MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯356 集中処理と分散処理

2015年06月07日 | 社会・経済


 コンピュータネットワークを利用形態という視点からながめると、大きくふたつの流れがあることが判ります。ひとつは大型コンピュータを利用して「集中処理」を行う形態で、もうひとつはパソコンなどの小型コンピュータ同士を接続して利用する「分散処理」という形態です。

 今でこそ、コンピュータと言えば、職場や家庭にある薄いラップトップ(←既にこれも死語になりつつありますが)型のパーソナルなサイズのものを思い浮かべますが、ほんの30年ほど前までは、ほとんどの場合、会社のどこかの(専用エアコン付きの)広い部屋に陣取られた大型のメインフレームをイメージさせる言葉でした。

 当然、「コンピュータネットワーク」というのはそうした大型コンピュータをユーザが共有して使うためのシステムであり、定期的なバッチ処理などでデータを出し入れし、まとまった業務を一気に処理させるために存在していたのです。

 しかし、パソコンなどの小型で安価で高性能なコンピュータが普及するようになると、複数のコンピュータに機能を割り振って必要に応じてそれらを使い分けるという、新しいネットワークの形態が発展することになりました。

 コンピュータと付き合い始めた頃の日本人の感覚から言えば、中央のメインコンピュータに繋がった端末というクローズドなネットワークは、管理する者とされる者という、ある意味「主・従」のイメージと上手く繋がる非常に感性に合った判り易いシステムでした。それが証拠に、一時代前のマンガやSFの世界では、人類を管理するために作られたマザーコンピュータが(独自の意志を持ったりして)しばしば暴走し、社会を混乱の渦に陥れていたものです。

 で、あるがため、インターネットが普及し始めた頃、日本人の多くがその「ネットワーク」の意味やメリットを十分に理解することができませんでした。誰かがコントロールしているようでしていない、ばらばらなコンピュータが標準的なプロトコルのみによって繋がれることで、ひとつのバーチャルな「世界」や「空間」を作るというイメージを、人々はなかなか頭の中に結ぶことができなかったということです。

 しかし、実際のところ、中央(の権限)によって集中管理されるシステムの脆弱さは(メインフレームへの攻撃やトラブルによるダメージなどを考えても)まさに決定的であり、リスク管理の視点から考えれば(一見ラフなシステムに見える)フラットな分散型処理に大きなメリットがあることは明らかです。

 また、現代のインターネットの隆盛を見るまでもなく、ネットワークでつながれた「平等」で「自由」な参加者によるシステムが持つ柔軟性が、ネットワークの設置者の意図を超えて、彼らの「世界」を次々と進化させていく原動力となっているのも事実です。

 さて、(社)日本デジタルマネー協会理事の大石哲之氏は、5月8日の言論プラットフォームサイト「アゴラ」において、日本でビットコインなどの(権威によって管理されていない)電子マネーが余り受け入れられない理由を、「結局は、日本人は、非中央集権なコンセプトがピンと来ないのではないか」と厳しく評しています。

 「分散型通貨」「分散型統治機構」「分散型意思決定」といった言葉を聞いて、ピンと来る人と来ない人は明確に別れると、大石氏はこの論評で指摘しています。

 ピンとこない人には、いくら何を言ってもピンとこないのだろう。日本は昔から中央の権威を信頼するという思考法だった。なので、非中央集権的な通貨や仕組みができたところで、「だから何?」とスルーされているのではないかということです。

 大石氏によれば、例えば「法の支配」などの(プロトコルとしての民主的な)手続きについても、普通の日本人にはあまり関心がないということです。お上の裁量でいろいろやったとしても、「まあ上手く行けばいいそれで良い」と考える。従って、民主主義にも関心はなく、独裁政権であっても上手くやってくれさえすればそれで良いと思うのが殆どの日本人の正直な思いだろうと氏は見ています。

 実際、日本人は世界のどのような国よりも(例えば国家社会主義の中国などよりも)、遥かに政府のことを信頼している。確かに政府に文句はあるが、それは「仕組み」レベルのものではなく、もっと賢く支配してほしいと願っているだけだというのが、この問題に対する大石氏の基本的な認識です。

 こうした風土の下では、分散型云々とか、法の支配とか、プロトコルによる統治とか、分散型意思決定とか言っても、多くの人がやはりピンとこないと思う。そして、この部分がピンとこない人にとって、ビットコインはいつまでもピンとこないもののままだろうと大石氏は見ています。

 翻って、ビットコインを気に入っている人は、例えすこし不便でも、かなり発展途上であっても、このシステムが持つ分散型のコンセプトが気に入っているのではないか。遅くても、欠陥があっても、非中央集権であるという前提自体が、全ての欠陥をカバーできるほど重要だと感じているのではないかということです。

 既存の権威の延長上には無い「別の場所」で、これまでにない全く新しいものを作りたいと考えているから、不便でも分散型のテクノロジーの開発に力を注ぐ人々がいる。粛々と、100年後を見据えて、分散型の社会を作ることを努力する人々を応援することの意味と思いを、大石氏はこの論評で語っています。

 私自身、ビットコインそのものに関心がある方ではありませんが、確かに「集中処理」を行う中央集権型の中央で管理されたシステムほど脆弱なものはないという基本を、私達はこの辺で、もう一度思い出しておいた方がいいのかもしれません。

 戦前の日本ではありませんが、ひとつの権力(や情報)の下に管理された人々が、例え間違った方向であっても、それに気付かず進んでいくリスクを負っているのは事実でしょう。強いリーダーの下に統率された中央集権的な統治機構のガバナンスが、一定の状況下では極めて脆弱なシステムであることを、私たちは常に頭のどこかに置いておく必要があるのかもしれません。

 ビットコインの精神は精神として、例えセンターのメインフレームが機能不全を起こした場合でも、社会全体の知恵を受け止めそれを修正することが可能となるようなサブシステムの必要性とその発展可能性について、大石氏の指摘から私も改めて考えたところです。




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