〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

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「近代小説の未来」について その3

2023-04-20 13:57:11 | 日記
『木野』の結末、「最も危険」な「三匹目の蛇」は現れただけで、これについては
書かれませんでしたね。
これが書かれているのが、短編集『女のいない男たち』(2014・4 文藝春秋)で
『木野』の次に並んでいる書き下ろしの短編『女のいない男たち』です。
この並び順については、「まえがき」にわざわざ断りがあったことをご確認ください。

短編『女のいない男たち』では、「事実ではない本質を書こう」と語られます。
その「本質」とは、「男たち」にとって「女」とは決定的な了解不能の《他者》、
永劫の《他者》であるということです。
これが「三匹目の蛇」です。
すなわち、それは「月の裏側でだれかと待ち合わせをするようなこと」であり、
絶対に書けない、これが『女のいない男たち』の一人称の〈語り手〉の「僕」が
言いたいことの結論です。

これを語るために、「僕」を「僕」と語る〈機能としての語り手〉は、
真夜中、「僕」が見知らぬ男から、かつて「僕」の恋人だった女性が自殺したという
報告を受けるところから物語を始めるのです。

「僕」のこれまで恋愛関係になった相手は自殺する、今度の女性がその三人目、
つまり「僕」は「木野」のツクリネアカの虚偽をさらに極端にした男、
問題の根源をここで露わにしています。

村上春樹の処女作『風の歌を聴け』の「僕」の相手も「僕」との「ボタンの掛け違い」で
自殺したことと通底しています。
そこでは女は「僕」に愛・結婚・出産を求め、「僕」はそれをセックスの回数に
換算していたのです。

すなわち、「僕」の相手に合わせてしか生きられない生き方、
その擬態(ミミクリ)によって作り出されるツクリネアカは
「僕」の識閾下、無意識の内奥を完全に裏切って、
「僕」を「女のいない男たち」にしていくのです。
「僕」はこれを克服できません。

「最も危険」な「三匹目の蛇」の難問を克服するためには、
三人称小説『木野』を語っている〈語り手〉の位相、その〈語り〉の叙述を
捉える必要があります。
視点人物木野は「誰かの温かい手」の「肌の温もり」を捉えられるところまで来ましたが、
何故それが成就したのか、そのメカニズムを十全に認識しているわけではありません。
したがって、『木野』論の行方を読み取る必要があります。
すなわち、短編『女のいない男たち』を捉え、その次、『一人称単数』、
『猫を棄てる 父親について語るとき』に向かい、反「私」のその極限性、
「絶対矛盾的自己同一」に辿り着くことが望ましい、とわたくしは考えています。

拙稿「近代小説未来・村上春樹『木野』論の行方」をもう一度、お読みください。

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