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ある 偉大なるもの サムスィング・グレイト

2006-12-02 | 無能唱元・唯心円成会
サムスィング・グレイト・・ある偉大なるもの・・万物万象の創造主であり、同時にそれの管理者でもある。

 遺伝子の研究で知られる科学者・村上和雄氏は神さまのことを「サムスィング・グレイト」と呼んでいます・・ある偉大なるもの・・人格的、人間的な匂いがしないところがなかなか宜しい。神が在るかないかの論争をする前に、私は自分自身を振り返ってみて困った時、不安な時 思わず誰にともなく「助けてくれえ」と悲鳴を上げている自分を発見する。あるいは、幸運の訪れを願っている自分を発見します。
 誰に願っているのだろうか?
 誰かは解らない、ただ願っている その名前の無いものに・・・

ただ、これは今までに繰り返し述べていることだが、私はそれを安易に「神」と呼びたくはないのです。それで世に知られた科学者や芸術家などが宗教的なるものに気依依存せず、しかもただ自分一人だけの「ある偉大なるもの」を守っているらしいことに鑑みて、私も同様にこれを「ある偉大なるもの」と呼びたいのである。

信仰と宗教の微妙な差
高名な科学者や芸術家が、世のどの宗教に入信することなく、ただ「サンスィング・グレイト」に心を寄せているといことは無論これも信仰の一形態ではある、しかしそれは当然彼はいかなる宗教の信者ではない、
 すなわち彼は自分個人のみの仰ぐ「ある偉大なるもの」への信仰者ではあるが、他人が集団あるいはグループによる申し合せでふり仰いでいる宗教の一信者ではないのである。

この点についてこれから少々論及してみたい。
 ここでまず、宗教はいかにして発生したかということについて考えてみよう。
まず考えられることは、教祖というものについてである、初めに教祖となった人物は・・
信仰者となって・・体験した事を・・ただ彼はそれを自分個人のものとして 秘しておかず人々に 神・?(サンスィング・グレイト)の力を宣伝し・・私と同じように祈りましょうと・・呼び掛けたという訳なのだ・・これが教祖である。

 教祖は「サムスィング・グレイト」に彼独特の名前を命名し、祈り方の方法を制定した、そしてあらたに命名された神の力を信じるように、人々に勧めたのである。
この意味ではキリストもマホメットもすべて同じく教祖である。

 この意味では「サムスィング・グレイト」のご利益は、単なる個人の信仰心へも、宗教教団の信者へも与えられる、そこには神による差別は無い。

宗教による弊害・オカルト??
 ただ、宗教教団はその発生にともなって、思いも寄らなかった、社会的弊害を生み出すようになる・・それは宗教教団のことであるが・・取り去ることの出来ない、一つの「欲望」というものが存続していることで・・それは何かと言えば 広布流宣・こうふるせん
 という欲望・・すなわち世の中に、この教えを広めたいという欲望である、もちろんこれは教祖の 世の人々を救いたい という願いから出ていることは疑いない、従ってその発意とするところは 善意なるものであろう。
 しかし、それを広くより大勢に普及させ、信者を獲得したと欲するほど、その宣伝方法はより露骨で乱暴になってくる・・

 例えば、人間社会には政治というものがあるが、この政治的権力と宗教的機構を結託させ教団に権威を持たせたりするのは周知の事実である。
 あるいは、神のご利益を特別に配分してやると、神秘の力を与えると信じさせ、その報酬を取得する、これもよく知られた周知の事実である。
 あるいは、死後の天国での生活を約束して安心させ、多額のお布施を払わせる、いずれもより多くの信者と財源を獲得するマジカルな手段である。

 そして、宗教的な意味で世界を見渡せば、現在最高と思われる二大勢力が対抗している、すなわちそれは イスラム と キリスト(教団派対立も)の二つの世界の対立である
 今地球上の人類は、この二つの宗教教団で真二つに割れて争っている。そして世界が収集もつかないような混乱状態になっているのは、誰もが気が付いていることであろう。

 このように現在の地球上の姿は、発達巨大化した宗教教団の成れの果てとも言うべき姿ではあるまいか?
 そうして、これほどまでに、強大化しなくても世界中には無数の宗教教団が出来ていて、それぞれ、より以上の巨大化を求め相争っている。

宗教を離れた信仰とは
 原点に帰ってみよう、高名な科学者や芸術家が世のどの宗教に入信することもなく、ただ「サムスィング・グレイト・ある偉大なる力」を心の拠り所となし、これを信仰としているように、人は誰でも、いかなる宗教の教祖からは離れた上で生きられないものだろうか?
 それはいかなる宗教との対立や離反を意味するものではない、むしろそれはどの宗教、どの神の在り方とも仲良くすることである、さりながらそれはいかなる一宗一派にも囚われてしまわないことである。

 このようにして「独り立ち、神と共に在れ!」 人間は、こんな生き方が出来ないものだろうか?

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我が姉が、宗教に入信して・・自分は良い事と思い勧めて・・教団へ行った事があります
教祖を祭上げ?信者の中には、涙ぐんでいる方を目にした事もありますが・・
 私はその光景を見て、何か違うと感じましたね・・

唱元先生は、己の中に、神、仏があり、奥深い心の声を聞き、瞑想をして・・
自らが神、仏であり、他者依存をしては成らないと、私は解釈してますが・・


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