百寺巡礼 第66番 勝常寺
庶民が慕った最澄の好敵手
東北道の郡山JCから磐越道に入り、しばらくして車中の左手に見えないが猪苗代湖があり、右手に磐梯山が見える。会津若松ICで高速を降り、田園地帯を走り左手にテキサスインスツルメンツの大きな工場が見えてきたら、その先が勝常寺である。会津盆地のほぼ中央にある湯川村の集落にある小さな寺は、ICから7.5kmほどの道のりである。
勝常寺は平安時代初期の弘仁年間(810〜824)に法相宗の学僧・徳一(760?年 - 835?年)によって開かれたといわれている。徳一は中央(畿内)の出身で、藤原仲麻呂の子とも言われるが確証はない。20歳代で関東に下り、会津地方を拠点に宗教活動を行った。日本天台宗の宗祖である最澄と三一権実論争と呼ばれる、天台宗と奈良の旧仏教の優劣に関わる論争を行ったことでも知られる。徳一の開創が確実視される寺院としては恵日寺(福島県磐梯町)と筑波山の中禅寺(茨城県つくば市)があり、その他にも多くの寺院を建立したと伝えられる。勝常寺については、徳一の創建を伝える文献等の直接的史料はないが、当寺には本尊薬師三尊像をはじめ、9世紀にさかのぼる仏像が多く残り、これらは徳一が関係した造仏であると考えられている。創建当時は、薬師堂、三重塔など七堂伽藍とその附属建造物が多数立ち並んでいたと伝えている。木造薬師如来像が本尊とされ、会津五薬師の中心として会津中央薬師と称されるようになる。鎌倉時代後期からは真言宗に属するようになり、近世まで仁和時の末寺であった。応永5年(1398)に火災があり、その後室町時代初期には講堂(現・薬師堂)が再建された。現在残されている建物はその薬師堂以外は近世以降の建物である。
参拝日 令和6年(2024)9月26日(木) 天候晴れ
所在地 福島県河沼郡湯川村勝常代舞1764 山 号 瑠璃光山 宗 派 真言宗豊山派 本 尊 薬師如来 創建年 伝・弘仁年間(810〜824) 開 基 伝・徳一 別 称 会津中央薬師堂 札所等 会津三十三観音第10番 文化財 木造薬師如来坐像(国宝)、および両脇侍立像(国宝)
木造四天王立像、木造十一面観音菩薩立像、木造聖観音菩薩立像ほか2件(国重要文化財)
かっての勝常寺は、金堂や三重塔、それに南大門などが建ち並ぶ大伽藍だったというが、いまやその面影は全くない。先ずは、仁王門から境内に進む。
寺の概要が記された立て看板。
国宝に指定された記念の石碑。
仁王門。 ちょっとかしいでひじょうに素朴な建物である。室町時代に建立された堂宇の廃材を利用して、近世に建てられたという。
柱は室町時代の材で、上下につなぎ合わせた柱と分かる。屋根はもともと茅葺だったようで下から見るとその様子がわかる。大きな草履が、なんとなくだらしなさそうにかかっているが、経年変化の結果かもしれない。
扁額は、全く読めない。
仁王門なので、仁王様かと思われるがその面影は・・・
門を潜ると、正面に薬師堂。薬師堂は、扉が閉じてあり勝手に見ることはできない。拝観をするには、事前に参拝の予約申し込みをしなければならない。当日も11時ごろに予約をし、副住職の方が待っててくれて堂の中を案内してくれた。
薬師堂【国重要文化財】 方形の屋根はそのラインがとても美しい建物である。創建当時のものではないが、室町時代に建てられたものである。以前は茅葺であったが、昭和38年(1963)の大雪で屋根が大破してしまったため、現在は銅板葺き。
薬師堂は、もともと講堂として建立されたため向拝はない。内部は内外の両陣にわかれ、内陣は方三間で中央に須弥壇を設け、壇上に厨子をおく。堂はその構造や細部の手法等からみて、室町時代初期の再建といわれる。須弥壇、厨子もまた当時の優作である。内陣には、薬師如来を守るように十二神将像が立ち、さらに徳一像と伝えられる座像がある。徳一像顔面には、無残にも大きな刀傷のようなものが縦一文字にいた。
正面の掲げられた「瑠璃光山」の扁額。
薬師如来坐像【国宝】 薬師堂の本尊で、平安時代前期の作。大材から像形を彫り出したあと、前後に割って内刳りを施し再び矧ぎ合わせる、「一木割矧ぎ造り」の技法で作られている。本像は「割矧造」と呼ばれる技法を用いた古い作例として知られている。また、宝相華葡萄唐草を浮彫りにした、光背と宣字座も当初の作とみられている。像容は、狭い額に彫りの深い目鼻立ち、厳しい表情、厚い胸板から両腿にかけて圧倒的な量感、その上に流れる飜波衣文など、平安初期特有の彫刻様式が如実に現れている。用材から当地における製作と考えられるが、その造形技術は東北地方にある他の平安初期作例と比べてきわだって優れている。両脇立像の日光・月光菩薩立像とともに平成8年(1996)国宝に指定された。 (写真・説明文とも湯川村役場HPより)
薬師堂を角度を変えて。
薬師堂から仁王門までの境内を見る。
境内の小川と池。
観音堂(収蔵庫)。 鉄筋コンクリート造の堂宇。中には、平安時代に創られた国宝の仏像二体(下記)と国の重要文化財仏像七体などが安置されている。
日光菩薩【国宝】
月光菩薩【国宝】
御詠歌の石碑。 「幾たびも歩みを運ぶ勝常寺 生まれ会津の中の御仏」と刻まれている。
本坊。 薬師堂から少し離れた場所にある。近年に建てられたので堂宇は新しい。こちらの左奥に庫裡。
本坊から仁王門の方向を見る。
御朱印。
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー創建以来、勝常寺は会津の仏教文化の中心として大いに栄えていた。だが、徳一が亡くなってからは寺勢が衰え、十三世紀ごろには廃寺同然になってしまう。それを再興したのが、京都にある真言宗の寺、仁和寺の僧だった玄海僧都である。玄海は勝常寺の伽藍を再建し、中興の祖となった。勝常寺の宗派が真言宗に変わるのは、このときからだ。真言寺院としてよみがえった勝常寺だったが、天正年間の度重なる兵火で、現在の薬師堂をのぞく伽藍のすべてを焼失した。しかも、その最中に数多く数多くの寺宝を略奪されてしまう。幕末になると、会津を戊辰戦争の悲劇が見舞い、当時の城下町の大半は戦火で焼けてしまった。しかし、勝常寺の薬師寺はそのときも戦禍から奇跡的に免れることができた。こうした悲惨な状況をかいくぐりながら、本尊の薬師如来坐像を含む十二体の仏像と、徳一座像と伝えられる木像一体の計十三体の像は無事だったという。そのすべてが平安時代の作であり、東北では他に例を見ない貴重なものだ。勝常寺が廃寺同然になりながらも、これらの像が大切に守られてきた背景には、寺の関係者だけではなく、地元の住民たちの献身や努力があったにも違いない。住民たちを動かしたのは、薬師如来への篤い信仰と、勝常寺を開いた徳一その人への敬慕の情だったのではではないか、そうした想像が頭のなかをよぎる。
案内図。
勝常寺 終了