徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

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書評:カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳、『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)

2017年10月16日 | 書評ー小説:作者ア行

昨日は日本に一時帰国してた友人と会って、頼んだものの他にもいろいろと頂きました。その中にカズオ・イシグロの『Never let me go』の日本語訳『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)があり、そもそも原文で読もうと思ってすでに注文してあったことや、ピケティの『21世紀の資本』が読みかけであることなどをさっさと頭の隅に追いやって一気に読んでしまいました。解説・あとがき含めて450ページというのはそれほど長編ではありませんが、読み終わった時は夜中の2時半をゆうに過ぎてました(自宅療養生活バンザイ!(笑))

話の大筋はYouTubeで映画『Never let me go』(2010)を見てたので知ってはいたのですが、翻訳ではありますが原作を読んで改めて映画のちょっとした演出の意味が分かったり、映画では表現されてない部分もとても興味深かったりで、読み出したら止まらなくなりました。

もちろんこれにはイシグロ氏の優れた筆致と物語の構成力によるところが大きいとは思いますが、訳者の日本語力によるところも大きいと思います。自分でも副業で産業翻訳ではありますがそういったものに関わっているもので、「翻訳」という作業が「AをBに訳す」という単純なものではなく、目標言語の読者に読みやすく分かるように様々な工夫を凝らさなければならないものだということをよく理解しているつもりです。つまりこの日本語訳『わたしを離さないで』はイシグロ氏の作品であると同時に土屋氏の作品でもあるわけですね。翻訳小説には読みづらく分かりにくいものも少なくない中で、この作品は優れていると思いました。

さて、日本ではドラマ化もされているらしいので内容をだいたい知っている方も多いのでネタバレをあまり気にせず思ったことを書こうと思います。

この物語はある介護人キャシーの独白で、章が進むにつれて彼女の生まれ育ち生きている世界の全貌が徐々に明らかにされていきます。大まかに1970年代のイギリスでひょっとしたら可能だったかもしれないパラレルワールドといえます。論理的に「想像可能」という意味での可能性です。それを象徴するかのように映画ではお店の看板なども含めて文字が鏡写しになっているのだと思います。何十年前のイギリスに見えるけど、そうじゃないんだよ、という感じです。

キャシーと共に施設ヘールシャムで育ったトミーとルースの濃密な三角関係のラブロマンスに目が行きがちではありますが、淡々としたナレーションで明かされていくのは彼女たちの置かれた状況の異常さです。彼女たちは【提供】という使命を果たすために作られた【提供者】です。それが具体的に意味するところはキャシーの子供のころからつい最近までの回想を通して明らかになっていくので、始めの方は結構謎に満ちています。社会から隔絶され保護されていた子供が見聞きでき理解できたことには自ずと限界がありますので、その認知限界をうまく利用してミステリーっぽい物語進行になっているところが魅力です。

その【提供者】が臓器提供者を意味していることは比較的早い段階に明らかになりますが、施設ヘールシャムの本当の役割や子どもたちの創作活動を熱心に助成する教育方針の本当の意味は、物語のクライマックスとしてパラレルワールドの全容が明らかにされる瞬間に語られます。

このパラレルワールドでは彼女たち【提供者】に救いのようなものはなく、提供の猶予がもらえるかもしれないというかすかな希望は残念ながら木っ端みじんに打ち砕かれます。なぜそうなってしまったのか施設ヘールシャムを支えてきたエミリ先生が「仕方ないのよ」と言わんばかりに外の理屈をかつての教え子たちに教え、「自分はそれでも精一杯のことをあなたたちのためにした」と疲れ顔で語ります。「そのことを感謝しろというのは無理な話」とはエミリ先生の協力者であるマダムと呼ばれる女性も言っていますが、そのシステムの冷たさ・容赦のなさはトム・ゴドウィンの古いSF小説『冷たい方程式』を彷彿とさせるような厳格さを漂わせる一方で、提供者の子供たちのために尽力してきたという慈善活動家でさえ努力して「克服」する必要のあった提供者たちへの感情的わだかまり・気味悪いと思う感情が吐露されることで、提供者たちの特異性を際立たせると同時に慈善を偽善的に見せてしまう後味の悪さを余韻として残しています。

ここで問題となっているのは具体的にはクローン技術と臓器提供の組み合わせですが、世に問われているのはもっと普遍的な倫理の問題です。医療技術・遺伝子工学がどんどん進歩していく中で、信心深い人たちにとっては既に「神の領域」に手を出しているかのように思われている様々な技術の可能性に人類はどのように向き合うべきなのか立ち止まってじっくりと考えるべきだとこの作品は警鐘を鳴らしているようです。また同時に人間とは何か、何をもって人は基本的人権が保証されるべき人足り得るのか、一つの社会が何を保証するのかしないのかといった社会的合意と得体の知れないものに対する感情のわだかまりから来る差別問題の関係も改めて問われているように思いました。

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書評:カズオ・イシグロ著、『The Buried Giant(忘れられた巨人)』(Faber & Faber)