棚田に関わって・・・。
「控え目で、主張しすぎない、攻撃を仕掛けない、謙虚な日本人と田作り」
昨日までは梅雨の晴れ間で二日間は雨があがっていた。恐らく、刈り取りを迫られている秋播き麦の穂も乾いていることだろう。予定では朝から、第二回目の刈り取り日だ。
娘は函館にコーヒーの営業を兼ねて、兄に会いに行き留守なので、店は仕方なく昼までは休んで、麦刈に行く準備をしていた。
ところが、出かける手前で激しく降ってきた。やがては、降ったりやんだりの梅雨らしい天気に戻ってしまった。念のために、麦生産者組合(仲間内では、ふざけて組合などと呼び合っているのだが・・・単なる数人の地元ⅰターン同士である。)の組合長補佐(村内の屋台カレー屋のヨウちゃん)に電話をした。
『早く刈り取らないと、実が落ちて収量が減るのだが、雨では穂が重たく濡れて脱穀もし辛いので、残念ながら、今日は無しにしましょう。』との返事であった。どこまでも手探りの麦作りである。
中止。それでは、ということでイタリアンブレンドを製菓用に焙煎をして、出荷準備を完了していた。
雨の日の美麻珈琲。きょうは平日で来客は少なしかなぁー。
開店後、しばらくして来られた地元の親子三人組み。お歳は私の両親よりは少し若いかなぁ。恐らくは美麻の方で、よく来られる。父さんはコーヒーを、母ちゃんと娘さんはカフェオーレを注文された。そして手際よくオーダーをお出しした。
その間にコーヒー豆を買いに来られる方が、今日はたまたま多くて、四組ぐらい続いていた。コーヒーを粉にし、雑談なりで、小一時間が過ぎ去った。
ところが先の三人さん。コーヒーと同時に聞いていたケーキ三品をお出しするのをすっかりと忘れていた。「すみません」すっかりコーヒーは飲み干しておられる。イライラもせずに(そのように観えたが)、そのうち気がつくだろうと、ただ今か今かと、ケーキが出てくるのを待っておられた様子である。
街場なら「ええ加減にセンカイ!」であろう。今の時代、常には少しの不手際に皆がいら立っている。
お父ちゃんが職場で上司(その上司は顧客からエスカレートした要望・苦情を突き付けられて)にあたられて、家庭に持ち込み妻へ、お母ちゃんは子へ、子は猫を蹴飛ばすという具合にイライラがさらなるストレスを生み、さらに弱い者へと及ぶ・・・。
余談だが、御当地では間違ってそれに近いお客様は皆無である。街ではそれが常であり、特に最近では販売員も可哀そうなくらいに、意味が理解できない不満をぶつけられることが多い。
さて、私も田舎の代名詞「丹波篠山」の育ち。若いころは、そこで暮らす大人たちの言動は相手を許容して、耐え忍ぶ風にしか映らなかった訳だった。しかし、今となっては、それ以上に、大らかで寛大で、その奥深い性格とは何から生まれるのかとおもうのである。
九州の入り口にあたり、倭国を構成する三十国の中のひとつでもある4千余戸の末盧(まつろ)という国があったらしい。末盧国の津の所在地は秀吉が朝鮮出兵で名護屋城を築いた近くの、イカで有名な「呼子」のようだ。
①「~草木茂盛し、行くに前人を見ず」
②「好んで魚鰒を捕え水深浅となく、皆沈没してこれを取る。」
『三国志』という歴史書の中の一節の巻三十にある『魏志倭人伝』では2~3世紀の日本列島についての二千字におよぶ記載がある。最も有名なのは女王卑弥呼が登場する邪馬台国についての記載だが、AD238年に来倭した郡使の報告書をもとに「陳寿」がこの倭人伝を記述している。
その頃は米づくりも始まっていたのだろうか?草木が繁茂して「前の人が見えんわぁー」の状態であったのか。半農半漁で魚も潜って取っていたのかなぁ。当時から、温暖で穏やかな気候に恵まれた中で育ってきた我々の先祖は、その分だけ植物に、特には旺盛な雑草と対峙しなければいけなかったのだろう。
耕作面積の少ない田畑を除草し、耕作する時の方法とは、すべてに人力であり、馬や牛を多用することが少なかったようだ。西日本に渡来した騎馬民族は例外として、たくさん馬を飼っていたアイヌなども馬や牛は財産であり、乗ったりすることはなく家の宝として飼っていたらしい。
中部地方から東日本にかけては家畜に犂(すき)をひかせたりすることは、加賀国と山梨の一部で記録としてあるぐらいで、明治になるまで使われてこなかったらしい。
そんなわけで、日本では総体に犂を使う歴史が浅く、鍬のみで耕作してきたようだ。耕すにも、畝を上げるにも、鍬で引くという動作を繰り返し、続けた。
ちなみに「口取り」という方法で牛を引き、東日本では南部牛に鉄などを背に付けて、鋳物で有名な川口や遠くは中部地方の信濃川河口の新潟三条まで来たようだ。また帰路を空身で牛を引っ張って帰るのは面倒ということで、そこで売ってしまったようだ。その地に自ずと牛が増える。その結果、その牛を使い、塩を背にして奥地まで荷揚げした。糸魚川から松本への塩の道でも、多くは3頭以上もの牛に塩を積み、ひとりの馬子が引いたらしい。
ところで、鍬の種類の特徴も様々である。鍬の地域による形状の違いは、その土地の特徴を反映した鍛冶屋さんの造りの違いとされている。こちら長野ではよく見る、下記の「上田鍬」という形のものは、関西では珍しいので形に重さに驚きであった。
平鍬・・・田畑の作業全般向け。畝立て、整地など。一般的に見かける形の鍬。作業的には「打引鍬」に属し、打鍬(鍬先を土壌に打ち込み、柄を持ち上げることで土壌を引き起こすもの)と引鍬(地面に平行に引き込むような動作で作業する鍬)の中間的存在の万能鍬。
唐鍬・・・田畑の作業全般向け。掘り起こし、硬めの土や未開地の耕起、砕土。
備中鍬・万能鍬・・・土の塊をほぐす、深堀、耕起、掘り起こし。
開墾や耕起等に使われる打鍬の一種。刃床部が三股、四股になっている。収穫等にも広く使われ、特に土の中の根菜類を掘り取るために使用される。(堆肥万能鍬は備中鍬に似ていて刃先が尖った鍬)
ジョレン・・・土砂等をすくったり、ならしたり。草を削る、切る、集める。
ウナウとは、耕地を耕起すること、サクルとは作条、畝立て、中耕などの作業をさし、両方の作業ができるよう2本の鍬をもっていることが農家の一人前の条件でした。ウナイ鍬は、深くうち込んで土を起こすので重く大きいものでしたが、絶対的な呼称ではなく、男性のサクリ鍬を、女性がウナイ鍬として使用する場合もありました。柄の角度、長さは、耕作する土地の状況、地域に左右される。
引くという行為に戻り。
「草木茂る」この国の農耕は繁茂する草を除草する作業の連続である。その鍬、鎌も、すべては手前に引くわけである。
反して、犂(西洋では馬で鋤くという文化からトラクターが生まれたのだろうか?)、スコップ、フォーク(牧草などを突き刺し、跳ね上げ反転させるもの)などはヨーロッパの突くという行為の道具である。
実は日本の鋸も鎌倉期ぐらいまでは突いて切っていたようだが、潜在化されている性分性格からなのだろうか?手前に引くという具合に変化している。
グローバル化の波が押し寄せる今日、我々は依然「灰色的」「推し量る」「控え目」「謙虚」「出しゃばらない」「攻撃的でない」などが主流である。行き過ぎには問題があるが、永年培い、日本人の『引く』から生まれた性格のそれは決して、短所でないとおもえるこの頃である。
利他の心、友好の旗印のもと、もちろん戦前・戦中の負い目もあるのだろうが、それでもゴリ押しで内外に平和とは程遠い好戦的な態度で肥大する軍備を抱えるその国に国際協力・援助を繰り返す「引く国」も特異?という例もあるが・・・。
今しがた、ヨウちゃんが脱穀した麦を持って来てくれた。すでに夜道なのに。
午後の晴れ間を見て、脱穀作業をしてくれたらしい。話をしていて、自ずと頭が下がる。今日の分け前は強力小麦一袋。ほめく(発熱)ので、急いでガレージに干した。
ゴミを飛ばすトオミはどこにあるのか。粉にするにはどこでやるのか。自前の地粉100%で「天然酵母石窯パン」作りもこの先が長いぞーと。
平成二十一年七月十三日
(雨のち曇り時々晴れ)