『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

44 四天王寺

2023-10-17 | 大阪府

百寺巡礼第60番 四天王寺

 

すべてを包み込む「和宗」の祈り

 

四天王寺は、大阪の中心部に3万3千坪という広大な敷地をもつ寺である。大阪に関する文献をひもとくと、むかしから、大阪を訪れた観光客が必ず立ち寄ったのが、この四天王寺と住吉大社だったことがわかる。

四天王寺は蘇我馬子の現在の飛鳥寺と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。 『日本書記』によれば、今から1400年以上も前の推古天皇元年(593)に造立が始まったという。物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り、「この戦いに勝利したら四天王を安置する寺院を建立し、この世の全ての人々を救済する」と誓いをたて祈願した。戦いは勝利となり、その誓いを果すために、寺院の建立をした。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。

日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、昭和21年(1946)に「和宗」の総本山として独立している。

 

参拝日       令和元年(2019)5月16日(木) 天候晴れ
 
所 在       大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
山 号       荒陵山
宗 旨       天台宗                                  宗 派       和宗                                   寺 格       総本山
本 尊       救世観音菩薩  
創建年       推古天皇元年(593)   
開 基       聖徳太子                                 正式名       荒陵山金光明四天王大護国寺  
別 称       荒陵山、難波大寺、御津寺、堀江寺   札所等 新西国三十三個所第1番ほか  文化財          紙本著色扇面法華経冊子5帖ほか(国宝)六時堂・絹本著色両界曼
                          荼羅図ほか(重要文化財)ほか八角亭(登録有形文化財)

 

 

 

境内図

 

 

 

伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれる独特なもの。南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つ。その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な建築様式とされている。

 

 

西側の極楽門のある門前の街並み。

 

 

石鳥居【国重要文化財】 鎌倉時代後期 永仁2年(1294)の建立。花崗岩で高さ8.5m。一般の鳥居と比べると高さが低く柱が太いためがっしりとした感じ。当初は柱のみだったが室町~江戸時代に改修された。寺に鳥居があるのは神仏が習合していたころの名残。 

 

 

 

扁額は「釈迦如来 転法輪処 当極楽士 東門中心」と書かれている。

 

 

 

極楽門の参道。

 

 

参道を振り返る。

 

 

西大門(極楽門)。 昭和37年(1962)に松下幸之助氏の寄進により再建。この門は極楽の入口とされており、この場所で西に落ちる夕日に顔を向けながら日想観が行われる。

 

 

 

 

 

西大門は極楽に通じる門との意味から、再建後は通称を極楽門と呼ばれている。門の四ヶ所の柱にコマ状の車輪が付いていて、門を潜る時に回して念じると心の迷いが消えて清浄になるといわれる。

 

 

西大門を振り返る。

 

 

西大門を潜ると、回廊に囲まれて金堂、五重塔、講堂のある四天王寺のメインの中心伽藍に出会う。

 

 

回廊の外から見た五重塔。

 

 

 

中心伽藍への入り口となる西重門。 

 

 

西重門から西大門を見る。

 

 

西重門を振り返る。

 

 

中心伽藍は回廊で囲まれ、東西南それぞれ門が設けられているが、一般参拝の入り口は西重門だけとなる。

 

 

回廊の様子。

 

 

中心伽藍は南から北へ仁王門となる中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置し、中門の左右から出た回廊が講堂の左右に達する「四天王寺式伽藍配置」を踏襲したもの。回廊から見た五重塔と金堂。

 

 

中心伽藍は、第二次世界大戦後に再建され、昭和38年(1963)に落慶法要が営まれた鉄筋コンクリート造建築。創建当時(6世紀末)の様式に近い形で再建された。

 

 

五重塔  昭和54年(1989)に再建された8代目の塔となる。

 

 

建物の高さは約37m。内部は6層建て。

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂。   昭和36年(1961)に再建。入母屋造で屋根は上下二重とする。中門、講堂と同様、錣葺とし、鴟尾を乗せる。外観は法隆寺金堂に似るが、裳階を付さない点が異なっている。札所となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

周囲の壁面には中村岳稜筆の「仏伝図」の壁画がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

内部には中央に本尊救世観音(ぐぜかんのんぼさつ)像、向かって左に舎利塔、右に六重塔を安置し、仏壇周囲に四天王像が立つ。。基壇下には青竜池があるという。

 

 

 

 

 

 

四天王寺から見た当時、日本一高いビルあべのハルカス。

 

 

講堂  入母屋造単層。堂内西側を「夏堂」、東側を「冬堂」と称し、それぞれ阿弥陀如来坐像、十一面観音立像を本尊とする。周囲の壁に郷倉千靭筆の「仏教東漸」の壁画がある。

 

 

東重門方向を見る。

 

 

 

中門(仁王門)  大日本相撲協会による寄進。門の正面左右には松久朋琳・宗琳作で日本相撲協会東西会が寄進した金剛力士像を安置することから仁王門とも呼ぶ。

 

 

入母屋造単層で、屋根は段差を付けて瓦を葺く「錣葺」(しころぶき)とし、棟上に鴟尾(しび)を乗せる。

 

 

仁王像  仁王像の大きさは奈良・東大寺南大門仁王像に次ぐものである。

 

 

仁王門から五重塔を見る。仁王門・五重塔・金堂・講堂が一直線に建っているのが特徴。

 

 

東重門。

 

 

回廊の外側。

 

 

回廊の外側から五重塔を見る。

 

 

回廊の外の様子を見る。

 

 

境内から高さ日本一のビルあべのハルカス。

 

北鐘堂  北の引導鐘・鐘つき堂とも呼ばれ、正式には黄鐘楼という。鐘の音は遠く極楽までも響くといわれ、春秋の彼岸には先祖供養のための鐘の音が絶えないという。吉田兼好は『徒然草』で「六時堂前の鐘の音は黄鐘調と一致する・・・黄鐘調は祇園精舎の無常院の音・・・」と伝えている。

 

 

南鐘堂(鯨鐘楼)。   太子引導鐘堂ともいう。昭和30年(1955)建立。

 

 

亀井不動尊。  昭和30年(1955)に再建。創建は推古天皇元年(593)である。

 

 

亀井堂の霊水は金堂の地下より湧きでる白石玉出の水。供養を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うという。

 

 

本坊通用門。 境内の北東を占める広い寺務所区域本坊の通用門。一般人は通行できない。黒瓦の大屋根に覆われた唐門で堂々と建ち格式がある。

 

 

義経のよろい掛け松。

 

 

境内で一番大きな木。くすのき。

 

 

六時礼賛堂【国重要文化財)   境内中央に位置する雄大な堂宇。昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名がついた。

 

 

薬師如来・四天王等を祀っている。回向(供養)、納骨等を行う天王寺の中心道場。入口には賓頭盧尊者像やおもかる地蔵が祀られ、独特の信仰を集めている。

 

 

 

 

大黒堂  六時礼賛堂の前から中の門の参道道沿いに建つ。 本尊は一体の像に大黒天、毘沙門天、弁才天の顔を持つ“三面大黒天”。この姿からして福の神トリオの仏様は、子孫繁栄・福徳智慧・商売繁盛などにご利益があるとされる。毎甲子(きのえね)が縁日として賑わいう。

 

 

英霊堂。 明治39年(1906)に建立された。建立時は大釣鐘堂と呼ばれ、当時世界一大きい大梵鐘が釣られていた。鐘は第二次大戦で供出され、その縁により戦没英霊を奉祀する英霊堂と改名。

 

 

中の門からの参道。

 

 

地蔵山。  全国各地から集まったお地蔵が祀られている。

 

中ノ門。    西に面して中央北寄りに建つ。東に進むと本坊に至る重要な参道にひらく門であった。堂々たる規模と外観の四脚門であり、木割も太く面取りも大きく、古式である。

 

 

阿弥陀堂。 南大門の方角にある堂宇。昭和28年(1953)に四天王寺末寺の三重県国束寺(くずかじ)の本堂を移築したもの。

 

 

長持形石棺蓋。 現在の茶臼山付近から出土したもの。いつの頃からか四天王寺境内に移された。明治時代になって「古墳時代の石棺の蓋」であることが判明した。現在は、安産祈願の石になっている。

 

 

南大門の境内側から見る。

 

 

 

 

 

南大門。 

 

 

 

令和の年号になってすぐの5月に参拝した。四天王寺でも新天皇即位のお祝いの記帳、特製金紙の御朱印を賜っているとのこと。写真を撮っていても、御朱印の件は気が付かなかった。

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーー聖徳太子は、ある意味で伝説化されていて、実像がつかみにくい。それは、太子があまりに多くの面で業績を残したからでもあるのだろう。この四天王寺では、太子は「四箇院制度」を取り入れて、寺の伽藍に、施薬院、療病院、悲田院、敬田院という四つの施設を設けたといわれる。施薬院では、まなはい薬草を栽培して人びとに分かち与えた。療病院では、男女問わずにあらゆる病人を入院させた。悲田院では、貧しくて身寄りのない人びとを住まわせて、元気になれば四箇院のどこかで働いてもらうことにした。そして、敬田院では、人びとを悪の道から救い、悟りの境地にいたらしめるための修行道場だった。それぞれいまでいうならば、薬局、病院、老人ホーム、寺院にあたるだろう。福祉問題、医療問題、そして老人問題に教育問題。どれをとっても、いまの日本人が直面している大きな問題である。そうした問題に対して、聖徳太子はすでにさまざな配慮をしていた。言い換えれば、千四百年前の思想に、すでに現代に通じる大きなものがあった。ということになる。

 

 

御朱印

 

 

四天王寺 終了

 

(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第六巻 関西(講談社刊) 四天王寺HP  フリー百科事典Wikipedia  
 

 

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