安全保障関連法案が5月26日の衆議院本会議で審議入りし、答弁に立った安倍総理大臣は集団的自衛権の行使について、いわゆる新3要件に該当すれば、他国の領域で自衛隊が武力を行使することもありうるという認識を示したとの報道がありました。
審議の中で維新の党の太田副幹事長は、自衛隊員の安全性に関連し「自衛官の活動地域が戦闘地域に近づくことなどから、危険にさらされるリスクが高まり、戦闘行為に巻き込まれる恐れも格段に高まることは明白な事実だ。」と指摘したということです。
また、共産党の志位委員長は安倍総理に対し、「アメリカが無法な戦争に乗り出しても、言われるまま集団的自衛権を発動することになることは明らかではないか」とただしたとされています。
国家として安全保障をどのように位置づけていくかという議論がいよいよ佳境を迎える中、国際政治学者のchatnoir氏は5月16日のYahoo newsへの寄稿において、保守・リベラル陣営も「戦争は絶対悪」という原則を貫くだけで戦争そのものに対する(具体的な)思考が止まっているような印象があるとする、独自の視点を読者に投げかけています。
氏はこの論評において、安保法制をめぐるマスコミの論調やテレビの報道には、何故かとても違和感を覚えると述べています。
社会学者の古市憲寿氏の著書『誰も戦争を教えてくれなかった』でも指摘されているように、日本の教育現場で戦争の問題は「ダメ・絶対」で片づけられてしまっている。私達の「戦争」というものに対する基本的な認識というのは。結局(70年前の)太平洋戦争に基づくものであり、しかもその太平洋戦争に関して全貌をきちんと学ぶ機会が奪われているというのが、この問題に関するchatnoir氏の基本的な問題意識です。
一般的な日本人が持つ戦争のイメージは、空襲に逃げまどい物不足で悲惨な目に遭う一般市民であり、あるいは戦場における日本軍の蛮行といったかなり偏ったものとなっていると氏はこの論評で述べています。そこには戦争における戦略や戦術、情報や兵站といった視点は全くなく、戦争の一面のみが強く強調されたいびつなものになっているのではないかいう指摘です。
多くの日本人の脳裏には、「あの戦争」の特に末期における情景ばかりが刷り込まれている。「子供たちを戦場に送るのか」というようなコメントに代表されるように、「戦争」と言うふた文字を見るだけで、赤紙一枚で招集され、劣勢色濃い戦場で「玉砕戦」のような無謀な戦闘に命を散らしていく若者を無意識に思い浮かべてしまうということです。
しかしよく考えれば、まず、近代戦というのは基本的に軍隊と軍隊のぶつかり合いであり、局地戦が太宗を占める近代戦では、多くの市民を無差別に攻撃するような戦闘は一般的には想定されていないと、この論評で氏は指摘しています。
さらに現状では、日本がいわゆる「全体戦争」に巻き込まれる可能性は限りなく低いとchatnoir氏は考えています。
現代の戦争は、少なくとも先進国においては高度にハイテク化され、兵士や一般市民の死傷率は相当低くなっている。そもそも第二次大戦ですら死傷率は5%未満であり、死傷者の数字だけ見れば戦争よりも交通事の方がはるかに深刻な問題ではないかというのが氏の認識です。
もちろん、一般市民が戦争に巻き込まれた場合の悲惨さについて、十分学んでおく必要があることは言うまでもなく、戦争が局地戦に留まらずにエスカレートした場合、大量破壊を生み出す可能性も当然否定できるものではありません。
しかし、だからと言って、「戦争」という行為から目をそむけているだけでは、全面的な戦争を抑止したり、局地的な戦闘状態となった場合に被害を最小限に食い止めるための対応ができないのでないかというのが、この論評におけるchatnoir氏の論点です。
北朝鮮やその他の国が、日本に向けて弾道ミサイルを発射する可能性は当然ゼロではありえない。日本が国際情勢に背を向け、国内で平和主義を声高に唱えても、とても隣国のミサイル発射を抑止できるとは思えないとchatnoir氏は言います。
国民に被害を及ぼす事態を招くリスクを限りなくゼロに近づけるためにも、国民や国家を守る責任上、日本政府は、「日米同盟の緊密化」や安全保障法制の実現などをひとつひとつ具体化していく必要があるのではないかというのが、氏の下したひとつの結論ということになります。
さて、国会等において様々な立場から活発な議論が続けられている安保法案ですが、集団的自衛権の行使を含む自衛隊法の改正などによって、日本が海外で戦闘行為に巻き込まれるようになる可能性も確かにゼロということはないでしょう。
一方、chatnoir氏の指摘のとおり、われわれが戦争のイメージばかりをふくらませアレルギー反応のようにこれを遠ざけ見ないことにしても、国際社会がそれと違ったルールで動いている限り、その時々の状況が、日本に対し様々な判断を迫って来ることにもまた現実であるのかもしれません。
既存のバランスが崩れ緊張感を増す国際社会に対峙していくためには、集団的自衛権(の行使可能性を担保すること)によって各国との連携を深め、戦争を抑止していくという手法がもたらすメリットとデメリットを冷静に比較検討し、より効果的な方法を選択していくことが、今の日本には求められていることを、われわれもきちんと受け止める必要がありそうです。
戦争を「絶対悪」と位置付け思考停止に陥ってしまうことの危険性を、氏はこの論評の最後に改めて指摘しています。
安全保障問題を論じるに当たっては、観念的な平和論ばかりではなく、国際情勢をリアルに見つめる視点を養い、また必要があれば想像力を広げ戦争の「やり方」についても議論する、そんなある種の「したたかさ」と「柔軟さ」が必要なのではないかとする氏の主張を、無視できないひとつの方法論として私もある意味リアルに受け止めたところです。
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