テッド・チャン。先の掌編といいこの作品といい、チャンは決定論者なのだろうか?
実はわたしには自由意志なんていうもの決定権なんていうものの欠片も持っていない
というい事を突きつけられているような気がする。
ラプラスの悪魔。ニュートンが切り拓いた古典力学をもってして
宇宙のすべての要素を知り、計算できれば決定論的に世界は展開
する。従って未来は予測可能だ。
その計算をなしえるのがラプラスの悪魔である。
当然現代では量子力学により不確定性原理はスタンダードな
考え方になったので、かの悪魔はその存在を根底から覆されてしまった。
エヴァレット解釈によれば、悪魔自身の存在がその観測結果をも
変更してしまうわけだし。
そして、この作品。簡単に言ってしまえばタイムトラベルなんだけれど
(ふとスタートレックシリーズの時の門を思い浮かべた)そこは今風に
タイムマシンが作成された時点よりも過去へは行けないというような制約もある。
だが、ここで表されているのはそのタイムトラベル自身を包含して
それ自体も定められていたことのように語られる、強い決定論だ。
ウロボロスもメビウスもそれ自体がそれ自身を観察されるもしくは
その様相を決定付ける内包した要素であればその上位概念にあたるメタが
どこかに存在すると考えてしまう。
しかし、チャンはメタという存在を描かない。この無限連鎖とも思われるこの小説。
ただの運命論者でもなければ、小難しい理論を振り回すわけでもなく、
それは、そのタイムトラベルをも包含してすでに定められていたことであり、
そこに悔悛、償い、そして赦しがあるという。
わたしはどこから来てどこへ行こうとしているのか?
の答えがこれなのだろうか?
セリーヌの言う魂は浄化も穢れもせず、ただ行くだけと。
得てして人は自分の意思で何事も判断し決めているように感じているが
本当にそうなんだろうか?
もっと言えば、自由意志というものがとても重要と感じているがきちんと
考えた結果だろうか?
かなりの人がそんなことは考えないのではないだろうか。
この小説の最後はとても切ない終わり方をする。それは商人がその
すべて、まさに全てを受け入れたからだろう。
実はわたしには自由意志なんていうもの決定権なんていうものの欠片も持っていない
というい事を突きつけられているような気がする。
ラプラスの悪魔。ニュートンが切り拓いた古典力学をもってして
宇宙のすべての要素を知り、計算できれば決定論的に世界は展開
する。従って未来は予測可能だ。
その計算をなしえるのがラプラスの悪魔である。
当然現代では量子力学により不確定性原理はスタンダードな
考え方になったので、かの悪魔はその存在を根底から覆されてしまった。
エヴァレット解釈によれば、悪魔自身の存在がその観測結果をも
変更してしまうわけだし。
そして、この作品。簡単に言ってしまえばタイムトラベルなんだけれど
(ふとスタートレックシリーズの時の門を思い浮かべた)そこは今風に
タイムマシンが作成された時点よりも過去へは行けないというような制約もある。
だが、ここで表されているのはそのタイムトラベル自身を包含して
それ自体も定められていたことのように語られる、強い決定論だ。
ウロボロスもメビウスもそれ自体がそれ自身を観察されるもしくは
その様相を決定付ける内包した要素であればその上位概念にあたるメタが
どこかに存在すると考えてしまう。
しかし、チャンはメタという存在を描かない。この無限連鎖とも思われるこの小説。
ただの運命論者でもなければ、小難しい理論を振り回すわけでもなく、
それは、そのタイムトラベルをも包含してすでに定められていたことであり、
そこに悔悛、償い、そして赦しがあるという。
わたしはどこから来てどこへ行こうとしているのか?
の答えがこれなのだろうか?
セリーヌの言う魂は浄化も穢れもせず、ただ行くだけと。
得てして人は自分の意思で何事も判断し決めているように感じているが
本当にそうなんだろうか?
もっと言えば、自由意志というものがとても重要と感じているがきちんと
考えた結果だろうか?
かなりの人がそんなことは考えないのではないだろうか。
この小説の最後はとても切ない終わり方をする。それは商人がその
すべて、まさに全てを受け入れたからだろう。