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唱元  人生は 思い込み      ・桜の写真 3景

2009-04-11 | 無能唱元・唯心円成会
 人生は 思い込み
 一言でまとめてしまえば、人生とは氣分と思い込みなんです。これがうまく
いっちゃう奴が勝ちなんです。
 では、どうすればいまくいっちゃうんでしょうか?
 堂々めくりになりますけど、それは氣分と思い込みにかかってくるんです。甘い氣分で、うまく行くと、繰り返し考えるんです。これをやっていると、突然うまく行く状態が出現するんです。
 人生について、深刻に考え必要はありません。もともと、人生にはなんの 意味もありはしないのですか。


因果応報
 これは現代的に言えば「思考は原因であり、出来事は結果である」ということです。「何をどう考えるか」が「自分はどんな人生を生きるか」ということを思っているか、ということなのです。
 そしてこの思っているように、あなたは自分の人生を変えて行けるのです。
  これはなんと素晴らしいことではりませんか。なぜなら「何をどう考えるか」は自分の自由になるのですから、「いい思い」や「いい考え」を持てば、あなたは必然的に「いい人生」が手に入いうことなのです。

 あなたの頭の中で考えているのは「あなただけ」なのですから、あなただけが自分の人生をプラスの方向へ導いて行けるのです。

 因果応報とは、まさに「黄金の法則」です。この法則を知り、そしてその使い方を誤らなければ、あなたが幸運を引き寄せるのは簡単なことなのです、

 さあ、あなたも幸運を引き寄せ、
幸福の人生を歩んで行こうではありませんか。

今日と いう日に ベストを 尽くして 生きよう

今日を いい日に して しまおう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<あなたの頭の中で考えているのは「あなただけ」なのですから
<それは氣分と思い込みにかかってくるんです。甘い氣分・・

心一つの置き所ですか・・私は 運が良い と 思い込む
            私は 良い 楽しい 人生だ と 想う
 今 活かされ 感謝 感謝・・・
 心 ころころ ころがして 楽しきこと 多かりき

唱元  不安を克服するには

2009-02-11 | 無能唱元・唯心円成会
 不安というものを放置しておけば
私たちの人生に喜びはありません。いきいきとした人生を過ごすことは不可能です。では不安を葬り去るこはできるのでしょうか?
 その前に次のことを理解してください。

 一度芽生えた不安は、無理やりに抑えつけることはできない、ということです。つまり「不安を恐れてはいけない」と自分に言い聞かせては良くないのです。なぜならば、抑えつけようとしていることこそそのものがすでに不安を助長している行為だかです。
 不安を克服すためにいくつかの方法を考えてみましょう。
 まず、第一に不安の正体を漢然としたものにしておいてはいけない、ということです。それは、精神的外科手術みたいなものです。

一、不安は抑えつけておかず、目の前へ出してみることです
二、具体的に自分がどうなる結果を恐れているのかを理解すること
三、その結果が生じてしまったならそれはその時のことだと思い極めること
四、その問題が解決したシーンを繰り返し瞑想して、アラヤ識に入れること
五、それがすでに解決してしまったように、日常動作を振る舞うこと

 まず最初に、不安が自分にあるということをあるがまあに受け入れるこです。
 なぜなら弱気な心は、無意識層から、後から後から湧いてきますから、一旦生れた不安を抑えることは至難の業です。
 極端な言い方をすれば、不安が頭をもたげてきたら、それはそのままにしておいて手をつけるなということです。
  考えてみると、不安は抑えつけようとしても、たいてい徒労に終わります。他のことを考え、頭の中から不安を閉め出そうとする人もいますが、これはどうしてでしょうか?
 それは問題解決を先延ばしにしょうとしているに過ぎません・忘れたと思ってもも、遅かれ早かれ不安は私たちを圧倒せんばかりに、しかも以前よりも大きくなってやってきます。

 私がここで言いたいのは
 「不安というものは抑えつけずに、ここに出してみろ」ということです
 それができたら、次に、不安の正体をはっきりさせなくていけません。
私たちは不安の正体を何が原因だと漢然とは知ってはいません。それが案外明確にはなっていないことが多いのです。
 じっと自分の不安を直視してみましょう。次第に「失敗すれば他人から笑われことを恐れているのではないか」「人に偉い人だと思われたかった」などということがわかってきたりすることがあります。たとえば、会社で昇進したばかりの人が「自分は管理職にふさわしい人間だと思われたかった」のではないか、だから昇進という重荷に不安を募らせていた、ということがわかってきたりすることもあります。

 何かを決断するときなど、不安に押しつぶされそうになったら、自分を襲っている不安を直視してみるのです。あるいは、分析してみるのです。すなわち、それが不安そのものを理解しようとすること、あるがままに観るということなのです。
 つまり、不安を明るい場所へ引きずり出そうということなのです。そうすれば、

昼間のお化けのように「見たなー」いって恨めしげに消えていってしまうことでしょう。

<不安の正体をはっきりさせなくていけません
 年齢を重ねると、健康面に不安感が湧き出てきたりしますね・・瞑想して、、私は活かされ健康だ・・大宇宙の力・オーラ と 一如であると・・今活かされ 感謝 感謝

<不安そのものを理解しようとすること、あるがままに観るということなのです
 金が無い・・明日は如何しよう・・不安が沸々と湧き出る・・今の金がある・・
今の生活費はたりている・・今を あるがままに・・

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ありがとう という言葉を いつも 使いましょう
良いことが  きっと 増えてきます
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人生の目的
 人生の目的は、楽しくすごすことだ。氣持ちよく生きることだ。
 金持ちでも楽しくなければ、目的を見誤っている。
 貧しくも楽しければ、その道は間違いではない。
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今サッカー中継で、国歌を学生合唱で歌ってます・・良い事ですね

唱元  自分の心を守る     ・人生再起阿呆陀藍羅経

2008-12-31 | 無能唱元・唯心円成会
自分の心を守る
 大切なことは、世間の善悪によって、自分の感情がかき乱されてしまわないことです。はなはだしく興奮したり、憂いたりしないことです・なぜなら、それは当然、精神衛生上よくないことだからです。
 そもそも人間は、自分で自分の身を守らなければならない。すなわち「身守第一」を心がけることが大切なのです。
 人の付き合いは、あたかも大自然の移り変わりを、悠然と眺めるがごとくありたいものです。それは、自然の機能の働きを、あるがままに観てとることです。
 これが諦観です。そして、これにより私たちは、「無事の人」たり得るのです。
 島崎藤村の文章に、こんな一節があります。

昨日また かくてありけり 今日もまた かくてありなむ
この命 何をあくせく 明日をのみ 思いわずらう

 しかし、人間は日常生活において、ただ悠然と、自然を、そして世間を客観視ばかりしているわけにもいきません。
 観る時というのは,静観の時であり、思案の時です。
 この「静」に対し、私たちには「動」があります。それは活動のときです。
 この動の時間帯において、人間は希望の未来を目指し,欲するものを手に入れんとして、全力をあげて励むのです。
 つまり、人間の生体活動とは、この静動二者間の二辺往来をもって成り立っているのです。そして、静は動をコントロールする。ここが重要なところです。
 では、どうしたらコントロールできるのでしょうか。それは一切の現象を、まず、あるがままに観ること、自分の主義主張などの意見や思慮を加えない。すなわち、それらの意識を加えることを、一切諦めてしまうことです。
 この諦観によって、私たちは観ることが自在となります。これを「観自在」といいます。

 是非善悪とは、あらかじめ存在しているものではないのです。それは、その瞬間に、私たちによって創造されるものなのです。そして、誤りなくそれを行なうには、観自在の力を持っていなければなりません。
 そして、常に自分自身をコントロールしていくことによって、その人は、自分自身の主人になっていきます。こうなったとき私たちは初めて「無事の人」たり得るのです。
 そして、無事の生活を得たとき、私たちは思う存分、人生を楽しんで生きることができるのです。

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<人間の生体活動とは、この静動二者間の二辺往来をもって成り立っているのです。そして、静は動をコントロールする。ここが重要なところです。
 では、どうしたらコントロールできるのでしょうか。それは一切の現象を、まず、あるがままに観ること、自分の主義主張などの意見や思慮を加えない。すなわち、それらの意識を加えることを、一切諦めてしまうことです。

何もたさない 何もひかない 何も 色をつけない 何も 色をけさない・・やはり瞑想が必要ですか・・迷走ではいけませんね

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背筋をのばして ゆっくり 歩こう
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 唱元四方山話・よもやまはなし
 人の運命を創り出すものはアラヤ識であるが、これを現代的かつさっくばらんに言ってしまえば、要するにそれは「記憶」というものに過ぎないのである。
 すなわち、人間の運yとは、その人が有している記録が創り出すものなのだ。
 しかしながら、その記憶とは必ずしも、その人の実体験そのままの記憶によるものではない。つまり、事実そのままの記憶ではない。
 それは、事実に対して、その人が抱いた「反応」である「思い」でありさらに言うならば「氣分」ですらあり得る。
 それどころか、時には、記憶とは自らの意識によって想像され、本物とされ記憶されたものであることさえある。
 次に、しの記憶は、プラスのものか、マイナスのものかに分けられるのだ。
 そして、運とは、プラス記憶からは、プラスの結果が生れ、同様にマイナスの記憶からは、マイナスの結果が生れることを言うのである。
 すなわち、人の運の良し悪しは、その人が何を記憶したかにかかっているのである。

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 親しい友人が破産してしまった。
 すっかり元気をなくしてしまい、もう生きる力もないみたいだった。
 なんとか、なぐさめる言葉がないものかと考えているうちに、ふと思い出したことがある。
 それは数年前に作った「人生再起阿呆陀藍羅経」というお経だった。これを唱え、ゲラゲラ笑ってくれたらそれこそ人生を再起出来るのではないかと思い、彼にこれを進呈する次第である。
・・・・・・・・・・
 人生再起阿呆陀藍羅経
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 チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ

 まーず頼む まず頼む 東に登った お日さまに かしわ手二つ高らかに
ぽーんぽーんと打ち合わせ 身の安全と金儲け よろしく願い たてまつる

チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ

 なんの因果か、この身には、富士の山ほど どっさりと借金あれど
 幸いに 食べるにこと欠くことまなく 
 心は秋の青空じゃ ぽつぽつ返済致します。

チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ

人生再起阿呆陀藍羅経、これを唱えりゃ 行く手には 待てば海路の 日よりとか 順風満帆の風が吹く 精一杯の笑み浮かべ いざ働かん 働かん

チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ

 身も心もすっぽりと 裸になってあるがまま 人がバカじゃとののしれば
 お説もっともその通り たしかに私は 愚かじゃと 認めてしまえば 
 氣は楽じゃ

チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ

 世間の賢い人々にや あいそと 媚びで切り抜けて
なんとか時を稼ぎつつ そのうち運も向いてこよう
 今日の命をことほぎて 毎日明るく生きるのじゃ

チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ

えーなーむまいだー

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 先生らしいです・・氣楽に 楽する人に なれですか・・クスクス笑えました
今の時代にピッタリの お経ですね 唱える事により・・潜在意識より奥深いアラヤに クラに・・プラスに転換を  
 皆様 良いお年をお迎え下さい。

唱元  人生はマラソンだ

2008-12-14 | 無能唱元・唯心円成会
 人生はマラソンだ
 人生は百米疾走ではない、無我夢中で走り続けるわけにはいかない。
 まあ、時には全力疾走の必要性も要求される時もあろうが、総じて、人生競争はマラソンである、それも。その人の体力条件に応じた配慮をもって闘うことが必要であり。息の長さが第一条件である。
 しかしまた、マラソンであるのに、ジョギングのスピードで参加しては競争にならない。つまりカメでも困るが、ウサギでも危険極まりまい状態になる。
 ではその中間で走れと言われても、どのくらいのスピードで、どうやって走っていいのか、どうも判然としないのがあ実情だ。
 要するに、その場、その時に応じてスピードを上げたり、下げたりするしかないわけだ。
 ただ、そんな場合でも、あまり、無理しないことだ。
人生は長い、氣楽に行くことが肝心だ。
「焦らず、怠けず、ひと休み」
それから再び出発だ。
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静寂
 陽は輝き 星はまたたく 人生は喜びに満ちている
ただ一つ 確かなことは バラは一度だけ咲いて枯れること
川は海に 流れいるとも 海は満ち溢れること更になし
ただひとり 静かに坐り 私は見つめる 私の心を
私は今 ここに目覚める 世界と私は共に在ることを
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  自分を愛し 前向きに 生きよう
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 人生長い・・過去を振り返り・・
20代、迷いの時代かな,何をしたい,何が出来る・・我を活かす道探し・・
30代、小さいなりに,社長の座に・・権力の怖さと,人間関係の難しさ、仕事の楽しさを・・
40代、その時の巡り会いが・・周りが助けてくれる,支援してくれる、超充実の・・
50代、小さな後悔と、やり遂げた充実感と・・何も起きな,恐れない老後の不安と・・
 今は 自由な時間と 今後の活き方の道探し・・終わり善ければ 全て良しかな・・
空を観て・・大宇宙の力を 感じ・・その力をいただき・・己のある力を感じ・・今活かされている 

12日 瀬戸内寂聴講演会 4,200円 川崎・川崎市教育文化会館・
凄い動員力ですね、昔の娘さんが大挙来てました。1公演で5、600万円の売上が?お土産に,卓上カレンダーと手帳が・・売価1,000円前後かな?・・

 今の世の中暗い出来事が多い中・・86歳になっても、何事にも興味を持って生きなければならない・・己の命の大切さ,生きる命の大切さ・・だから,他の命も大切だ・・

唱元  今ここにある幸せ

2008-11-08 | 無能唱元・唯心円成会
今ここにある幸せ
 物事が何かうまくいかなくて困ったなと思った時、振り返って大局的に見ると、かえってこれで、ちょうど良かったんじゃないか、と氣がつくことがある。
 これは何かの力が自分を助けたのだ、ありがとう。これでちょうど良かったのだ。
 考えてみれば,幸せや豊かさは,今ここに在るのではないか。凡庸な私は、どうもそれに氣がついていないらしい。
 幸福は夢の実現だけで得られるものではないのだ。禅の言葉に「脚下を見よ」という教えがある。幸福は既に自分自身にある。
 そして、それに氣がつき,感謝しその上で、もっと欲ばりに成功を求めている人が、プラス思考のうちに成功していくのではあるまいか?、つまり,成功思考はそんな呑気な生き方で達成できるのではないか、と私は実にムシのいい考え方に浸っている毎日なのであります。
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 私が私自身を観察すると
 自分の未来に夢を求める凡庸なる男それが私である。努力家でもなく,真面目にも徹し切れず,無頼にも流れ得ない、あやふやな人間、それがこの私である。
 世の中の有名人を眺め回して観ると、その成功度と業績の素晴らしさには、ただ驚き,賛嘆するばかりである。そんな私が、いまなお未来の夢を捨てきれず居る。普通ならば、これはお笑いであろう。
 しかるに、いまなお,私はその夢を抱き続けている。
  それはなぜであろうか?
 ある力を「拠」・・よりどころ
  これを信じ、これに取りすがっているからである。
 「拠」よりどころ、とは私を生かしている力、すなわち「神」に他ならない。
 この力にすがり、この力に頼めば、きって、私の夢は叶えられるに違いない。
  私はこう信じて、生きているのである。
 以上が、偽らざる私の人生の在り方なのだ。  唱元

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そのときの出逢いが・・・相田みつを
出逢い そして感動
人間を動かし 人間を変えてゆくものは
むずかしい 理論や 理屈じゃないんだなぁ
感動が 人間を動かし 出逢いが 人間を変えてゆくんだなぁ・・

 しあわせは いつも じぶんの こころが きめる 
相田みつをの言葉に、

 人生一度・・過去を振返り、記憶を振返り・・未来の想いは・・今の思考、行動が なき道を踏み・・己の道になり・・此処に私の道が・・継続は力なり・・


葉の色合いも、大分秋を感じさせてくれます・・