「自己重要感」
この、あまり世の市民権を得ているとは思えない言葉を、私が使い始めたのは「人蕩術奥義」(昭和六十一年初版)の中ででした。
その後私はしきりに、この言葉を自分の講演や著書の中で用いておりますが、いまだ、一般用語としては世に知られていないようです。
この言葉の意味は、一口の言ってしまえば、「優越感」のことですが、その内容的なるものは、善悪では測りがたい複雑怪奇な問題をはらんでいるのです。
なお、コンプレックスという英語はこの「複雑怪奇な問題」のそれを表し、劣等感および優越心の両面の過剰になった状態を意味していることは、ご存知の通りです。
人は「自己重要感」が傷つけられれば、劣等感に囚われますし、これが充足されれば、優越の快感を味わえるのですが、そのどちらかが過ぎたたる場合、重大な人間関係の蹉跌を招きかねません。
自尊心について
人間が幸福な人生を過ごすためには、本人が自覚していようと、いまいと、自尊心を内に秘めていることは、とても大切なことだと思います。
ただ、この自分の自尊心の取扱いについては、二つの注意が必要なのです。
その第一は、それを、内に秘めていて外に誇示しないこと、第二は、外からのマイナス情報の刺激によって、自尊心が傷つかないように、コントロールすることです。
ここで、乱暴な言い方ですが、結論的にズバッと言ってしまえば、ある情報によって優越心を得て、自己重要感が充足され、氣分が高揚するのは、すなわち言い換えれば、思い上がった気分になるのは、一向に構わないのです。ただし、その優越感を、内にじっと秘めていられればの話ですが・・
そして、外部の人々に対しては、謙遜の態度をとるのです。つまり、これは「本音と建て前」ということです。人間生きて行くためには、こういった用心深さが必要となってきます。
ある人は言います。「そんなことをしていると思い上がった高慢な人間になってしまうのではいか?」と・・
でも、それは多分大丈夫でしょう、なぜなら「高慢」とは外部に向かっての表現であり、すなわち、それは「行動」なのです。それを内に秘めておく用心深さが有る限り、彼は自分の行為のすべての面をコントロールできるでしょうから。 つづく
この、あまり世の市民権を得ているとは思えない言葉を、私が使い始めたのは「人蕩術奥義」(昭和六十一年初版)の中ででした。
その後私はしきりに、この言葉を自分の講演や著書の中で用いておりますが、いまだ、一般用語としては世に知られていないようです。
この言葉の意味は、一口の言ってしまえば、「優越感」のことですが、その内容的なるものは、善悪では測りがたい複雑怪奇な問題をはらんでいるのです。
なお、コンプレックスという英語はこの「複雑怪奇な問題」のそれを表し、劣等感および優越心の両面の過剰になった状態を意味していることは、ご存知の通りです。
人は「自己重要感」が傷つけられれば、劣等感に囚われますし、これが充足されれば、優越の快感を味わえるのですが、そのどちらかが過ぎたたる場合、重大な人間関係の蹉跌を招きかねません。
自尊心について
人間が幸福な人生を過ごすためには、本人が自覚していようと、いまいと、自尊心を内に秘めていることは、とても大切なことだと思います。
ただ、この自分の自尊心の取扱いについては、二つの注意が必要なのです。
その第一は、それを、内に秘めていて外に誇示しないこと、第二は、外からのマイナス情報の刺激によって、自尊心が傷つかないように、コントロールすることです。
ここで、乱暴な言い方ですが、結論的にズバッと言ってしまえば、ある情報によって優越心を得て、自己重要感が充足され、氣分が高揚するのは、すなわち言い換えれば、思い上がった気分になるのは、一向に構わないのです。ただし、その優越感を、内にじっと秘めていられればの話ですが・・
そして、外部の人々に対しては、謙遜の態度をとるのです。つまり、これは「本音と建て前」ということです。人間生きて行くためには、こういった用心深さが必要となってきます。
ある人は言います。「そんなことをしていると思い上がった高慢な人間になってしまうのではいか?」と・・
でも、それは多分大丈夫でしょう、なぜなら「高慢」とは外部に向かっての表現であり、すなわち、それは「行動」なのです。それを内に秘めておく用心深さが有る限り、彼は自分の行為のすべての面をコントロールできるでしょうから。 つづく