横浜開港記念日6月2日は、その長い歴史とともに横浜市民の祝日=休祭日だった。
その歴史に終止符をうとうとした人が、自身のパフォーマンスのために開港150周年を祝おうという。その大きな「矛盾」に気付いたのか?それとも、一向に入場者数の上がらないイベントに子どもたちを動員して、数を増やそうと考えたのか、今年に限り、市立校のみ「学校休業日」とした。
開港50周年、開港100周年といった節目の年は、日本の横浜、世界の横浜という心構えを横浜市民全体が持とうというコンセプトで、記念日を迎え、市民総出で祝日を迎えた。そんなことに思いも至らず、「改革」とは過去・歴史を全部否定することと考えた人たちが、市歌よりも君が代、市旗よりも日の丸、記念建造物であろうと赤字であれば廃止・民営化を唱えた。それが、これまで郷土愛を育んできた市民を落胆させる結果を招く。今回の150周年事業はいかがだろうか?世代を超え、階層を超えた市民がこぞって祝える150周年にしようと考えるなら、これまでの横浜の発展を支えてきた人々、今の横浜に貢献している人々、これからの横浜を担う子どもたちに、感謝と希望の思いを表す祝祭ではなくてはならないはずだ。
100周年記念で係留された氷川丸は、日本郵船の歴史=心だという社是でもあるのか、閉鎖した氷川丸を8か月の歳月と多額の費用をかけて改装し、開港150周年を待たずにオープンさせた。それに対し、世界一高い灯台としてギネスにも載っているマリンタワーは、公的な運営を取りやめたことから灯台の役割を終える結果を招き、目玉をなくした施設ではなかなか引き取り手が見つからない。どんな取引きをしたのか、ある不動産会社が運営を担い、150周年記念をうたい文句にリニューアルオープンとなった。それが新しい目玉となりうるのか、それとも数年後に高級マンションに姿を変えてしまうのか、今後の動向を注視していきたい。
とにかく、この開港150周年記念事業が、観光客誘致や某人のパフォーマンスのためのイベントだとしたら、横浜の将来を思う人々の自発的な動きは一部の人だけにしか見られず、結果、作られた入場者数で「成功」という大本営発表で終わるに違いない。つまり、伝統・文化と歴史、それに敬意をはらって接してきた人々を否定した人物は、歴史に汚点として名を残す結果となる。それが歴史の必然であることを知らないばかりに。
その歴史に終止符をうとうとした人が、自身のパフォーマンスのために開港150周年を祝おうという。その大きな「矛盾」に気付いたのか?それとも、一向に入場者数の上がらないイベントに子どもたちを動員して、数を増やそうと考えたのか、今年に限り、市立校のみ「学校休業日」とした。
開港50周年、開港100周年といった節目の年は、日本の横浜、世界の横浜という心構えを横浜市民全体が持とうというコンセプトで、記念日を迎え、市民総出で祝日を迎えた。そんなことに思いも至らず、「改革」とは過去・歴史を全部否定することと考えた人たちが、市歌よりも君が代、市旗よりも日の丸、記念建造物であろうと赤字であれば廃止・民営化を唱えた。それが、これまで郷土愛を育んできた市民を落胆させる結果を招く。今回の150周年事業はいかがだろうか?世代を超え、階層を超えた市民がこぞって祝える150周年にしようと考えるなら、これまでの横浜の発展を支えてきた人々、今の横浜に貢献している人々、これからの横浜を担う子どもたちに、感謝と希望の思いを表す祝祭ではなくてはならないはずだ。
100周年記念で係留された氷川丸は、日本郵船の歴史=心だという社是でもあるのか、閉鎖した氷川丸を8か月の歳月と多額の費用をかけて改装し、開港150周年を待たずにオープンさせた。それに対し、世界一高い灯台としてギネスにも載っているマリンタワーは、公的な運営を取りやめたことから灯台の役割を終える結果を招き、目玉をなくした施設ではなかなか引き取り手が見つからない。どんな取引きをしたのか、ある不動産会社が運営を担い、150周年記念をうたい文句にリニューアルオープンとなった。それが新しい目玉となりうるのか、それとも数年後に高級マンションに姿を変えてしまうのか、今後の動向を注視していきたい。
とにかく、この開港150周年記念事業が、観光客誘致や某人のパフォーマンスのためのイベントだとしたら、横浜の将来を思う人々の自発的な動きは一部の人だけにしか見られず、結果、作られた入場者数で「成功」という大本営発表で終わるに違いない。つまり、伝統・文化と歴史、それに敬意をはらって接してきた人々を否定した人物は、歴史に汚点として名を残す結果となる。それが歴史の必然であることを知らないばかりに。
聞くところによると、この日のためにわざわざ呼んできたとか。
いったい、誰の差し金でしょうか。
そして、こんなクルーザーのオーナーとはいったい…