた春。

戒名の値段

2018-03-07 04:40:05 | その他
母の死から3週間。こうして身内に死なれると、つくづくおいそれと死ぬ事も出来ないな…と、思わされるのはお金の話である。

母が亡くなる直前、実家の玄関に一枚のハガキが届いていたという。
それは、かなり前(もう50年近く前)にかけたらしい母自身の死亡保険の通知ハガキだった。兄も、そんなものが有るとは知らず、母に聞いてもかなり認知症も進んで記憶はおぼろげ…。一体証書などはどこにあるんだろう?まぁ、そのうち探しておこう…なぁんて思っていたら突然の母の危篤。兄は「不思議な事もあるもんだ。虫の知らせって、こういうもんかね」と私に語った。



バブルの頃、結婚式やお葬式もやたら派手だった。
ウチの姑も、何をはしゃいでいたのか当時は「私の葬式の時は、仕出し料理じゃなくて、板前さんを呼んでその場で握ってくれる寿司を出したいもんだねぇ」なあんて言ってた。
しかし、実際には米寿まで生きた姑の葬式はほんの近親者のみの直葬。実際、殆どの故郷の親類は、亡くなっているか、高齢で、葬式に駆けつけるわけにもいかなくなっていた。壮年期には派手な人だったが、亡くなる間際には認知症も進み、人が変わって陰険になり、友人とも疎遠になっているか、亡くなっていた。要は葬式をするほど呼ぶ人も居なくなっていたのだ。

時代は変わって今はジミ婚、インスタ婚(写真だけ)、家族葬 流行り。有名人の結婚式ですら聞かなくなったし、お葬式も「近親者のみで」が、多くなった。
昔は〜閣とか、〜殿なあんてバブリーなネーミングの結婚式専門の会社のビルなんかあちこちにあったものだけど、今はほとんど見ないよねぇ。それでも時代の変遷に従って消えてしまえるものはそれで良いだろう。しかし、お寺…となると消えてなくなるわけにはいかない。
こうして大人になってみるまで、こういったことは改めて考えるなんてしたことはなかった。



"戒名"というのは宗派によっては要らなかったりするが、宗派によっては偉く高額な相場があったりもする。私が嫁に来たこの家は、神道なので、そもそも戒名が無い。だから、姑が亡くなった時は、諸々そこそこの出費はあったものの、それはまさに実費、という感じだった。
母が亡くなった直後、菩提寺に電話をした兄は、来る人も近親者のみの家族葬で、お通夜の無いいわゆる直葬ですること、したがってお経は斎場の焼場で、「窯前」のお経をあげて頂くだけで良い由を告げると、住職は、「それでは、戒名はそれまでにお付けいたしますが、どのように…?」と言った。
兄は、こういった経験は初めてなので、「どれ位かかるんでしょう?」とぶっちゃけて聞いた。するとなんと御住職は、「そうですねー、60万から…になりますが、上は90とかですね…」と、宣った!
「60万!から⁉️」



その値段が戒名のみではなく、その後に続く諸々の行事(四十九日法要やら、納骨やら)の費用も含まれて…のものなのか、戒名の値段オンリーなのか、今の時点ではまだ不確かなのだが、その話を聞いて私もたまげた。
その時、はっと、兄は母の死亡保険の通知ハガキが来ていたことを思い出したという。
だから虫の知らせと言ったのだろう。
兄は、それから家の大事なものがしまってある引き出しを慌てて覗き込み、古い、もうとっくに解約した保険の証書や、今はもう無い銀行などの小銭しか入ってないような古い口座の通帳などに埋もれた、母の死亡保険の証書を見つけ出した。それには、「大事」と、母の字で記されていたという。
その保険は、どうやらかなり高齢になって亡くなっても、100万円程度の保険金が降りるいわゆる「御葬式代くらい残したい人のための」シニア保険だった。

これが無ければ、定年して年金暮らしで、癌の治療をしている兄にはかなりの痛手だったことだろう。



菩提寺など無く、霊園にお墓が有る人に聞いてみたら、その家のお父さんが亡くなった折には、葬儀屋さんに「宗派は?」と聞かれ、特に無かったので、その場で選び、葬儀屋さんのつてで、然るべき僧侶の方に戒名を付けてもらったのだ…という人が居た。料金は20万円くらいだったとか。
今は、ネットで、戒名3万円くらいからあるらしい。
すると、菩提寺があって、よかったと言えるのか?という気までしてしまう。そもそも実家の菩提寺だって、ウチの場合、そう古い縁でもなさそうで、祖母がある時、ある商売で、ちょこっと儲けた時に探して買ったものだという。
昔は霊園なんてまだ馴染んでないからお寺でお墓…が、通例だったろうし、私達が子供の頃は、法事やなんだで親類が集まって座敷でお茶を飲んだり、本堂で太鼓を叩いて遊ばしてもらったりした思い出もある。お墓参りの帰りにうな重を食べるのが幼稚園の頃の私の楽しみだった。


そんな思い出のある私達の代まではともかく、これから先、先祖供養を甥や姪達に担わせることになると、彼らにその必要性が理解されるのか?はなはだ不安ではある。この話は、次回へ続く!

葉牡丹も花芽を出した。春だなぁ。