嬉々是好日 L`Atelier de Megummy since2000

行く先々でMIX犬疑惑を掛けられているビーグルならぬ、ぴーくる姉妹との徒然や、常が旅の途中な日々を綴っている備忘録

ありがとぉ!!!

2008-07-04 | megummy's

昨日、一昨日は…。

心底、「みんなありがとぉ~!」なことが沢山ありまして…。

その都度、「ありがとぉ~!」って言ってたら、言ってる自分って、普段、気付かない内にこれだけの人に支えられてるんだわぁ~って実感と共に、真摯に正直に素直でいる自分すら、「あ。自分にもありがと」って思いました!

自分で言うなって感じもしなくもないけど(笑)

人間は別に何かを期待して善意を見せるのではないと思うし、見返りを期待して尽くすというわけでもないだろうし。

ただ、ただ、自分の出来ることをするってことの積み重ねが、とある時に、自分に返ってくる喜びやら、嬉しさって。何物にも代えがたい宝石みたいだなぁ~って思います!

ここ1ヶ月の色々が、それはまだきっと、プロセスの中にある結果の1つなのだろうけれど。起こるべくして起こったって感じの納得に。それすら感謝で。見えない時ってホント自分の立ち位置すらが見えないから、どう動いていいのか分からずに闇雲に動き回って、色んなとこにぶつかって痛い想いをするけれど(笑)

やっぱり、物事って単純なのよね…。

単純なことが連続して起こるから、複雑に見えるけれど、そこには何か必ずココってことがあって、それを丁寧に観ていくと。やっぱり単純なことが見えてくることに一期一会の不思議さを感じます。

ちょっと、意味不明なことばかり書いてるけれど、完全復活!

で。

そもそもが、私は。ずっと観察ってことを強いられてきた人間なので、それは無意識に自分の中に組み込まれているのです。他者との関係において、何かしらの問題場面を考察する時、プロセスレコードっていうものを使い、スーパーヴィジョンっていうのをするのだけれども。これって、ずぅ~と繰り返し行っていると、レコード化しなくとも、頭の中で描けてしまったりするものなんですね。

そして、更には、私。状況から発生する人の言葉や行動を因子分析し続けてきたので。その時々、「視た」「視た」って瞬間があって。それはナンとも表現し難いのだけれども…。

多分きっと人間には、自己と他者って境界線があるのだろうけれど、時々、私、その境界線を越えて他者が見えてしまうときがあるのです。その見えてしまったものは、きっと本人が隠しておきたい部分だったりして、だからこそ、そこに触れるのはタブーなんだと思うのでね。それを-と見なさず、それはその人自身であって、その人を構成する+の一部なんだって思うのね。

私、昔からね、人やら物事を+に見る天才って言われて続けてきたのね(笑)面白くないことを面白く楽しめる天才とか(笑)

それは何でなのか良くは解らないけれど、きっと、「?」ってことを-要素として斬捨てて行く人も世の中にはきっと居て。その-が積み重なると、一定の許容量を越えた時、結局はその物事を斬捨てていくのだろうなぁ~って思うの。その切捨てられた部分には、きっと、嬉しいことや楽しいことの要因だってあるはずなのに、-評価を下した時点で、そんなことも斬られていくんだろぉ~なって…。

そうするとさ。自分に戻ってくるちょっとした幸せというか、そんなささやかなことすら感じられなくて自己肯定感がすごく低くなるよね…。こんなはずじゃないかったトカ、こんな評価しかされないトカね、その時々を自分が選んでいるはずなのに、選んだことに対して-ばかりを付けていったら残るものがないのは当たり前じゃない…?

でも、そぉ~やって生きてきた人は、そぉ~やって生きてきたからこそ、そういう生き方しかできないし、そういう生き方でしか自分を守れないのだと思うの。そうやって守ってきた自分だからこそ、何らかの影響が自分に与えられた時は、すごい違和感とすごい恐怖感を感じて、ますます守ることに必死になるのだろなぁ…。と。そして、その変化を拒んで、やっぱり-として切るのじゃないかな。

自己と他者の価値観や生活感は当然違ってて、違ってるからこそ、そこに関わるときにお互いが変化していく、その変化がとても素敵なんだと私は思ってて。人間って1人じゃ変われないからね、だから他者との関わりの中で自己を覚知して確立して、そしてまた変わっていく中で、確立できた瞬間が自己肯定なんじゃないかなぁ~と。

生きてくことって、変化していくことなんだよね(笑)変化を望まない、自分は変わっていないと思っていたとしても、毎日の人との関わりの中から得るものがあって、与えられているものがあって。その相互作用が既に変化のプロセスの中にあるってことを自覚してね、得られた+を、与える+にしていくことって、それはまた自分に廻ってくる+になる、それこそ目には見えない廻り合わせ、仕合わせ、為合わせなんだと思うの。

大勢の人に囲まれて、楽しそうに振舞っている人を見ていると、時々、その中にさ、楽しそうなんだけど、この人ってきっと孤独で満足してないんだなぁ~って思う人が居てて。それは、なぜか不思議とその人が浮き上がって見えて感じられる時があるのね。

きっと孤独だからこそ、大勢の賑やかなところで、自分は孤独じゃないよって思ってるのだと思うのだけれども、目に見える形と、その内実は違うからね。やっぱり、居ることを楽しむってことも既にその変化に乗るってことでさ。変化を拒みつつ、でも、人と居ることで自分の孤独を気付きつつ、見ないふりをしてるって、すごく痛い人だなぁ~って思う時があります…。

孤独って悪いことじゃないと私は思ってて、1日のうち数時間を独りで過ごすことって、寂しいことじゃなく、フィードバックの時間だって思うのね。良いことも悪いことも含めた、1日の感謝の時間とかさ。その時には感じられなかったことを振り返ることで、こういう意味があったんだね、自分。って、自分への問いかけの時間が1人になる時間というか。

独りが寂しいから、他人とワイワイしたところで、ホントの孤独からは抜け出せないし、それは、より一層に孤独を増すだけなんじゃないかな…?

ナンかさぁ、そういう人の本質的なものを感じる時ってね。隠すことは辛いでしょ…。疲れるでしょ…。そのまま素を出したって否定する人は居ないよ。トカ、ちゃんと受け止めるから大丈夫だよ。とかって、なんだか切なくなるだよね。決して、口に出しては言わないけれども。それを言ってしまったら、その人にとってはもしかすると自分の生き方を全否定されているように感じるだろうし、簡単に今までの自分を変えることなんて出来ないから。

からこそ、今、変わることを恐れちゃいけないよ…。って心の中で思うのですよ。

失敗が許されない中で育った人は失敗を恐れるからこそ、守ることに必死なんだろうなぁ~と。失敗した時にね、「いいんだよ。大丈夫だよ」って抱かれることをしてこなかった人は、抱かれることすら知らないんだろぉ~ねぇ…。

自分で一生懸命に守らなくても、誰かが守ってくれるとか、抱きしめてくれる安心感を知らないって、痛くて切ないことだと思う。そういうことを知ったらば、もっと楽に生きられるのにね…。

そんな「楽」とかが、当たり前の中の幸せを感じられたり、与えられたりするのだろうし、自分の許容範囲を拡げていくことにもつながるのじゃないかな?受け入れる隙間がなかったら、それはただ不快なことで、違和感で。

その違和感を感じる自分が、なぜ感じるのかって自分の問いかけを繰り返していくことで、受け入れるってことに変えていくのは決して難しいことではなく。ただ単純に自分って我を捨ててみるってだけのことなんだけれど。やっぱり捨てずに蓄積された我は、それこそ、自分自身を捨てるって恐怖なんでしょうね…。

まぁ、まぁ、長々と色んな思うことや考えることを書きとめてみて(笑)
すっごく、良いタイミングで自分に良いことが起きてくれたなぁ~って思ってます!そして、昨日程に、全てのタイミングが合致した日は中々ないので、違う価値観で生きてる人達が、同じタイミングでものを言ったり行動していることの不思議さや、それを受け取けとれたことに感謝!

胸の支えが綺麗に、スーって消えました(笑)

捨てる神あれば拾う神あり。日本語ってすごいよね(笑)両方の神様が自分に御降臨あそばしたみたいな実感っていうか(笑)

1つの変化を受け入れて、少し、自分が変わったことが。こんなにも全てを変えるって世界観の変化に、単純に、みんなに「ありがとぉ^^」