書くというのは過去や死者に捧げる行為だったのでは、という小説家の言葉を引用して、そうかも!と思った話を先日書きましたが、もしかしたら現代詩は違うのかな、と思いました。もしかしたら小説も違うのかもしれない。
昔は詩も物語も口伝えで過去の出来事やなんかを後世に伝えていく役割があって、それが書き留められるようになっていったので、過去や死者に捧げる行為ばかりだったのかもしれませんが、現代においては、書くということは新しい世界の創造だったり、新しい体験をしていく行為なのかもしれない……なんて、きっとそれは文学の世界ではとっくに言われていることなのだろうに。
でも私はインテリじゃないし、ものすごくのんびり自分のペースというか自分の経験として何かに気付いていくのが好きなので、気にせず、新しい発見をした!と、その度に新しい希望を見つけたような気持ちになって喜んでしまいます。
それで、書くことは未来を作っていく行為になるのかもしれないなとここ数日思っているのでした。それは現代詩や、それを書く人の言葉を読んだりしているうちになんとなく感じるようになったことのように思います。谷内修三さんという詩人の『詩はどこにあるか』というブログをよく読んでいるのですが、そこで、文章には「運動」があるんだ、と理解するようになり、そう考えてみると、一行目を書くときには二行目に何が生まれるか未知である、ということもあるし、現代詩などはそのように書かれているのかな、と思うようになったのです。
自分が現代詩を書きたいのかどうかはよくわかりませんが(そこは慎重に、と、なぜか思って)、確かに(?)、私は自分で書くのはいまのところ、詩よりも日記のほうがおもしろくて(でもいつか詩でも自由になりたいと思う、詩はむしろ制約が重要かもしれないのに)、どうしてかな、と考えてみたのです。日記を書くときというのは、特にパソコンでなくノートに書くときというのは、まだなんの文章も頭にはなくて(こういうことを書きたいという漠然としたもやもやはあるのですが)、真っ白なページに向かって、頭の中も真っ白で、茫漠とした平原にぽつんと立っているような感じで書き出していることに気が付いたのでした。
私は考えるのがとても苦手なのですが、考える、というのはその都度ゼロから立ち上げると思い込んでいたんです。でもそうじゃないのかもしれない。何かひとつ、あったら、そこから感じることが生まれて、それを足がかりに次に進める。だから、感じる、ということはかなり大事で、もしかしたら考えることよりも大事なのかもしれない。なぜなら、考えるということが言葉によるものだとすると、言葉というのはかえって、つながらないものをつなげてしまったり強引にねじ曲げてしまったり、できるから(だからこそ面白い詩や小説が生まれるということもあるのだろうけど)。言葉に頼らず静かに感じてみる、その感覚のほうが正しい、というか、適切だったりするような気がする。病気で亡くなった先輩とのやりとりを思い出していて特にそう感じました。すごく頭で考えてしまったけど、無になって感じればよかったんじゃないかと。
だからそのように、何事も、ひとつやって、感じてみて、またひとつやって、感じる、を繰り返していけばいいんじゃないか。ひとつするときにその先のその先のずっと先までわかってなきゃいけないと思っていたけどそうじゃないんだ。
考えてみると、「運動」というのはとても大事なことで、私の「運動」という言葉へのイメージは、たとえばライオンが増えてしまうと、ライオンに食べられるしまうまが減ってしまって、するとライオンが飢えて数が減り、おかげでしまうまがまた増えて、というバランスを取りながら続く自然の動きで、そして、いろんなことがそれでいいんだ!と、最近ようやく気が付いたわけなのです。まあほんとにそれでいいのかはこれから確かめるわけなのですが。
文章も書きながら感じて書く、ということを大事にしていこう。過去を書くことも大事にしながら、ひとつひとつ書きながら少し少しと新しい世界を開いていけたらいいなぁと思っています。
と~っても長くなってしまいましたが。
先輩を残して年を越してしまうということが悲しいのですが、悲しいことは背中に、エネルギーにして、目の前にあるものを見て、感じて、前に進みたいな、と思うのでした。
今年も一年、読んでくださり、本当にありがとうございました。
また来年もどうぞよろしくお願いいたします。
たくさんの人が幸せを感じられる年になりますように。
昔は詩も物語も口伝えで過去の出来事やなんかを後世に伝えていく役割があって、それが書き留められるようになっていったので、過去や死者に捧げる行為ばかりだったのかもしれませんが、現代においては、書くということは新しい世界の創造だったり、新しい体験をしていく行為なのかもしれない……なんて、きっとそれは文学の世界ではとっくに言われていることなのだろうに。
でも私はインテリじゃないし、ものすごくのんびり自分のペースというか自分の経験として何かに気付いていくのが好きなので、気にせず、新しい発見をした!と、その度に新しい希望を見つけたような気持ちになって喜んでしまいます。
それで、書くことは未来を作っていく行為になるのかもしれないなとここ数日思っているのでした。それは現代詩や、それを書く人の言葉を読んだりしているうちになんとなく感じるようになったことのように思います。谷内修三さんという詩人の『詩はどこにあるか』というブログをよく読んでいるのですが、そこで、文章には「運動」があるんだ、と理解するようになり、そう考えてみると、一行目を書くときには二行目に何が生まれるか未知である、ということもあるし、現代詩などはそのように書かれているのかな、と思うようになったのです。
自分が現代詩を書きたいのかどうかはよくわかりませんが(そこは慎重に、と、なぜか思って)、確かに(?)、私は自分で書くのはいまのところ、詩よりも日記のほうがおもしろくて(でもいつか詩でも自由になりたいと思う、詩はむしろ制約が重要かもしれないのに)、どうしてかな、と考えてみたのです。日記を書くときというのは、特にパソコンでなくノートに書くときというのは、まだなんの文章も頭にはなくて(こういうことを書きたいという漠然としたもやもやはあるのですが)、真っ白なページに向かって、頭の中も真っ白で、茫漠とした平原にぽつんと立っているような感じで書き出していることに気が付いたのでした。
私は考えるのがとても苦手なのですが、考える、というのはその都度ゼロから立ち上げると思い込んでいたんです。でもそうじゃないのかもしれない。何かひとつ、あったら、そこから感じることが生まれて、それを足がかりに次に進める。だから、感じる、ということはかなり大事で、もしかしたら考えることよりも大事なのかもしれない。なぜなら、考えるということが言葉によるものだとすると、言葉というのはかえって、つながらないものをつなげてしまったり強引にねじ曲げてしまったり、できるから(だからこそ面白い詩や小説が生まれるということもあるのだろうけど)。言葉に頼らず静かに感じてみる、その感覚のほうが正しい、というか、適切だったりするような気がする。病気で亡くなった先輩とのやりとりを思い出していて特にそう感じました。すごく頭で考えてしまったけど、無になって感じればよかったんじゃないかと。
だからそのように、何事も、ひとつやって、感じてみて、またひとつやって、感じる、を繰り返していけばいいんじゃないか。ひとつするときにその先のその先のずっと先までわかってなきゃいけないと思っていたけどそうじゃないんだ。
考えてみると、「運動」というのはとても大事なことで、私の「運動」という言葉へのイメージは、たとえばライオンが増えてしまうと、ライオンに食べられるしまうまが減ってしまって、するとライオンが飢えて数が減り、おかげでしまうまがまた増えて、というバランスを取りながら続く自然の動きで、そして、いろんなことがそれでいいんだ!と、最近ようやく気が付いたわけなのです。まあほんとにそれでいいのかはこれから確かめるわけなのですが。
文章も書きながら感じて書く、ということを大事にしていこう。過去を書くことも大事にしながら、ひとつひとつ書きながら少し少しと新しい世界を開いていけたらいいなぁと思っています。
と~っても長くなってしまいましたが。
先輩を残して年を越してしまうということが悲しいのですが、悲しいことは背中に、エネルギーにして、目の前にあるものを見て、感じて、前に進みたいな、と思うのでした。
今年も一年、読んでくださり、本当にありがとうございました。
また来年もどうぞよろしくお願いいたします。
たくさんの人が幸せを感じられる年になりますように。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます