自分の心を守る
大切なことは、世間の善悪によって、自分の感情がかき乱されてしまわないことです。はなはだしく興奮したり、憂いたりしないことです・なぜなら、それは当然、精神衛生上よくないことだからです。
そもそも人間は、自分で自分の身を守らなければならない。すなわち「身守第一」を心がけることが大切なのです。
人の付き合いは、あたかも大自然の移り変わりを、悠然と眺めるがごとくありたいものです。それは、自然の機能の働きを、あるがままに観てとることです。
これが諦観です。そして、これにより私たちは、「無事の人」たり得るのです。
島崎藤村の文章に、こんな一節があります。
昨日また かくてありけり 今日もまた かくてありなむ
この命 何をあくせく 明日をのみ 思いわずらう
しかし、人間は日常生活において、ただ悠然と、自然を、そして世間を客観視ばかりしているわけにもいきません。
観る時というのは,静観の時であり、思案の時です。
この「静」に対し、私たちには「動」があります。それは活動のときです。
この動の時間帯において、人間は希望の未来を目指し,欲するものを手に入れんとして、全力をあげて励むのです。
つまり、人間の生体活動とは、この静動二者間の二辺往来をもって成り立っているのです。そして、静は動をコントロールする。ここが重要なところです。
では、どうしたらコントロールできるのでしょうか。それは一切の現象を、まず、あるがままに観ること、自分の主義主張などの意見や思慮を加えない。すなわち、それらの意識を加えることを、一切諦めてしまうことです。
この諦観によって、私たちは観ることが自在となります。これを「観自在」といいます。
是非善悪とは、あらかじめ存在しているものではないのです。それは、その瞬間に、私たちによって創造されるものなのです。そして、誤りなくそれを行なうには、観自在の力を持っていなければなりません。
そして、常に自分自身をコントロールしていくことによって、その人は、自分自身の主人になっていきます。こうなったとき私たちは初めて「無事の人」たり得るのです。
そして、無事の生活を得たとき、私たちは思う存分、人生を楽しんで生きることができるのです。
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<人間の生体活動とは、この静動二者間の二辺往来をもって成り立っているのです。そして、静は動をコントロールする。ここが重要なところです。
では、どうしたらコントロールできるのでしょうか。それは一切の現象を、まず、あるがままに観ること、自分の主義主張などの意見や思慮を加えない。すなわち、それらの意識を加えることを、一切諦めてしまうことです。
何もたさない 何もひかない 何も 色をつけない 何も 色をけさない・・やはり瞑想が必要ですか・・迷走ではいけませんね
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
背筋をのばして ゆっくり 歩こう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
唱元四方山話・よもやまはなし
人の運命を創り出すものはアラヤ識であるが、これを現代的かつさっくばらんに言ってしまえば、要するにそれは「記憶」というものに過ぎないのである。
すなわち、人間の運yとは、その人が有している記録が創り出すものなのだ。
しかしながら、その記憶とは必ずしも、その人の実体験そのままの記憶によるものではない。つまり、事実そのままの記憶ではない。
それは、事実に対して、その人が抱いた「反応」である「思い」でありさらに言うならば「氣分」ですらあり得る。
それどころか、時には、記憶とは自らの意識によって想像され、本物とされ記憶されたものであることさえある。
次に、しの記憶は、プラスのものか、マイナスのものかに分けられるのだ。
そして、運とは、プラス記憶からは、プラスの結果が生れ、同様にマイナスの記憶からは、マイナスの結果が生れることを言うのである。
すなわち、人の運の良し悪しは、その人が何を記憶したかにかかっているのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
親しい友人が破産してしまった。
すっかり元気をなくしてしまい、もう生きる力もないみたいだった。
なんとか、なぐさめる言葉がないものかと考えているうちに、ふと思い出したことがある。
それは数年前に作った「人生再起阿呆陀藍羅経」というお経だった。これを唱え、ゲラゲラ笑ってくれたらそれこそ人生を再起出来るのではないかと思い、彼にこれを進呈する次第である。
・・・・・・・・・・
人生再起阿呆陀藍羅経
・・・・・・・・・・
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
まーず頼む まず頼む 東に登った お日さまに かしわ手二つ高らかに
ぽーんぽーんと打ち合わせ 身の安全と金儲け よろしく願い たてまつる
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
なんの因果か、この身には、富士の山ほど どっさりと借金あれど
幸いに 食べるにこと欠くことまなく
心は秋の青空じゃ ぽつぽつ返済致します。
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
人生再起阿呆陀藍羅経、これを唱えりゃ 行く手には 待てば海路の 日よりとか 順風満帆の風が吹く 精一杯の笑み浮かべ いざ働かん 働かん
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
身も心もすっぽりと 裸になってあるがまま 人がバカじゃとののしれば
お説もっともその通り たしかに私は 愚かじゃと 認めてしまえば
氣は楽じゃ
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
世間の賢い人々にや あいそと 媚びで切り抜けて
なんとか時を稼ぎつつ そのうち運も向いてこよう
今日の命をことほぎて 毎日明るく生きるのじゃ
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
えーなーむまいだー
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先生らしいです・・氣楽に 楽する人に なれですか・・クスクス笑えました
今の時代にピッタリの お経ですね 唱える事により・・潜在意識より奥深いアラヤに クラに・・プラスに転換を
皆様 良いお年をお迎え下さい。
大切なことは、世間の善悪によって、自分の感情がかき乱されてしまわないことです。はなはだしく興奮したり、憂いたりしないことです・なぜなら、それは当然、精神衛生上よくないことだからです。
そもそも人間は、自分で自分の身を守らなければならない。すなわち「身守第一」を心がけることが大切なのです。
人の付き合いは、あたかも大自然の移り変わりを、悠然と眺めるがごとくありたいものです。それは、自然の機能の働きを、あるがままに観てとることです。
これが諦観です。そして、これにより私たちは、「無事の人」たり得るのです。
島崎藤村の文章に、こんな一節があります。
昨日また かくてありけり 今日もまた かくてありなむ
この命 何をあくせく 明日をのみ 思いわずらう
しかし、人間は日常生活において、ただ悠然と、自然を、そして世間を客観視ばかりしているわけにもいきません。
観る時というのは,静観の時であり、思案の時です。
この「静」に対し、私たちには「動」があります。それは活動のときです。
この動の時間帯において、人間は希望の未来を目指し,欲するものを手に入れんとして、全力をあげて励むのです。
つまり、人間の生体活動とは、この静動二者間の二辺往来をもって成り立っているのです。そして、静は動をコントロールする。ここが重要なところです。
では、どうしたらコントロールできるのでしょうか。それは一切の現象を、まず、あるがままに観ること、自分の主義主張などの意見や思慮を加えない。すなわち、それらの意識を加えることを、一切諦めてしまうことです。
この諦観によって、私たちは観ることが自在となります。これを「観自在」といいます。
是非善悪とは、あらかじめ存在しているものではないのです。それは、その瞬間に、私たちによって創造されるものなのです。そして、誤りなくそれを行なうには、観自在の力を持っていなければなりません。
そして、常に自分自身をコントロールしていくことによって、その人は、自分自身の主人になっていきます。こうなったとき私たちは初めて「無事の人」たり得るのです。
そして、無事の生活を得たとき、私たちは思う存分、人生を楽しんで生きることができるのです。
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<人間の生体活動とは、この静動二者間の二辺往来をもって成り立っているのです。そして、静は動をコントロールする。ここが重要なところです。
では、どうしたらコントロールできるのでしょうか。それは一切の現象を、まず、あるがままに観ること、自分の主義主張などの意見や思慮を加えない。すなわち、それらの意識を加えることを、一切諦めてしまうことです。
何もたさない 何もひかない 何も 色をつけない 何も 色をけさない・・やはり瞑想が必要ですか・・迷走ではいけませんね
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
背筋をのばして ゆっくり 歩こう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
唱元四方山話・よもやまはなし
人の運命を創り出すものはアラヤ識であるが、これを現代的かつさっくばらんに言ってしまえば、要するにそれは「記憶」というものに過ぎないのである。
すなわち、人間の運yとは、その人が有している記録が創り出すものなのだ。
しかしながら、その記憶とは必ずしも、その人の実体験そのままの記憶によるものではない。つまり、事実そのままの記憶ではない。
それは、事実に対して、その人が抱いた「反応」である「思い」でありさらに言うならば「氣分」ですらあり得る。
それどころか、時には、記憶とは自らの意識によって想像され、本物とされ記憶されたものであることさえある。
次に、しの記憶は、プラスのものか、マイナスのものかに分けられるのだ。
そして、運とは、プラス記憶からは、プラスの結果が生れ、同様にマイナスの記憶からは、マイナスの結果が生れることを言うのである。
すなわち、人の運の良し悪しは、その人が何を記憶したかにかかっているのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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親しい友人が破産してしまった。
すっかり元気をなくしてしまい、もう生きる力もないみたいだった。
なんとか、なぐさめる言葉がないものかと考えているうちに、ふと思い出したことがある。
それは数年前に作った「人生再起阿呆陀藍羅経」というお経だった。これを唱え、ゲラゲラ笑ってくれたらそれこそ人生を再起出来るのではないかと思い、彼にこれを進呈する次第である。
・・・・・・・・・・
人生再起阿呆陀藍羅経
・・・・・・・・・・
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
まーず頼む まず頼む 東に登った お日さまに かしわ手二つ高らかに
ぽーんぽーんと打ち合わせ 身の安全と金儲け よろしく願い たてまつる
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
なんの因果か、この身には、富士の山ほど どっさりと借金あれど
幸いに 食べるにこと欠くことまなく
心は秋の青空じゃ ぽつぽつ返済致します。
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
人生再起阿呆陀藍羅経、これを唱えりゃ 行く手には 待てば海路の 日よりとか 順風満帆の風が吹く 精一杯の笑み浮かべ いざ働かん 働かん
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
身も心もすっぽりと 裸になってあるがまま 人がバカじゃとののしれば
お説もっともその通り たしかに私は 愚かじゃと 認めてしまえば
氣は楽じゃ
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
世間の賢い人々にや あいそと 媚びで切り抜けて
なんとか時を稼ぎつつ そのうち運も向いてこよう
今日の命をことほぎて 毎日明るく生きるのじゃ
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャカポカ チャ
えーなーむまいだー
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先生らしいです・・氣楽に 楽する人に なれですか・・クスクス笑えました
今の時代にピッタリの お経ですね 唱える事により・・潜在意識より奥深いアラヤに クラに・・プラスに転換を
皆様 良いお年をお迎え下さい。