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W杯 スイス 韓国が・・

2006-06-20 | 巷の話題・・川崎市高津区周辺の個店を紹介
 スイス 韓国 フランス と イタリア チェコ ガーナが熾烈な争いに
アジア圏として韓国応援します・・
 イタリア、チェコは音楽・オペラの交流が・・頑張れ・・

【リオデジャネイロ19日共同】サッカーのワールドカップ(W杯)で決勝トーナメント進出を決めたものの、まだ本来の調子が出ないブラジル代表に対し、同国のファンが不満を募らせている。19日付の同国各紙は「(2連勝という結果は)見せ掛け」(フォリャ・ジ・サンパウロ紙)などと一様に辛口で伝えた。
特に精彩を欠くFWロナウドと、彼を先発メンバーから外さないパレイラ監督への風当たりが強い。次の日本戦でもロナウドの先発起用を明言したパレイラ監督についても、グロボ紙は「強情さという罪悪」という大見出しで再考を促している。
かつて「怪物」といわれた前回大会の得点王ロナウドは、初戦のクロアチア戦で動きが悪く、「王様」ペレ氏は「1週間は休ませた方がいい」と指摘したという。評論家からは「彼はもう1年以上もいいプレーを見せていない」などと批判されている。成長著しい若手のロビーニョと入れ替えるべきという世論が次第に大勢となりつつある。
                          
これで見納め?ジダン次戦出場停止 2006年 6月20日 (火) 06:13
 目を合わせようともしなかった。後半ロスタイム、ベンチに下がるジダンはぶぜんとした表情でドメネク監督の横を通り過ぎ、リストバンドを投げ捨てた。「ピッチを出るときはいつだって悲しい。それが同点であればなおさらね」。まさかの2戦連続ドロー。2大会連続の1次リーグ敗退の危機がしのび寄ってきた。
 前半9分にアンリが先制し、その後も韓国を押し込んだ。だが1つのプレーが流れを変えた。同31分、ジダンの左CKからMFビエラがヘディングシュート。GKはボールがゴールラインを越えてからはじき出したようにも見えたが、判定はノーゴール。「僕には(入ったのが)見えた。コーナーを蹴って同じライン上にいたからね。でも審判は“ノー”だと。あれが試合を狂わせ最後まで苦しむことになった」
 ジダンにとって韓国戦は因縁だ。02年大会直前の5月26日、韓国との親善試合で左太腿を痛め、W杯2試合を欠場。第3戦には間に合ったが、本調子ではなく、チームも1分け2敗の無得点で1次リーグで敗退した。
 悲劇は繰り返された。同点とされた後の後半40分、相手DFを突き飛ばしたジダンに主審がイエローカードを掲げた。累積2枚目の警告。1次リーグ突破を懸けたトーゴ戦が出場停止になった。
 「98年と同じになれば完ぺきなんだけど」。98年フランス大会。ジダンは1次リーグ第2戦で退場となり、2試合出場停止処分を受けた。だが、勝ち上がってジダンを迎えようとチームは一丸となり、準々決勝から復帰したジダンも仲間の思いに応え、逆境から初の頂点まで上りつめた。
 一夜明けた19日付のレキップ紙は1面で「絶望的!」の見出しを掲げた。チームが敗退すれば、もうジダンの雄姿を見ることはできないが、あきらめてはいない。まだやり残したことがある。もう一度、ピッチに立つ背番号10の姿をファンは待ち、ジダンも信じている。
 ≪アンリ一発も悲痛「世界一の力ない」≫アンリのゴールで5試合連続無得点のW杯ワーストタイ記録は免れた。しかし、結果は引き分けに終わり、W杯5試合連続未勝利。アンリは「もうフランスは世界一の力を持っていない」と悲痛な表情を浮かべた。後半40分にはジダンのスルーパスから決定機を迎えたが、GKの好守に阻まれた。ジダンとのプレーは55試合目。いまだにジダン→アンリのラインで記録したゴールはない。

         トーゴ 0 - 2 スイス 試合終了 ドルトムント
25:00 H  サウジアラビア 0 - 4 ウクライナ 試合終了 ハンブルク
28:00 H     スペイン 3 - 1 チュニジア 試合終了 シュツットガルト
6月20日(火)
      23:00 A コスタリカ - ポーランド ハノーファー
      23:00 A エクアドル - ドイツ ベルリン
      28:00 B パラグアイ - トリニダード・トバゴ カイザースラウテルン
     28:00 B スウェーデン - イングランド 、

トーゴ共和国。通称、トーゴ。
歴史
19世紀末にグスタフ・ナハティガルによってドイツ保護領トーゴランドと宣言された。のち第一次世界大戦後、英国とフランスが分割統治。英国領は1957年、ガーナの一部として分離。フランス領地域が1960年4月27日独立、旧英国領も合流した。1963年のクーデターでシルバヌス・オリンピオ初代大統領が暗殺され、ニコラス・グルニツキー元首相が大統領就任。しかし1967年1月、ニャシンベ・エヤデマ陸軍中佐がグルニツキー大統領を追放し、4月には自ら大統領就任。1979年の民政移管に伴う大統領選でエヤデマ大統領が当選。
 1991年6月、実権はエヤデマ大統領からコフィゴー首相に移ったが、大統領派の軍が反発し首相官邸を襲撃。12月国民統一暫定政府を樹立。トーゴ人民連合(RPT)による一党独裁から複数政党制へ移行後初めての大統領選が1993年8月行われ、エヤデマ大統領が当選。1994年2月、議会選で大統領与党であるRPTが過半数割れし、野党の革新行動委員会(CAR)が第1党に。エヤデマ大統領は4月、野党第2党であるトーゴ民主連合(UTD)のエデム・コジョ党首を首相に任命。1996年8月の選挙では与党RPTが過半数を回復し、コジョ首相は辞任。エヤデマ大統領は新首相にRPT党員のクルッツェ計画・地域開発相を任命。
 1998年6月21日の大統領選でエヤデマ大統領が当選したが、野党陣営は不正があったとして反発。1999年3月の総選挙では野党がボイコットする中、与党RPTが81議席中79議席を獲得した。5月エヤデマ大統領は新首相にアドボリを任命したが、2000年8月経済立て直しの遅れを理由に、議会が首相の不信任案を可決し、アドボリ首相は辞任。エヤデマ大統領は後任首相にアベヨメ・コジョを任命。
 2002年8月、CARなど4つの主要野党は対RPT連合の結成で合意、与野党の対立が深まった。エヤデマ大統領は2002年6月27日、「議会選に向けた体制準備」としてコジョ首相を解任、RPT党員のコフィ・サマ国民教育研究相を後任に任命。議会選は10月27日に実施され、RPTが81議席中72議席を獲得して圧勝。野党はボイコット。ほぼRPT支配下の議会は12月30日、大統領の3選禁止事項を撤廃する憲法改正案を可決した。
 2005年2月5日、エヤデマ大統領が病気療養のためフランスに向かう途中、心臓発作で死去。トーゴ共和国憲法では大統領死去の際の代行職には国会議長が就くとされているが、ナンジャ陸軍参謀長は「国会議長は外遊中であり、権力の空白を防ぐため」として、エヤデマ大統領の息子フォール・ニャシンベ設備・鉱業・電気通信相が代行職に就いたと発表した。しかし実際は、トーゴ軍が陸海空全ての国境を閉鎖したため、国会のウタラ議長がトーゴ国内に戻れなくなっており、「権力世襲」「憲法違反」の措置であるとアフリカ連合や国際社会から非難されている。
 こういった国際的な非難を受け、2月25日にニャシンベ大統領は辞任。議会のボンフォー・アッバス副議長が暫定大統領に就任したが、4月24日の大統領選でニャシンベが当選、5月4日より再びニャシンベが大統領の座に就いている。

スイス連邦、および、スイス。稀にドイツ語の正式名称から「スイス誓約者同盟」という訳がなされることもある。
国名の由来は、スイス建国の中心的役割を果たしたシュヴィーツ州の名から。シュヴィーツは、古代ドイツ語で、酪農場を意味する語が訛ったものだとされる。日本語表記のスイスは、フランス語読みである。また、ラテン語名で使われるヘルウェティアは、古代ローマの支配が及ぶ前からベルン周辺に住んでいたケルト系先住民族の部族名(ヘルウェティ人)に由来する。
スイスの歴史を参照
 1291年8月1日、ウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの原始3州が、既得権益であった自由と自治を守るため、盟約者同盟 (Eidgenossenschaft) を結成。この日が、スイス建国の日とされている。1315年、モルガルテンの戦いにおいて、農民兵で構成される同盟軍が、ハプスブルク家の精鋭部隊に大勝する。その後、加盟州を増やしていくが、各州間では宗教改革などをめぐって争いが絶えなかった(第二次カッペル戦争など)。1648年、ウェストファリア条約によって正式に神聖ローマ帝国からの独立を達成。
 1798年、フランス総裁政府からの強力な圧力を受け、傀儡国家のヘルウェティア共和国が成立する。近代憲法に基づく中央集権国家であったが、スイスの国情に合わず1802年に瓦解。翌1803年、ナポレオンの仲裁により従来の盟約者団が復活。1815年のウィーン会議で、国家としての「永世中立」が認められた。
 1848年に連邦憲法を制定したが、国家連合としての性格が強かった。連邦国家体制が確立するのは、1874年の改正連邦憲法以降のことである。
 第一次世界大戦でも武装中立を維持したため、1920年には国際連盟の本部がジュネーヴに設置された。続く第二次世界大戦でも、フランスの降伏により四方を枢軸国のドイツとイタリアに囲まれながら、アンリ・ギザン将軍の指導のもとでなお武装中立を維持していたが、戦後になって、中立違反についての多くの批判を受けることになった。国際連盟での苦い経験から長きにわたって、国際連合には加盟していなかったが、2002年9月10日、国民投票の結果を受けて190番目の加盟国となった。これに伴い、オーストリアと同様に永世中立政策は完全に形骸化した

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