少し前、『考える』について、考えていた。
『考える』についての考えは、少しずつ発展していったのだけれど、「もっとよく考えて整理したい」と思いながら、別のことに関心が移り、「まとめたいと思ってたけど、具体的に何をだっけ?」という状態になっていた。最初のほうに考えたことは霞んでしまって見えなくなってしまった。
それが、とある本を読んでいて、『考える』を考えて最初に思ったこと、『考える』を自分が考え始めたきっかけをふいに思い出した。忘れないように書いておきたい。
「考えなさい」「考えましょう」とよく言われるけれど、『考える』という言葉がそもそもすごく抽象的だよなぁ、具体的に何をしたら『考えた』ことになるんだろう、といつも思っていた。
そんな疑問を持ちながら、本を読んだり、自分の感覚や思うことの跡を辿ったりしてしばらく過ごしているうちに、ふと思った。
『考える』をどんどん分解していくと、そこには、たくさんの小さな『感じる』があるだけなのではないかと。
まわりから、社会から「考えよう」と言われる。その言われ方からして、まるで上手に剥いて(考えて)いけば、「正解」とか「真実」という言葉でしっくりするものが現れるものなのかと、私は思ってしまっていた。
でも『考える』の最後(最初?)は結局、宙に浮いてしまう、ような気がした。水を温め続けるとポコポコ泡を出し始めるのは、水は100℃になると(1気圧のもとでは)沸騰するからだ。そんなふうに現象を開けば確かな法則が現れるサイエンスと、『考える』は違う。
『考える』というのは、自分の中の小さな『感じる』を上手に拾って(思い出して)、方向性を『決める』こと、なのではないか。
『考える』には、たくさんのデータや、基となる情報が必要だ、と言われるかもしれない。でも、それらの材料を揃えただけでは意味がなくて、それらの材料をあちらからこちらから見つめて、そこで得られる無数の「感じる」を拾い集めて、「よし、このことに関して私はこの方向性で行こう」と思う。そういうことなのかな、と思った。少なくとも、私はそう考えたほうが、『考える』がわかるな、と思ったのだった。
ちなみにデータが意味あるものになるためにも、それを見つめるこちら側にある種の方向性がないとダメだな、ということも最近思うようになった。自分が方向性を持っているからこそ、データに陰影が現れる。なんらかの意思がないとデータも意味を持たないのではないか。
そして、文章にも方向が必要なのではないかと感じるようになった。方向とは何か。こっちに行きたい、こっちに行こう、という気持ち。何が正しいかわからないから様子を見ておこう、ではダメで、こっちに行ってみたい。
自分の中にそういう矢印を持つ。
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