私の住んでいる町は、寺町と言って良いくらいお寺さんが多い。ウチの店の常連客にもご住職が何人かいるし、駐車場もお寺に借りている。
お寺さんのシステムというのがどうなっているのか詳しくは知らないが、どうも観ているとその資産は個人のものではなく、子孫に後継者が無い場合は、弟子など、然るべき後継者が選出され、あとを引き継いでいるようだ。
我が家の裏にあるお寺は、最近ご住職が亡くなった。そこは娘さんばかりで、その娘さんに、僧侶との縁談など迎えることなく出て行ってしまった。そのあと、小さい子供のいる、若いお坊さんが後を継ぎ、そのまま住んでいる。
先代のご住職は、年配の方で、大学の先生などされていたようだが、特に表に現れる活動は無かった。
それが、若いお坊さんになったら、何やらイベントやら、本堂でのコンサートなど催して賑やかだ。
そのイベントには、何のゆるキャラだか「小坊主くん」なんていうマンガの一休さんみたいのまで来る。
お釈迦様のbirthday「花祭り」には、お稚児行列なんていうのもやるが、最近のインスタ流行りの影響か、申し込みが殺到。たった10分間の行列に、100人近い人々が集まるようだ。
別の近くの別のお寺では、そこの門前から続く長い行列に「何だ?」と、思って聞いてみると、何とそれは「ご朱印帳」にご朱印を描いて頂くため並んでるのだとか。
なんでもそこのお寺では、ご朱印が、判子では無く、ご住職が手書きする特別な日があるらしい。そのため、一人一人の時間がかかるうえ、昨今のご朱印集めの流行に乗り、この騒ぎになっているのだとか。
先着何名とか縛りを付けないお人好しのご住職は、その日にやり切れない分は後日送付という形でご朱印帳を預かるという優しさ。しかし、それはもとより無料。送料以外は頂かないという潔癖さ。その純朴さは必ず人の心を癒す力を持っていて、人々は知らずとも感じるに違いない。
こういうお寺さんには親しみを感じ、そんな流行りに乗った事が縁でも、それがやがて宗教的な支えにまで繋がる可能性まで生まれるだろう。
とにかく、私が抱いた「お寺離れ」的な不安は、ひと昔前からの葬式仏教にあるのだと思う。
葬式仏教のみに経営活動を行うお寺は、そう長くない時期に衰退して行くだろうな。そう思うのは私が抱いた不安は、世間一般の共通の不安であるに違いないからだ。
お寺にお墓を持っているが故に、今生を生きるものが経済的負担が重くては、そうは保たないだろう。
葬儀、四十九日法要、納骨、それに続く新盆やら一周忌やら、その先ずーっとなにかにつけては供養のためのお金がかかるようになっている。必ずしもしなくてはならないというわけでもないだろうが、
しかしそれをしないと何となく先祖をおろそかにしているようで、後ろめたい。
そういう気持ちにつけ込んでいる…と言っては口が悪いが、本来の教義を調べると、お釈迦様ご自身、葬式もせず、墓も作らなかった、そのような事にかまけずに、「生きているものが幸せになりなさい」とおっしゃった…というのが本当の教義というらしい。
それがなんでこうなっちゃったのかね?
人は死後何処へゆくのか…。
先祖供養とは何か…。
いずれにせよ、僧侶が人並み以上の贅沢な暮らしをしている以上、素直に説教など聞けるか?
広大な敷地に瀟洒な住まいまで改築し、外車を定期的に乗り換えるところなど、私には、これから先までその栄華が繰り広げられるとは思えない。
清貧…とまではいかないまでも、
その務めの本質を知る者としての生活の仕方を分かっているひとが、残っていくのではないか、と予感がしてならない。
死んだ後の心配までするような歳になったっていうこっちゃね。
母の手作りの雛。
何年かぶりに出してみた春。
お寺さんのシステムというのがどうなっているのか詳しくは知らないが、どうも観ているとその資産は個人のものではなく、子孫に後継者が無い場合は、弟子など、然るべき後継者が選出され、あとを引き継いでいるようだ。
我が家の裏にあるお寺は、最近ご住職が亡くなった。そこは娘さんばかりで、その娘さんに、僧侶との縁談など迎えることなく出て行ってしまった。そのあと、小さい子供のいる、若いお坊さんが後を継ぎ、そのまま住んでいる。
先代のご住職は、年配の方で、大学の先生などされていたようだが、特に表に現れる活動は無かった。
それが、若いお坊さんになったら、何やらイベントやら、本堂でのコンサートなど催して賑やかだ。
そのイベントには、何のゆるキャラだか「小坊主くん」なんていうマンガの一休さんみたいのまで来る。
お釈迦様のbirthday「花祭り」には、お稚児行列なんていうのもやるが、最近のインスタ流行りの影響か、申し込みが殺到。たった10分間の行列に、100人近い人々が集まるようだ。
別の近くの別のお寺では、そこの門前から続く長い行列に「何だ?」と、思って聞いてみると、何とそれは「ご朱印帳」にご朱印を描いて頂くため並んでるのだとか。
なんでもそこのお寺では、ご朱印が、判子では無く、ご住職が手書きする特別な日があるらしい。そのため、一人一人の時間がかかるうえ、昨今のご朱印集めの流行に乗り、この騒ぎになっているのだとか。
先着何名とか縛りを付けないお人好しのご住職は、その日にやり切れない分は後日送付という形でご朱印帳を預かるという優しさ。しかし、それはもとより無料。送料以外は頂かないという潔癖さ。その純朴さは必ず人の心を癒す力を持っていて、人々は知らずとも感じるに違いない。
こういうお寺さんには親しみを感じ、そんな流行りに乗った事が縁でも、それがやがて宗教的な支えにまで繋がる可能性まで生まれるだろう。
とにかく、私が抱いた「お寺離れ」的な不安は、ひと昔前からの葬式仏教にあるのだと思う。
葬式仏教のみに経営活動を行うお寺は、そう長くない時期に衰退して行くだろうな。そう思うのは私が抱いた不安は、世間一般の共通の不安であるに違いないからだ。
お寺にお墓を持っているが故に、今生を生きるものが経済的負担が重くては、そうは保たないだろう。
葬儀、四十九日法要、納骨、それに続く新盆やら一周忌やら、その先ずーっとなにかにつけては供養のためのお金がかかるようになっている。必ずしもしなくてはならないというわけでもないだろうが、
しかしそれをしないと何となく先祖をおろそかにしているようで、後ろめたい。
そういう気持ちにつけ込んでいる…と言っては口が悪いが、本来の教義を調べると、お釈迦様ご自身、葬式もせず、墓も作らなかった、そのような事にかまけずに、「生きているものが幸せになりなさい」とおっしゃった…というのが本当の教義というらしい。
それがなんでこうなっちゃったのかね?
人は死後何処へゆくのか…。
先祖供養とは何か…。
いずれにせよ、僧侶が人並み以上の贅沢な暮らしをしている以上、素直に説教など聞けるか?
広大な敷地に瀟洒な住まいまで改築し、外車を定期的に乗り換えるところなど、私には、これから先までその栄華が繰り広げられるとは思えない。
清貧…とまではいかないまでも、
その務めの本質を知る者としての生活の仕方を分かっているひとが、残っていくのではないか、と予感がしてならない。
死んだ後の心配までするような歳になったっていうこっちゃね。
母の手作りの雛。
何年かぶりに出してみた春。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます