内容
2016-10-09 | 日記
いまさらだけど、ウォーク記事の続き
あれほど豪語していた灼熱登山も1回行ったきり。情けなくなるほどのていたらく。こんなことじゃあかんわな。今日は天候がどうなるかわからないので山行きはやめてウォークのほうにした。コースは今までに何度か歩いてるところであり、あまり面白くはないのではあるが、久しぶりに距離を歩くことが目的だから。12キロはウォークとしては短いほうだが、平地でも10キロを超えると私のようにおっさんにはきついんだよ。
羽曳野市の古市あたり。飛鳥時代に整備された飛鳥と難波を結ぶ日本最古の官道である「竹内街道」を歩いている。ちんたら歩くだけじゃあかんのやて。メタボ解消のためには有酸素運動だ。今日はペースを上げて歩こう。
近鉄古市駅そばの白鳥神社。記紀的には白鳥とか大鳥は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のことである。日本書紀には、日本武尊が全国各地を遠征し、その帰途伊勢で息を引き取ったこと、白鳥に姿を変えて古市に飛来したことがちゃんと書いてある。
古市古墳群は羽曳野市と藤井寺市にかけて4キロ四方に広がる日本有数の古墳群である。形も大きさもさまざまな120基以上の古墳が確認されている。画像は白鳥陵古墳。墳丘長200mの前方後円墳である。宮内庁により景行天皇の皇子であった日本武尊の陵墓とされている。
竹内街道から離れて、「翠鳥園遺跡公園」。ここは初めてだな。サヌカイトを使った石器を作ってた場所の遺跡なんだってよ。2万年前と書いてあったな。発掘したときの状態をレプリカで復元してあるのだが、石のかけらを見たってそう面白いものでもない。
墓山古墳。墳丘長225mの前方後円墳。古市古墳群で最大の応神天皇陵の陪塚に治定されてるそうだ。陪塚(ばいちょう)というのは、本体の古墳に付属する古墳のこと。親族を埋葬したり、副葬品を納めるための小型の古墳である。素人目に見ても、陪塚にしては大きすぎるように見える。大王クラスの墓だよね。宮内庁は治定されてる陵墓については再検討はしないというスタンスのようだ。ところで、古墳って周りから眺めるだけなんだよね。これって面白いのか?
暑い。暑すぎる。とっくにいつものちんたらペースに戻っている。横は墓山古墳に隣接する向墓山古墳(一辺68mの方墳)。歩いてるだけで汗が噴き出すってことは30度は超えてるってことだよな。この日の大阪内陸の最高気温は32度ということであった。
応神天皇陵に隣接する誉田(こんだ)八幡宮に到着。ここは応神天皇を祭る大きな神社で日本最古の八幡宮とされる。知ってると思うけど、応神天皇=誉田別命(ほんだわけのみこと)=八幡神である。八幡は武運の神だよね。南無八幡大菩薩だ。
墳丘長425m、墳丘の高さ35m。もはや山である。あまりにも巨大なので全景は見えない。案内によると、盛り土の総量はダンプカー17万台になるとのことである。
応神陵には二重の堀が設けられている。写真は埋められて畑になっている外側の堀を歩いているところ。横の森は陵墓本体の森ではなく内側の堀の堤(内堤)である。
今回のウォークは真田幸村ゆかりの地を歩くというのがあるので。このあたりは大坂夏の陣の合戦のひとつである「道明寺の戦い」があったところ。大坂城は堀を埋められてたから、城外で戦うしかなかったわけだ。薄田隼人正兼相(すすきだはやとのかみかねすけ)の墓。岩見重太郎いかに豪勇といえども数倍の敵には敵わず討死。
道明寺(どうみょうじ)に到着。もともとは古墳造営に関わりがある土師氏(はじし)の氏寺である。菅原道真は土師氏の出であることから、菅公ゆかりの国宝の観音像があることでも知られている。寺の名前の道明とは菅公のことだよ。「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」に道明寺が出てくる。
となりの道明寺天満宮。名前の通り、もともとは道明寺である。明治の神仏分離のときに、寺と神社が分離されたので別々になっている。境内は天満宮の方がはるかに広い。ここで昼めし。
近鉄道明寺駅前の「道明寺合戦記念碑」。
石川に架かる昭和レトロな橋を渡る。昭和3年製で登録有形文化財なんだって。古いので歩行者専用である。洪水でも流されることはないだろうが、橋脚は傾いてるところもあった。画像正面の左が小松山、右が玉手山だろうか。小松山が「道明寺の戦い」で最初の戦闘があったところである。
柏原市の玉手山ふれあいパークに到着。行ったことはないが、もとは近鉄の遊園地だったところ。今は市営の公園になっている。
公園内にある「後藤又兵衛基次之碑」。豊臣方の諸隊は道明寺に集結し、河内平野が広がる前の狭隘になっているこの地で徳川方を迎撃する作戦であった。しかしながら、豊臣方の集結が遅れたこと、すでに徳川方の軍勢が合戦地に展開済みであったことで作戦は完全に破たんした。先に到着していた後藤隊は単独で徳川方との戦闘に至ることになる(小松山の戦い)。大軍勢に圧倒され玉手山に後退するも後藤又兵衛は討死、後藤隊は壊滅する。
玉手山山頂。標高73メートルに登頂。大坂の陣両軍の戦没者慰霊塔が建っている。玉手山を下りて、あとはゴールに向かうだけ。
暑くてアイス買ってしまった。これで台無し。
ゴールの近鉄土師ノ里駅に到着。時間5時間(休憩含む)。まだ3時だけど、もう帰る。暑さでまいった。
次回はどこがええ?大河ドラマで盛り上がってるから、真田関連にしよか。今まで黙ってたけど、私は歴史ものは結構詳しいよ。
あれほど豪語していた灼熱登山も1回行ったきり。情けなくなるほどのていたらく。こんなことじゃあかんわな。今日は天候がどうなるかわからないので山行きはやめてウォークのほうにした。コースは今までに何度か歩いてるところであり、あまり面白くはないのではあるが、久しぶりに距離を歩くことが目的だから。12キロはウォークとしては短いほうだが、平地でも10キロを超えると私のようにおっさんにはきついんだよ。
羽曳野市の古市あたり。飛鳥時代に整備された飛鳥と難波を結ぶ日本最古の官道である「竹内街道」を歩いている。ちんたら歩くだけじゃあかんのやて。メタボ解消のためには有酸素運動だ。今日はペースを上げて歩こう。
近鉄古市駅そばの白鳥神社。記紀的には白鳥とか大鳥は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のことである。日本書紀には、日本武尊が全国各地を遠征し、その帰途伊勢で息を引き取ったこと、白鳥に姿を変えて古市に飛来したことがちゃんと書いてある。
古市古墳群は羽曳野市と藤井寺市にかけて4キロ四方に広がる日本有数の古墳群である。形も大きさもさまざまな120基以上の古墳が確認されている。画像は白鳥陵古墳。墳丘長200mの前方後円墳である。宮内庁により景行天皇の皇子であった日本武尊の陵墓とされている。
竹内街道から離れて、「翠鳥園遺跡公園」。ここは初めてだな。サヌカイトを使った石器を作ってた場所の遺跡なんだってよ。2万年前と書いてあったな。発掘したときの状態をレプリカで復元してあるのだが、石のかけらを見たってそう面白いものでもない。
墓山古墳。墳丘長225mの前方後円墳。古市古墳群で最大の応神天皇陵の陪塚に治定されてるそうだ。陪塚(ばいちょう)というのは、本体の古墳に付属する古墳のこと。親族を埋葬したり、副葬品を納めるための小型の古墳である。素人目に見ても、陪塚にしては大きすぎるように見える。大王クラスの墓だよね。宮内庁は治定されてる陵墓については再検討はしないというスタンスのようだ。ところで、古墳って周りから眺めるだけなんだよね。これって面白いのか?
暑い。暑すぎる。とっくにいつものちんたらペースに戻っている。横は墓山古墳に隣接する向墓山古墳(一辺68mの方墳)。歩いてるだけで汗が噴き出すってことは30度は超えてるってことだよな。この日の大阪内陸の最高気温は32度ということであった。
応神天皇陵に隣接する誉田(こんだ)八幡宮に到着。ここは応神天皇を祭る大きな神社で日本最古の八幡宮とされる。知ってると思うけど、応神天皇=誉田別命(ほんだわけのみこと)=八幡神である。八幡は武運の神だよね。南無八幡大菩薩だ。
墳丘長425m、墳丘の高さ35m。もはや山である。あまりにも巨大なので全景は見えない。案内によると、盛り土の総量はダンプカー17万台になるとのことである。
応神陵には二重の堀が設けられている。写真は埋められて畑になっている外側の堀を歩いているところ。横の森は陵墓本体の森ではなく内側の堀の堤(内堤)である。
今回のウォークは真田幸村ゆかりの地を歩くというのがあるので。このあたりは大坂夏の陣の合戦のひとつである「道明寺の戦い」があったところ。大坂城は堀を埋められてたから、城外で戦うしかなかったわけだ。薄田隼人正兼相(すすきだはやとのかみかねすけ)の墓。岩見重太郎いかに豪勇といえども数倍の敵には敵わず討死。
道明寺(どうみょうじ)に到着。もともとは古墳造営に関わりがある土師氏(はじし)の氏寺である。菅原道真は土師氏の出であることから、菅公ゆかりの国宝の観音像があることでも知られている。寺の名前の道明とは菅公のことだよ。「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」に道明寺が出てくる。
となりの道明寺天満宮。名前の通り、もともとは道明寺である。明治の神仏分離のときに、寺と神社が分離されたので別々になっている。境内は天満宮の方がはるかに広い。ここで昼めし。
近鉄道明寺駅前の「道明寺合戦記念碑」。
石川に架かる昭和レトロな橋を渡る。昭和3年製で登録有形文化財なんだって。古いので歩行者専用である。洪水でも流されることはないだろうが、橋脚は傾いてるところもあった。画像正面の左が小松山、右が玉手山だろうか。小松山が「道明寺の戦い」で最初の戦闘があったところである。
柏原市の玉手山ふれあいパークに到着。行ったことはないが、もとは近鉄の遊園地だったところ。今は市営の公園になっている。
公園内にある「後藤又兵衛基次之碑」。豊臣方の諸隊は道明寺に集結し、河内平野が広がる前の狭隘になっているこの地で徳川方を迎撃する作戦であった。しかしながら、豊臣方の集結が遅れたこと、すでに徳川方の軍勢が合戦地に展開済みであったことで作戦は完全に破たんした。先に到着していた後藤隊は単独で徳川方との戦闘に至ることになる(小松山の戦い)。大軍勢に圧倒され玉手山に後退するも後藤又兵衛は討死、後藤隊は壊滅する。
玉手山山頂。標高73メートルに登頂。大坂の陣両軍の戦没者慰霊塔が建っている。玉手山を下りて、あとはゴールに向かうだけ。
暑くてアイス買ってしまった。これで台無し。
ゴールの近鉄土師ノ里駅に到着。時間5時間(休憩含む)。まだ3時だけど、もう帰る。暑さでまいった。
次回はどこがええ?大河ドラマで盛り上がってるから、真田関連にしよか。今まで黙ってたけど、私は歴史ものは結構詳しいよ。