詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

分類できない世界に生きる(記号論の続き……なのか?)

2022年10月10日 | 雑記
そのときどきで、考えていることがあっても、上手に書き留めておかないと、忘れてしまったら、そよ風のように、もうどこにも残らない。だからせめて、暴風は困るかもしれないけれど、草を分けて風の通る道くらいは残しておきたい(大げさ)。

上手に書き留める、というのは文章うんぬんよりも、どこに書くか、ということが大事だなと思う。どこかに書いてあったとしても、もう二度と見ない場所なら、ないのと同じことだから。

と、考えてくると、やっぱりブログに残すのがいいのかもしれない、という結論。あとで見返しやすいし、ブログに書いたことは、なぜかけっこうよく覚えている。

非常に前置きが長くなってしまったけれど、記号論。『記号論への招待』を読んでから、考えたこと。

最近、自分が受け身な人間であることにあらためて気づいた。これから変わるかもしれない(と、まだ思ってる)けど、とりあえず、これまでは受け身な人間だった。

受け身の反対って、なんだろう?積極的?主体的?攻撃的!?(まあ、攻撃的は違うと思います)

受け身な人間とその反対の人間とは物事の見え方、いや見方も違うのだろうな、という気がする。

それは少し前に考えていた、サポートをするタイプの人間(私はこちら)と、自分が新しい事業を立ち上げたり、企画や営業などをやって仕事を進めていくタイプの人間との違いにもつながっているのかもしれない。

これがなぜ記号論?
つまり、私は受け身な人間。どういうふうにか。自分の置かれた環境に合わせて、自分が望めることを望む、というスタンス。環境なのか、運命なのか、それとも周りの人間なのか……、いやもしかしたら自分がどういう人間か、かも……?、それらが自分に何を求めているのか、様子をうかがってしまうタイプ。だから、もしかして、あらゆることが記号(何かを意味しているもの、意味があるもの)に見えてしまうのではないか!?と思ったのだった。

物事をどんどん進める人間というのは、自分がやりたい!を中心にして周りを変えていく。もちろんそのやりたい!も、人間だから、周りの要請を無意識に取り込んでいるのかもしれないけれど、その瞬間で考えてみると、自分のやりたい!が強い。そういう人は、自分のやりたいに合わせて物事を見る。目的意識がはっきりしている、とも言える。だから、情報の取捨選択も得意だ。自分がやりたいことに対して、必要な情報にだけ集中するし、物事を整理する。そのため、要領も効率もいいけど、もしかしたら、実は大事な情報を見落としてしまったり、歪めて見てしまう危険性も高い、のではないか。

一方、受け身な人間は、環境に適応するために、なるべく環境を正しく見る必要がある。そのため、積極的な人間よりも実は事実を事実の通りに見ることができていたりするのだけれど(ほんとか!?)、いろんなものが記号に見えてきてしまって、その分、情報の整理が苦手な可能性も高い。効率も悪い。というのも、自然の森のように、分類整理せず、なるべくありのままにしておくほうが間違いが少ないから。状況を理解するにも、対応をするにも。

『記号論への招待』をなぜ読むに至ったかの話になってしまうけれど、ベンジャミン・ウォーフの『言語・思考・現実』を読んでいたら、ホーピ語(ウォーフが研究していたアメリカ・インディアンの言語)は英語に比べて、高度の思考をし、もっと理性的な場面の分析をしている、ホーピ語が細身の剣だとすると、英語はまるで棍棒のようだ、と書いているところがあって、その箇所が文脈を離れて、自分にとって非常に示唆的に感じられて、とても気になってしまった。

ウォーフの本を翻訳していて『記号論への招待』の著者である池上嘉彦さんは、序文で、「人類最高の文明を支えるものと絶対視されがちな西欧の言語を、ウォーフはアメリカ・インディアンの言語を通じて相対化してみせた。決して西欧の言語に、他の諸言語より勝る素質があるというのではない、ということをウォーフは情熱的に語っている」と書いていた。

でも。
と、ウォーフの本を読んでから数ヶ月が経つ間に考えていた。非常に半端な理解ながらも。
もしかして、だからこそ、一見、雑に?物事を整理してしまえる言語を使う西欧人たちが覇権を握ったのではないか、と。

自然に適応して生きていこうとする限りは、自然を繊細に見ていこうとするのではないか。外界に合わせて対応し続けるのではないか。でも自然をコントロールしようと思い始めたら、あるがままに見るのではなく、自分たちに都合の良いように、線を引いて整理をして、働きかけて、改変を加えていく。それが言語にも表れているのでは!?

こうして記事にしようと(ほぼメモですが)思ってあらためて、どんなふうに書かれていたかと『言語・思考・現実』を手に取ると、一読では理解ができなかったことを再び実感し、再読する、どころか、研究さえしたいような気持ちになってしまう。でもそうなるとこの記事は永遠に書き終えられなくなってしまうので、メモを残す、という目的に立ち返り、雑なまま、いったん書き終えることにする。

ぜんぜん繊細に物事見れてないし!検討外れだし!という突っ込みに対しては、人間には、タイプというものと同時に、レベルというものもありまして、と、ゴマ・カス。

進歩というのは、破壊なのだなぁ、と、ふと思いました。

そのようなわけで、最近、言語学、記号論、認知心理学系に興味が湧いている。言語学関係の本も何冊か積読になっているので、ちゃんと読みたい。

認識の仕方の相違が、どのようにそれぞれの人の個性や能力、言葉の使い方に顕在化しているのか、気になる。

ちなみに、『言語・思考・現実』を読んだ限り、私も、ウォーフは、言語が思考を決定づけるなんて言ってない(wikiより)と思いました。自身が研究して理解し得たことを、乱暴に単純化することなく、とても繊細に慎重に書いているように感じました。サピア・ウォーフの仮説はもしかして、ウォーフの研究を単純化して人が理解したからこそ有名にもなったし、批判されもするようになったのかも?でもそんなふうに言うには私にはまだまだ理解が足りない。

ウォーフ本人の研究をよく理解すること、それらがどう理解されたことによって後世に大きな影響を与えたのか、それに対する反論は的確なものなのか、などなど、調べたいなと思いました!!
byウォーフファン

これも、何かの記号?







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