『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

7 薬師寺

2023-04-04 | 奈良県

第3番 薬師寺

時をスイングする二つの塔

 

 

 

百寺巡礼の7番目は、唐招提寺から直ぐ近くの薬師寺である。 唐招提寺からの道は狭い道で車が通る際には避けなければならないが、ゆっくり歩いても10分ぐらである。この通りは、華やかさは無くほどよい雰囲気。先ずは、玄奘三蔵院伽藍と白鳳伽藍の間にあるお写経道場の前に着く。
この薬師寺は境内は広く、2つの塔と金堂を配した式であり、東西の塔は回廊の内側に建つ独特の伽藍スタイルから「薬師寺式伽藍」と呼ばれている。すぐ近くにある唐招提寺と比べると一見華やかな寺である。かなり広い境内で、西ノ京側の入り口から入お写経道場から境内を巡るとなると訳のわからない巡り方になってしまう。                                                        

薬師寺は「法相宗」の大本山で、寺名は薬師寺。 平成10年ユネスコ文化遺産登録された。天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成をみた。その後、平城遷都(710)に伴い現在地に移された(718)。

 

 

参拝日  平成28年(2016) 6月24日(木) 天候曇り時々小雨

 

所在   奈良県奈良市西の京457                                                         山号   なし                                                                  宗派   法相宗                                                           寺格   大本山                                                             本尊   薬師三尊像(国宝)                                                     創建年  天武天皇9年(680)                                                    開基   天武天皇(勅願)    

文化財  (国宝)東塔、東院堂、銅造観音菩薩立像、ほか                                                                                                                                      

     (重要文化財)南門、木造十一面観音立像、木造伝大津皇子座像、ほか

 

 

 

境内図

 

 

 

中門  昭和59年(1984)に西塔に引き続き復興された門である。平成3年(1991)には二天王像も復元された。 回廊は、藤原京薬師寺では単廊であったとされているが、平城京薬師寺では複廊と呼ばれる2重構造になっているのが特徴。これも門と繋がる復元で第三期までが復興工事を完了している。 門の右手の仮囲いは東塔で、改修工事の真っ最中。

 

 

 

 

二天像  平成3年(1991)に復元復興された。原像は享禄元年(1582)の兵火により中門とともに焼失。その後約400年復興をみることがなかったが、昭和59年(1984)お写経勧進により中門が復興され、それに伴う発掘調査により裸形の仁王像ではなく武装した二天王像ということが判明した。二天王像の形式は、中国西安大雁塔の門垣にある線彫の仁王像や、法隆寺の橘夫人厨子の扉絵等を参考にした。

 

 

 

 

 

 

 

金堂    享禄元年(1528)この地域の豪族の戦火に巻きこまれ、西塔などと共に焼け落ちてしまった。その後、豊臣家が金堂の仮堂を建て、その後本格的な金堂の再建に取りかかる筈だったが、豊臣家滅亡などの事情で400年近く仮堂のままの状態だった。金堂の再建は歴代の薬師寺住職にとって悲願中の悲願で、昭和42年(1967)高田好胤師が晋山し、百万巻写経勧進による金堂再建を提唱、全国に写経勧進に歩かれ、その結果昭和46年(1971)金堂の起工式を行い、そして昭和51年(1976)4月に白鳳時代様式の本格的な金堂として復興した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂を北側から見る。仮設の中は東棟の改修工事。

 

 

 

本尊 薬師三尊像  薬師如来【国宝】 薬師如来の左右に日光菩薩【国宝】月光菩薩【国宝】 いずれも白鳳時代の作で、 薬師如来のまたの名を医王如来ともいい、医薬兼備の仏様である。金堂内の白大理石須弥檀上に、 中央に薬師瑠璃光如来、 向かって右に日光菩薩 向かって左に月光菩薩が配されている

 

 

 

 

薬師如来台座【国宝】 薬師如来が座る宣字型台座で類例を見ない意匠を凝らしたもので有名。

 

 

 

 

吉祥天女画像【国宝】 天平時代の作 この吉祥天像のお姿は光明皇后を写したと伝えられ、麻布に描かれた独立画像としては、日本最古の彩色画。正月三が日だけ拝観できる。

 

 

 

大講堂  昭和51年に金堂、同56年に西塔が落慶し、以後中門・回廊の再建工事と平行して大講堂の復元設計に着手。基本設計は西岡常一棟梁で金堂以来一貫した裳階付の薬師寺独自の様式だ。大講堂は正面41m、奥行20m、高さは約17mあり伽藍最大の建造物。大講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して経典を講讃したためだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弥勒三尊像【重要文化財】 中央に弥勒如来、左に法苑林菩薩、右に大妙相菩薩。弥勒菩薩は釈尊滅後5億7千6百年の後に悟りを開かれた姿だそうだ。

 

 

 

 

仏足石【国宝】お釈迦さまがお亡くなりになって、約3~400年間はインドには仏像がなかった。これは仏さまを形に現わすのは勿体ないことであるとの考えからで、そのかわりに、仏さまの足跡を石に彫ったり、菩提樹や法輪に祈りを捧げてきた。
この仏足石は側面に記される銘文により、インドの鹿野苑(お釈迦さまが初めて法を説かれた所)の仏足石をもとに、天平勝宝5年(753)に刻まれたことがわかる日本最古の仏足石。

 

 

西棟    西塔 西塔は昭和56年(1981)に復興された。その鮮やかな色に目を奪われるが、それは奈良を表わす色使いでもあると言える。万葉集の一節に「あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり」と歌われている事からも、当時の平城京の華やかさを表現する意味もあったのではないかと思われる。「青丹良し」とは奈良の枕ことばでおなじみである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東塔【国宝】    参拝した平成28年(2016)は解体修理中で見られない。五木寛之著の百寺巡礼に、西塔は目にも鮮やかな朱色と緑と白。塔の上の相輪が、明るい日差しを浴び金色に輝いていた。一方、東塔は創建当初のすがたで古色蒼然としている。私の目はクラシックな東塔のほうに親しみを感じる。と書いてある。事前調べ無しで来たので東塔が工事中とは知らず見れなくて残念である。(写真は薬師寺HPより)

 

 

 

食堂  僧侶が食事をとるためのお堂。 天平2年(730)に創建されたが焼失し、その後再建されたが焼失し、約1千年後の平成29年(2017)に三度目の再建がされた。堂内は文化功労者である田渕俊夫画伯により描かれた食堂のご本尊「阿弥陀三尊浄土図」を中心に「仏教伝来と薬師寺」の壁画が祀られている。

 

 

 

 

田渕俊夫画伯作による「阿弥陀三尊浄土図」と天井画は文化功労者の伊東豊雄氏のデザインによる雲の模様。

 

 

薬師寺参拝の後、暫くしてNHKEテレで「薬師寺巨大仏画誕生 日本画家田淵俊夫 3年間の記録」という60分番組をやっていたのですかさず見てしまった。 薬師寺では、16世紀までに焼失した伽藍の復興が50年に渡り進められてきた。今その事業が大き な節目を迎えている。伽藍最大の建築物である食堂に収める本尊となる6m四方の超巨大な仏画が姿を現したのだ。手がけたのは田渕俊夫(当時74歳)。平山郁夫の遺志を引き継ぐ現代日本画界最高の巨匠である。 「仏画とは何か」という根源的な問いに向き合い、生命の危機にさらされながらも挑んだ3年の記録である
(NHK番組HPより)

巨大仏画 6メートル×6メートルの大きさで、2017年5月に落慶した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

玄奘三蔵院には、平山郁夫画伯が描いたシルクロードを歩む玄奘三蔵の姿を描いた大壁画がある。  田淵俊夫画伯は平山の弟子であり、師の遺志を引き継いだ日本画壇の巨匠である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東院堂【国宝】鎌倉時代の建立。養老年間(717~724)に建立されたが、現在の建物は弘安8年(1285)に建てられた鎌倉時代後期の和様仏堂の好例。

 

 

 

 

観世音菩薩像【国宝】 白鳳時代の作。 右手を静かに下げ、やわらかく上げた左手。胸を張り足を揃えて凛と立つ姿は白鳳の貴公子という。

 

 

 

 

四天王立像【重要文化財】 四天王は古代インドの神が仏教に守護神として取り入れたもの。西応2年(1289)に像が造られ永仁4年(1296)に彩色が完成。躍動感のある造詣が素晴らしく、色彩の保存状態が良好。

 

 

 

 

玄奘三蔵伽藍  玄奘三蔵(600または602~664)は、『西遊記』で有名な中国唐時代の歴史上の僧侶。その教えの流れを継承している宗派が法相宗である。現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の鼻祖に当たる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平成3年(1991)に玄奘三蔵院伽藍を建立。平成12年(2000)12月31日に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」は、玄奘塔北側にある大唐西域壁画殿にお祀りしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

休ヶ岡八幡宮【重要文化財】 薬師寺の南側に設けられた薬師寺を守護する社。

 

 

 

 

八幡三神像【国宝】  寛平年間(889~898)に栄紹別当によって勧請された祭神像。

 

 

 

 

近鉄西ノ京駅側の冠木門。

 

 

 

 

唐招提寺から薬師寺に向かう小道。

 

 

 

 

案内図

 

 

 

 

五木寛之著「百時巡礼」からーー病気や死などに対する人間の恐怖や不安。そこから救い、安心させてくれるのが薬師如来である。一方で両脇の菩薩は、早く元気になって、一緒に楽しく生きましょう、と誘っているようだ。こうして見つめていると当時の仏教の信仰が、現実性と観念性のはざまにあったということを痛感する。日本に仏教が伝来した初期のころは、現世利益というものがやはり大きかったのだろう。「生老病死」という人間の悩みを聞いてくれるものとして、当時の仏教は人々に信仰されてきた。そのなかで黄金に輝く子の薬師三尊は、人々の心を強くとらえたのに違いない。そして官能的に感じるほど、生々しいエネルギーを発していたのだろう。それが、こうして千三百年以上の歴史を経て、人々に安らぎを感じさせる、この落ち着いた黒い姿に化身なさったのだ。そんな気がしてくる。

 

 

御朱印

 

 

                薬師寺 終了