たとえば、七月から九月の間で夏休みを三日取っていいですよ、と言われたとする。三連休とくっつけて海外に行こう、といった計画を立てるなら、必然的に休みを取る日は絞られてくる。
しかし、まだ新人(この歳で)で、いつが忙しいかもまだよくわかってないし、業務のコントロールも難しいし、さすがにそれは無理かな、と考え、三日間を自由にバラバラに取る、と考えると話が違ってくる。私は途方に暮れてしまう。一体いつ休みを取って、それを何に充てたらいいのか。いずれの日にも必然性がないのに、それらを任意でどこかに当てはめなければならない難しさ!
そんなふうになってしまうのは、もしかして、私がその休みによって得たいものが「偶然だけがもたらしてくれるような快感」だからなのではないか。
いつ、どのように休みを取れば、そんなことは可能になるのか……。いつまで経っても決まらないわけだ。いつにしたところで、何をすると決めたところで、求めている快感を得られるのか確信を持てないのだから。そりゃ持てないはずだ。意図したって、いや、意図するからこそ、得られないものなのだから。
刻々と変わる私の「身体」が求めるものに照準を定めてしまっては、動き続ける的を追いかけるようなもので、それが一ヶ月後にどこにあるか定めよ、みたいなこと、できるわけがなかった。
なのに、私はそのように生きてきたらしいのだ。どこに行ったら、何をしたら、仕事の前の夏ギフトカタログパラパラほど、快感を得られるのか、みたいなことを思っていたのだ。意図すればするほど、そこから外れてしまうというのに。
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まだ続く……
偶然見つけて最高の時を過ごしたコンサート 青山学院大学ガウチャー記念礼拝堂にて
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