いま現在営業している美容室を見てもなんとも思わないのに、窓の形で、昔は美容室だったのだろうと想像できる古い家を見ると、とても惹かれる。
昨年、奥能登国際芸術祭へ行って、昔は映画館だった建物やスナックだった建物に入ったときには、一歩一歩立ち止まり、見入った。魅入られた。
高齢者と言われる世代の人たちの華やいだ時間がかつてそこで過ごされ、それは少しして古びた写真の中の私の幼年時代にもなる。
軍艦島も別子銅山も香川県の大島青松園も、子どもの頃に覚えた憧憬のような、異様な強さで心惹かれた。
昔、人が生活していた(大島はいまも住んでいらっしゃいます)場所、には独特の空気、独特の光りがあって、吸い寄せられる。
いまや幻のような「その時」に傾ける気持ちの角度の激しさ。カメレオンになり、自分が半分そこに溶けている気がするほど、佇んでいる。
あれは、なんなのだろう、と思う。
あれは、たぶん、想像力なのだと思う。
そこにいた人たちの気配、そこにいた人たちの暮らしを想像する。感じる。そのときの「想像力」はきっと魔法のようなフィルター。
時間の差、その距離の中には、埃や光や微かな音、人の動きの影が保存され、古い場所に投影されている。
バーチャルなんて、だからきっとつまらない。
超保守的で、時代に取り残されるタイプの私は、自分に危機感を感じながらも、これまで好きだったものにいっそうの力でしがみつく。
バーチャルなんて、最初こそ、そのリアルさに驚いても、きっとすぐに慣れてしまって、つまらなくなるさ。リアルであればあるほど、そこに想像力が働く余地はなくなるのだから。
素朴なものは、想像力を元気にさせる。
食欲が最高のスパイスなら、想像も、人生をおいしくする最高のスパイス。
なぜなら、想像には、見えない部分があり、そこには未知と予感があるから。恋が楽しいのは見えない部分があり、想像の余地があるから。
たとえば光。冬に近づくにつれ、光が部屋のずっと奥まで差し込む。それが何かはわからないけれど、言い残したことがある気がする、もう会えない人の横顔のようにそこに静かにある。何を言おうとしているのだろう。
想像することは心の中で歌うことに似ていると、ある時、心の中で歌いながらふと思った。まだ自分にさえ認知されていないいくつかの感情が、心の中でいつのまにか歌になっている。
そして心の中で歌うことは、いまはもういない人を想うことでもある。気がする。
大切な人がいなくなったとき、もう二度と会えないということを信じきることができず、その答えをあえて求めない「予感」を未来へ託している。
だから、その人とのことを思い出していると、まるで恋のように、未来への期待を感じている気がする。
私がここで言っているものは、想像力とは言えないものかもしれない。想像力に乏しいから、それを想像力と言ってしまうだけで、想像を呼び起こす風くらいのものかもしれない。
歳を重ね、人生に未知を感じて期待を膨らませることが減ってくると、今度は「思い出」が投げかける予感に似た光が、ステンドグラスのように日々を照らすようになる。
昨年、奥能登国際芸術祭へ行って、昔は映画館だった建物やスナックだった建物に入ったときには、一歩一歩立ち止まり、見入った。魅入られた。
高齢者と言われる世代の人たちの華やいだ時間がかつてそこで過ごされ、それは少しして古びた写真の中の私の幼年時代にもなる。
軍艦島も別子銅山も香川県の大島青松園も、子どもの頃に覚えた憧憬のような、異様な強さで心惹かれた。
昔、人が生活していた(大島はいまも住んでいらっしゃいます)場所、には独特の空気、独特の光りがあって、吸い寄せられる。
いまや幻のような「その時」に傾ける気持ちの角度の激しさ。カメレオンになり、自分が半分そこに溶けている気がするほど、佇んでいる。
あれは、なんなのだろう、と思う。
あれは、たぶん、想像力なのだと思う。
そこにいた人たちの気配、そこにいた人たちの暮らしを想像する。感じる。そのときの「想像力」はきっと魔法のようなフィルター。
時間の差、その距離の中には、埃や光や微かな音、人の動きの影が保存され、古い場所に投影されている。
バーチャルなんて、だからきっとつまらない。
超保守的で、時代に取り残されるタイプの私は、自分に危機感を感じながらも、これまで好きだったものにいっそうの力でしがみつく。
バーチャルなんて、最初こそ、そのリアルさに驚いても、きっとすぐに慣れてしまって、つまらなくなるさ。リアルであればあるほど、そこに想像力が働く余地はなくなるのだから。
素朴なものは、想像力を元気にさせる。
食欲が最高のスパイスなら、想像も、人生をおいしくする最高のスパイス。
なぜなら、想像には、見えない部分があり、そこには未知と予感があるから。恋が楽しいのは見えない部分があり、想像の余地があるから。
たとえば光。冬に近づくにつれ、光が部屋のずっと奥まで差し込む。それが何かはわからないけれど、言い残したことがある気がする、もう会えない人の横顔のようにそこに静かにある。何を言おうとしているのだろう。
想像することは心の中で歌うことに似ていると、ある時、心の中で歌いながらふと思った。まだ自分にさえ認知されていないいくつかの感情が、心の中でいつのまにか歌になっている。
そして心の中で歌うことは、いまはもういない人を想うことでもある。気がする。
大切な人がいなくなったとき、もう二度と会えないということを信じきることができず、その答えをあえて求めない「予感」を未来へ託している。
だから、その人とのことを思い出していると、まるで恋のように、未来への期待を感じている気がする。
私がここで言っているものは、想像力とは言えないものかもしれない。想像力に乏しいから、それを想像力と言ってしまうだけで、想像を呼び起こす風くらいのものかもしれない。
歳を重ね、人生に未知を感じて期待を膨らませることが減ってくると、今度は「思い出」が投げかける予感に似た光が、ステンドグラスのように日々を照らすようになる。
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