五月の連休のワークショップで稲ワラで壁を積み上げ、壁を漆喰で塗る。
その作業を行なう前段階で屋根まで仕上げる必要があるので明日から一ヵ月現地で籠もります。
その間は入れ代わりたちかわり、平均3~4人が集い、作業をすることになるでしょう。
パソコンの接続がうまくいかず、ノートパソコンは持ち込まず携帯からのブログの更新となります。
五月の連休のワークショップで稲ワラで壁を積み上げ、壁を漆喰で塗る。
その作業を行なう前段階で屋根まで仕上げる必要があるので明日から一ヵ月現地で籠もります。
その間は入れ代わりたちかわり、平均3~4人が集い、作業をすることになるでしょう。
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4月3日
今年の春から新たにスタートする兵庫県神崎郡神河町の山村留学センターを訪ねた。
三田から高速道ではなく、篠山市今田→西脇→加美町→神河町へと下道でも一時間ちっとで到着した。
長野県から前日に赴任した若い2人の男女指導員に差し入れをと、うちのケーキを持って立ち寄る。山峡の鉄筋三階校舎を改築して宿舎や活動の拠点としている。中身は新築の雰囲気である。体育館や川を挟んでプールも、当然だが運動場もあり、これまでの山村留学センターの施設とは異なる。
桜のつぼみがまだ固い信濃の地から、遠く播磨・丹波・但馬の国境いへ来たおふたり。
恐らく、戸惑いはするものの、これまでに培った「育てる会」流の誠実な生き様と指導力を継承され、根付かせていかれることでしょう。明後日に入園を控えているので、長居は禁物とそのまま、さらに上流の林道から銀山で有名な生野の上部から青垣を抜け丹波に入った。(その道は落石が多く後悔したのですが・・・)
途中、実家に立ち寄り、賄い用の祖母が育てた野菜を積み三田に戻っる。
「兵庫の山々」
高校に入って直ぐに多田繁次さんの本「兵庫の山々」に魅せられて、当時よく登った山を久しぶりに播磨・丹波・但馬の三国境いから眺めた。(当時の本は書店では見かけない、今は続編の多田繁次著「兵庫の山々 総集編」 神戸新聞出版センターが一般的です)
35年前、手紙のやり取りがご縁で、兵庫県氷ノ山の帰りに実家に立ち寄っていただいた多田さん。その際、酪農の仕事で遅くまで働いている両親の姿を見て「親を助けて、しっかりとした大人になりなさいよ」と慈愛の眼差しで諭された。
多田さんの紀行の文章からは司馬遼太郎はじめ多くの人が敬愛してやまない民俗学者の歩く巨人「宮本常一」に通じるものの視点があったなーと、最近になって想う。生きておられたら祖母と同世代の90歳の後半であろう。
県北の浜坂出身で新田次郎著「孤高の人」のモデル加藤文太郎をはじめ、近代登山の創成期の登場人物もあり、当時ワクワクして読み耽った。
図書館に何気なくおかれたその本になぜ興味を持ったのか。
幼い頃、近所の上級生に連れられ登った裏山のさらに奥の奥。その尾根越しの木の上からの眺望はこれまで見慣れた日常のものとは違った。異郷の風景のように新鮮であった。決して、かけ離れた未知の世界の話でもなく、少年期に自分の暮らす地から放射状に行動の広がりをもたせてくれたのがこの本だった。そして最初に出かけたのがこの神河山村留学センターからも登れる「千が峰」だった。母の実家から正面に眺めことができる山。冬、この辺りでは珍しく雪をつけることが多い。
人に出会わない・ゴミの無い・静かな兵庫の低山に次々とでかけ、やがて興味の対象は当然のように信州の山へと繋がっていった。
財団法人育てる会の「低学年スキー」のボランティアで子供達とここ数日を過ごす。合い間を縫って現場にでかけた。
ベタ基礎の上に高い目の立ち基礎。その部分が地階となり、車庫と倉庫に使う内部はその基礎のパネルをそのまま剥がさずに使用する。丁寧で美しいパネルを大工の衛さんが苦戦しながらはめ込んでいた。
申し訳程度に手伝い、子供達のいる宿舎に戻る。ちょうど夕食が始まったところだった。
大阪の亀さんがプロ用のテレビビデオカメラを届けに来てくれた。建築の記録用にと預かるがメカ音痴なので使えるのか不安である。白馬に15年前まで通い続けたという彼。今時のカービングスキーにしたらもっと滑れたことでしょう。数本のリフトでブランクを感じ諦めたとか・・・。
前後して、神奈川から知床の友ふたりが現場に向かっているとの連絡。子供たちと一緒なので身動きがとれずどうしようもないので電話のみのやり取り。しかも日没時間もすぎるであろうのにやって来るのである。
やがて初めての場を「月明かりで見てきた」と電話の向こうで叫んでいる。5月の中頃に出直して、建築作業に来てくれるらしい。バレンタインに送った大量の友チョコが効きすぎたようである。
この1週間は三田に戻り、店の庭の手入れ、こんな時に取れてしまった歯の治療などを片付けて、次回は1ヵ月のメイン作業です。
日本ストローベイルハウス協会主催、5月連休の「ワークショップ」も順調にメンバーが20名集まり締め切ったようである。
その前後の素人の方をただいま、シフト調整中です。
山村留学とは
山村留学とは、都会の子どもたちが、長期、親元を離れて農山村や漁村のまちへ転入し、その地域の学校に通うことです。山村留学は、昭和51年、長野県八坂村で財団法人「育てる会」によって始められました。現在は、さまざまなかたちの山村留学が全国にひろがっています。
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「おじさんリーダー」売木・夏体験
三人の子供たちのそれぞれが小学校高学年の二年間、美麻学園で山村留学を終えて三年が過ぎようとしています。その間は幾度となく長野に足を運ぶのが習慣になっていました。修園をしても秋の収穫祭には「屋台・ケーキ店」を続けてはいたものの、それでもポッコリと何かが空いて落ち着かないでいました。それは山留を去りがたくて、多くのOB父母たちが経験をしていることだろう『山留を終りたくない・シンドローム』かな。そんなこともあり、昨年から売木の「夏の活動リーダー」を引き受けています。
初回は緊張しまくりの一週間でした。センターの指導者以外のリーダーは大学生が中心であり、子供の頃から自らも活動を経験してきたWALKメンバーです。その中に不慣れなおじさんが入るのですからどの程度、務まるのか?疑問でした。でも昨夏とこの夏のⅠ期と長期班を終えてみて感じることは、これまでの社会経験で、自分なりのスタンスで、子供に接すればそんなに悩むことはないのだという事でした。
我が子が育てる会にお世話になったので、せめてもの御礼の気持ちで始めてみたのですがそれには考えていた以上の収穫がありました。これまでは子供を送り出す側の視点しかなかったので、それは新鮮な体験になりました。
その現場に入っての印象は・・・
指導員が真剣に子どもに向き合い、「今、最も優先すべきことは何なのか?」を判断していて、状況に合わせをして改善していく連続には感心しました。決して、淡々とこなしてはいないという事です。
幾分は年単位の山村留学で指導員の方が子供に接している姿で理解をしているつもりしたが、ミーティング等で最善を探ろうとする若い力を眩しくも感じました。継続生のような先輩のいない中で、且つ短期間でありながらも「この場面は子供にはどのように判断をされるのか?」など「与えないで、考えさせる育てる会流」が行事にも定着しているように感じました。
リーダーをやってみての感想と成果は・・・
①子供に何よりも癒される。時には労わってくれる。
②大人社会と同じで、相手を認め・褒めて・任せる事は子供にも必要であり、そのやり方に間違いがなかったという確証を得ることができたこと。
③現実社会・世相が縮図となり子供の言動・行動に現れているということが良く理解できた。
④当然ですが子供達の性格は形づくられており、期間中に接していて「これからどんな大人になるのだろうか」という期待感を抱かしてくれる。
例えば、頑固な子は意志が強い人に、強情な子は根性がある人に、理屈っぽい子は筋を通す人に、ワンマンな子は指導力がある人に、でしゃばりの子は外交的な人に、図々しい子は物怖じしない人に、不平不満が多い子は批判力に富む人に、根暗な子は物静かな人に、やる気のない子は大器晩成型の人に、それぞれなっていくのだろうな?
⑤これはオマケだが、成長した我が子には見放されてもさらに幼い子ども達が遊んでくれる。そして、下界では暑い夏も涼しい売木で規則正しく過ごすことで日頃の体調不良も日増しに改善されたこと。
子供から大人になろうとするゼイ変の時期、『このように生きるのだ!』と覚悟して、人生の脚本を書き、その第一歩を進みだすのは中学生前半と聞きます。その覚悟をしていくまでの過程に興味があります。その人を育んだ両親や周りの大人、環境(風土)など生い立ちの中での影響が絡み合います。その性格が形成されて人生をこのように生きようとする決断の過程。自分を含めて、今なぜココに住み、その職業を選択し、何を思い生きているのかという風に、歴史上であれ、現代を生きている人であれ、その人の一生に覚悟をいだかせたものに興味を惹かれます。
子供達の多くがその決断の時期において、非日常生活の『活動』が何らかの形で少しでもプラスに働くことを願いつつ、来年も若者の間に空きがあれば、是非やってみようかなとおもう夏の終りです。そして、先のシンドロームのあなたもいかがですか?
「育てる」誌 2005年8月 原稿
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