『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

13 高徳院 

2023-06-03 | 神奈川県

第48番 高徳院

多くの謎と武士の祈りを秘めた大仏

 

 

鎌倉から江ノ電に乘り、三つ目長谷駅で降りて真っすぐ500m。途中の左手には長谷寺があり、右手には鎌倉三大洋館の一つ加賀藩前田家の別荘がある。現在は鎌倉文学館として鎌倉の在住した文化人の展示館になっている。この道は休日ともなれば狭い歩道が人で溢れる賑わいのある通りである。その突き当りに鎌倉の大佛が鎮座している。寺名は高徳院というのだが、誰も鎌倉の大仏と呼んでいる、知名度の高いお寺である。

 

仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏( 盧舎那仏) に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有している。北条得宗家の正史『吾妻鏡』によれば、その造立が開始されたのは建長4年(1252)。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられている。もっとも、創建当時の事情には不明な部分が多く、未だ尊像の原型作者すら特定されるに至っていない。当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、建武元年(1334)および応安2年(1369)の大風と明応7年(1498)の大地震によって損壊に至ったとの記録を見いだすことができた。以後、露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門( 泰祐) の喜捨を得た祐天・養国の手で復興することができた。尊像の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけたのも、祐天の事績にほかならない。今日、創建750 年余を経た尊像は、仏教東伝の象徴として、国内外、宗派の別を問わず数多の仏教徒の信仰を集めている。

 

 

 

参拝日       平成29年(2017)2月2日(水) 天候晴れ

 

所在地       神奈川県鎌倉市長谷4-2-28                                               山 号       大異山                                                           宗 派       浄土宗                                                         本 尊       阿弥陀如来                                                    創建年       不詳                                                       開 基       不詳                                                       正式名       大異山高徳院清浄泉寺                                               別 称       鎌倉大仏                                                     札所等       鎌倉三十三観音二十三番                                              文化財      (国宝)銅造阿弥陀如来坐像

 

 

門の前の通り

 

 

 

 

 

 

 

高徳院の参道

 

 

 

 

 

 

 

境内案内図

 

 

 

仁王門 院の山号「大異山」を記す扁額が掲げられた山門は、18世紀初頭、内部に安置された一対の仁王像とともに他所より移築されたものと伝えられている。 

 

 

 

仁王像

 

 

 

 

 

 

 

仁王門をくぐるともう一つの門が常時閉鎖されている様子で、左側の入り口から院内に入る。

 

 

 

境内に入る

 

 

 

手水舎

 

 

 

石碑と大仏

 

 

 

石碑の所から入り口方角の境内を見る

 

 

 

かなり外国人にが多く、みな記念写真を撮る。

 

 

 

鎌倉大仏【国宝】  正式には「銅造阿弥陀如来坐像」 作者は不明、「慶派」(運慶とそれに連なる仏師達)の作風と宋代中国の仏師達からの影響の双方を併せ持つ、いかにも鎌倉期らしい仏像といわれている。

 

 

 

 

 

 

 

大仏の寸法  総高13.35m  仏心高11.31m  面高2.35  眼長1.0m  口幅0.82m  耳長1.9m  眉間白毫直径0.18m  螺髪高0.18m  螺髪直径0.24m  螺髪数656  総重量 121t  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大仏の後ろ姿

 

 

 

 

 

 

観月堂 15世紀中頃、漢陽(今日のソウル)の朝鮮王宮内に建築されたと伝えられる建物。大正13年(1924)当時これを所持されていた「山一合資会社」(後の「山一證券」)の社長、杉野喜精氏によって、東京目黒の私宅から移築・寄贈さた。この建物の中に、江戸後期の作品とみられる観音菩薩立像が安置されている。 

 

 

 

与謝野晶子の歌碑

 

 

 

歌碑に書かれた句

 

 

 

礎石  創建当初大仏像を収めていた堂宇は60基の礎石に支えられていたよう。現在、境内に遺る同礎石は56基。いずれも根府川産の輝石安山岩を石材とするそれらのなかには、庭石や水盤にも転用されているものもある。

 

 

 

大わらじ    大仏像に向かって右側の回廊内壁には、常陸太田市松栄町(旧郡戸村)に活動拠点を置く松栄子供会によって奉納された、長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgにも及ぶ大きな藁草履がかけられている。1956年以降、3年に一度巨大な藁草履の制作を試み寄進を続けている。

 

 

 

お寺だが神さまの使いなら、このような人がそうかもしれないな・・・・

 

 

 

案内図

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーーー『つねに死と隣り合わせの武士にとって、自分を律することで心の平安を得る禅宗は支えになった。それゆえに大きな流行となったのであろう。しかし一方では死と隣り合わせにあるがゆえに、極楽往生を願う浄土信仰も必要だったのではないかと思う』『意志の強さを自覚する武士たちは自分の力で真理に向かって進もうとして禅宗に惹かれる。しかし、殺生をなりわいとしいつ死ぬかも知れぬ身であることを考えれば、たとえ殺生という大罪を犯した直後であっても救われたい。その希望にこたえるのが浄土宗と考えられる。こうして鎌倉の地で武士たちは禅と浄土信仰という両方の考えを支えにして、死と隣り合う時代を生き抜いたに違いない。大きな阿弥陀如来は、そうした時代の象徴のような存在だったと言えないか』

 

 

御朱印

 

 

高徳院 終了