テレビなどで連日放映される、ウクライナの都市の市街地に武力侵攻するロシア軍の映像。砲撃を浴びた病院や学校、難民として隣国に向かうお年寄りや女性、子供たちの姿に、極東の島国である日本でも「このままではウクライナの二の舞になるぞ」とナイーブな国民に訴え、「国を守る」準備を呼び掛ける声が日増しに強くなっているような気がします。
岸田文雄首相は戦後の日本の首相で初めて、日本を攻撃する外国の基地を叩く「敵基地攻撃能力」を自衛隊に持たせることを検討すると国会で明言しました。また、与党自民党で最大派閥を率いる安倍晋三元首相は、核保有国が同盟国と核兵器を共有して抑止力を高めようという、いわゆる「核共有」についても議論を進めるべきだと主張しています。
ウクライナで起きている出来事に関しても、国内には「ウクライナ市民の徹底抗戦抵抗」を支持する声が上がる一方で、「市民を守るためにも(犠牲が大きくなる前に)降伏すべきだ」という意見が根強いのも事実です。ウクライナで起きていることが、日本でも起きる可能性は確かにあるのでしょう。その時、彼らは、そして私たちは、何のためにどういう犠牲を払うことができるのか。武力には、本当に武力で応えるしか方法はないのか。
そんなことを考えていた折、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が、3月17日の自身のブログ「内田樹の研究室」に「ウクライナ危機と反抗」と題する一文を寄せているのが目に留まりました。
氏はこの論考に、ウクライナへのロシア軍の軍事侵攻が始まってから、いろいろな媒体から意見を求められるようになったと記しています。もちろん自分はロシアやウクライナの専門家ではないので、2014年のクリミア併合の時も、それ以後の東部での紛争の時も誰も私に意見を求めに来なかった。クリミア併合も東部の分離活動もプーチンが行った「特殊な軍事的作戦」で、ウクライナにとっては国難的な危機であったけれど、当時、氏の周囲で「ウクライナはこれからどうなるのだろう」ということが話題になること自体がなかったということです。
それが今回はまったく様相が違う。それは「これまでとは違うことが起きている」ということを、誰もが感じ取っているからだと氏は指摘しています。
「これまでウクライナのことに何の関心もなかった連中が急に騒ぎ出した」というふうに冷笑的に事態を眺めている人もいるだろう。シリアやアフガニスタンにロシアが侵攻した際には興味すら持たなかった人たちが、今回に限ってウクライナ大使館宛てに寄附をしたりするのは嗤うべきダブル・スタンダードだと指摘する人もいるかもしれない。でも、同じような構図の中で、同じようなプレイヤーが演じる、同じような政治的出来事であっても、そこに「これまでと違う何か」を感知すると、人はそれまでとは違うリアクションをするものだというのが氏の見解です。では、それは一体何なのか。
(話は少し変わるが)「愛国心は有益だ(どの国の国民もこれくらい愛国心を持つべきだ)」と考えている人たちが一方におり、「愛国心は有害だ(現に、そのせいでたくさんの人が死んだり傷ついたりしている)」と考えている人たちが他方にいる。ここには対話の余地がないと氏はしています。
しかし、ウクライナで戦っている人たちや、あるいはロシア国内で投獄のリスクを冒しながら「反戦」を叫んでいる人たちは、必ずしも(そうした)「愛国心」からそのような行動に出たのではないのではないかというのが、この論考で氏の指摘するところです。彼らはそれよりもっと上位の価値のために戦っている。氏によれば、愛国心のための行動と、それよりもっと上位の価値のための行動は、外見的にはよく似ていて、ほとんど見分けがつかないほど似ることもあるということです。
戦っている人たち自身も「あなたが『反抗』を選んだ動機はなんですか?」と訊かれたら「愛国心ゆえです」と答えるかも知れない。でも、それでは、いま世界中の人たちがこの出来事をわが身に切迫したものとして感じていることの説明がつかないと氏は言います。
(一般に)私たちは他国の人の愛国心については、それがどれほど本人にとってシリアスで必至のものであっても、それほど感動することはない。例えば昨年1月に米連邦議会に雪崩れ込んだトランプ支持者たちは、主観的には「命がけでアメリカの理想を守ろうとした」愛国者だったかもしれないが、アメリカのためだけに動く姿に感動を覚えた人は極めて少数だったのではないかということです。
私たちは他国の人が愛国心を発露しているのを見せられても、ふつうは特段の感動を覚えない。だから、いまウクライナやロシアで「反抗」の戦いをしている人たちの動機を「愛国心」だと自分は解さない。彼らはおそらく、それより「上位の価値」のために戦っているのだと思うと氏は話しています。
私たちが「反抗の戦い」をしている人たちから目が離せないのは、彼らがその戦いを通じて、遠く離れた、顔も知らず名前も知らない私たちの権利をも同時に守ってくれていると感じるから。だからこそ、我々も彼らを孤立させてはならないと思うのではないかというのが氏の考えです。
逆に言えば、この反抗者たちが敗れたときに私たちが失うのは小麦やトウモロコシの輸入量とか天然ガスの供給量とかいうレベルのものではない。もっと本質的な何かが失われる。そのことを私たちはたぶん直感的にわかっているのだと思うと、内田氏はこの論考を結んでいます。
さて、ウクライナ市民たちの粘り強い抵抗や勇敢な戦いの動機を、日本の多くのメディアや軍事戦略の有識者(と称する人たちは)いわゆる「愛国心」によるものだと説明し疑う様子は見せません。そして、(この平和な日本で暮らす)多くの「愛国」を信奉する人たちは、銃や火炎瓶を手にしたウクライナの市民たちの行動を、そうした視点から称えているところです。
しかし、(内田氏も言うように)あえて言うなら、彼らが本当に、現在に私たちが普段、街頭や政治的な語り口の中で耳にするような「愛国心」のために戦っているのかといえば、きっとそういうわけでもないでしょう。普段はやさしいお市井のお父さんやお母さんたちが、これまで通りの(誰にもはばからずに自分の考えを口にできるような)自由な暮らしを守るため、自国の兵士を応援し、時には手元の銃や即席の火炎瓶などで大量破壊兵器に立ち向かったりしているということのような気がします。
第2次大戦後の3・四半世紀を平和の中で生きてきた現在の日本人の状況は、確かに「平和ボケ」と言えるかもしれません。しかし、戦争から年月が経って記憶が薄れるに連れ、一般の人々が防衛や安全保障について考えなくなるのは(ある意味)仕方のないこと。自由な環境で平和を享受できているからこそ、様々な情報を得、いろいろな角度から議論をし、何が正しいのかを考えることができるというものです。
「憂国」などという言葉を口にする人もいるようですが、多様な考え方が共存できるのは幸せな社会の証なのかもしれません。私たちが生きていくうえで、本当に大切なものは何なのか。こうした機会に改めて、私たちが享受している自由で平和な暮らしの尊さ、有難さを噛みしめる必要があるのではないかと、内田氏の論考を読んで私も改めて感じたところです。
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