散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

セントラルグリルが消えた日

2014年12月02日 | ★メタ坊徒然草

唐突ながら、アップします。
アップするきっかけは、2010年12月27日にこのブログで取り上げた神奈川県庁隣の「セントラルグリル」(←ここをクリック)が閉店し、解体が進んできてレンガ壁が出現したことに話が始まります。

自分のブログの更新をほったらかしにしても、いつも拝読させていただいているブログ「中華街探偵団・酔華」を読んでいたら、セントラルグリルの解体についてコメント(←ここをクリック)がありました。
セントラルグリルの跡地・本町1丁目1番地(現在)から赤レンガ積みの壁が出現したというのです。
「横濱開港の舞台・関内街並復元絵図(平成9年刊)」には、明治中期に福島商店横浜支店(下絵)の煉瓦建築が建っていたとあります。


市民グラフヨコハマ46号「ザ・ファーイーストに見るヨコハマ」には、町会所(現・横浜市開港記念会館)の前に建つ福島商店の後ろ姿が写っており、煉瓦づくりであることがわかります。(下写真をクリックすると周囲の状況がわかります。)


しかし、横浜市は、関東大震災と横浜大空襲という2大災害に遭っているうえに、米占領軍駐留に伴う接収にも遭っています。
昭和5年に作成された「土地宝典(民間有志で作成した土地台帳)」には、本町1丁目1番地は、北仲通1丁目6番地とともに小野合名会社の所有となっています。ちなみに、2番地は明治屋、3番地は江商株式会社、4番地は日本銀行、5番地は箕田長三郎で、すべて背中合わせのの北仲通の土地を所有していたようです。(下写真をクリック)



今現在、土地所有がだれなのか。登記所で調べればよいのですが、とりあえず、明細地図(表札看板調査等で判明した名称・氏名をあらわした地図)で調べてみると・・・
【昭和31】では、スーベニア中島屋。

【昭和34】には、すでにセントラルグリル。

【昭和37】隣りは、明治屋から日経新聞になっています。


さて、終戦後の昭和20年10月2日撮影という航空写真には、ガレキの山にも、赤煉瓦の建物が本町1丁目1番地に建っているように見えます。煉瓦の建物は、震災、戦災の2重苦をかいくぐり生き残ったのでしょうか?


どうしても気になって、我が家の本棚をガサゴソと探してみたところ、「マッカーサーの見た焼跡(1983年文芸春秋社刊)」という写真集の中に、こんな風景(下写真、クリック)を見つけました。

マッカーサーの専属カメラマンとして同行、昭和20年8月30日厚木に降り、同年12月にアメリカに帰国するまで、横浜や東京のスナップ写真も記録していたフェーレイス氏が撮影したものです。
赤煉瓦はあったのか?なかったのか?専門家は「あった」と判断し、煉瓦壁は保存修復されて、またひとつ横浜の歴史的建築物として記録されることになったようです。
このような問題を目の当たりにしていると、どうせなら、使い道がしっくりしないみどり税を、歴史的建築物の保存に充てられるようにしたほうが、三井物産ビルの問題を考えると、もっと有意義になると思うのだけど・・・。


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