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9月29日のHUFFINGTON POST(JAPAN)に掲載されていた、作家の雨宮処凛(あまみや・かりん)氏による「石原慎太郎の葛藤と、相模原障害者殺傷事件の背景を考える」と題する論評が目に留まりました。
9月28日の自身のブログから転載されたものとのことですが、7月26日に神奈川県の相模原市の障害者福祉施設で起きた障害者殺傷事件を背景に、日本の社会に対峙する個人の意識や心理を(ある意味とても)リアルに切り取った内容に思えたので、(うまく整理できるかはわかりませんが)備忘の意味で取りあえずその内容をまとめておきたいと思います。
雨宮氏はまず、雑誌、「文學界」にでの対談において、作家の石原慎太郎氏が述べた「この間の障害者を19人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味でわかるんですよ。」という発言に注目しています。
一方、同じ対談の中で石原氏は、「老い」や病(脳梗塞)に直面し、狼狽え戸惑っている自分を素直に物語っている。脳梗塞で海馬がダメージを受け、「自分で自分にイライラする感じ」の中で、「おまえ、もう駄目だな」と自問自答せざるを得ないといった葛藤を吐露しているということです。
雨宮氏はここで、(あの)石原慎太郎が弱音を吐いている姿に心の底から驚いたとしています。そして、「高齢者」「病者」という弱者性を抱えながらも、同じ対談で障害者差別発言を繰り返す彼の存在がますますわからなくなったということです。
普通、自分も弱さを抱えれば、種類は違っても「弱さ」を持つ人への共感の気持ちが生まれるものではないか。
そんな彼女の疑問に鮮やかに答えてくれたのは、「現代思想」誌の相模原障害者殺傷事件特集に掲載された、上野千鶴子氏の「障害と高齢の狭間から」と題する論評だったと雨宮氏は記しています。
この論評の冒頭には、相模原の事件後、同市内で開催された在宅医療を巡るシンポジウムで、「相模原事件を取り上げましょうか」とコーディネーターに振られた際に、上野氏が「ここに来る聴衆には関心がないと思う」答えたというエピソードが語られています。
なぜかと言えば、それは、高齢者が自分自身を「障害者」だとは思っていないから。それどころか、障害者と自分を区別して、「一緒にしないでくれ」と思っているからだと上野氏は説明しているということです。
脳血管障害の後遺症が固定して周囲が障害者手帳を取得するよう勧めても、それに頑強に抵抗するのは多くの場合高齢者自身である。それは、高齢者自身が、(そうでなかったときに)障害者差別をしてきたから。自分が差別してきた当の存在に、自分自身がなることを認められないからだと上野氏は厳しく指摘しています。
上野氏は、超高齢化社会とは、どんな強者も強者のままでは死ねない、弱者になっていく社会であると説明しています。誰もが身体的・精神的・知的な意味で、中途障害者になる社会であり、いついかなるときに、自分が弱者にならないとも限らない。
そして、弱者になれば、他人からお世話を受ける必要も出てくる。だからこそ、弱者にならないように個人的な努力をするよりも、「弱者になっても安心して生きられる社会を」と上野氏は訴え続けてきたのだということです。
しかし、それでも多くの人が、弱者になった自分を受け入れられないと上野氏は述べています。
実際、講演後の懇親会の席で、氏は初老の男性から「脳梗塞で倒れたあと、あの時家族が救急車を呼ばずにいてくれたらと、何度恨んだかしれない」と訴えられたということです。
障害者になった自分を受け入れられない。「役に立ってこそ男」という考えから抜けられない。「社会のお荷物」になる自分を受け入れられない。このような「高齢者の自己否定感」が、高齢化社会における老後問題の最大の課題だと上野氏は指摘しているということです。
同じような感覚から、石原氏も、今までの「強者」の思想と現在の自分との落差に愕然としているのだろうと、改めて雨宮氏は記しています。
当然、その背景にあるのは、生産性が高く、効率が良く、その上費用対効果がいいものでないと「価値がない」とする考え方に他ならない。全てが数値化され、どれくらい経済効果が得られるかのみに換算される価値観の存在があるということです。
しかし、そんな価値観は、結果的に「弱さ」を抱えた自分自身に牙を剥くことになると雨宮氏は言います。
言うまでもなく、石原氏が抱える自らへの苛立ちや葛藤は、そのような効率原理から生まれ出たものであり、そこから抜け出さない限り消えることはない。そしてそれは今、多くの高齢者を苦しめているものの原点だという指摘です。
雨宮氏によれば、高齢者が抱えるこのようなジレンマに対し、社会学者の大澤真幸(おおさわ・まさち)氏は、これを「迷惑」というキーワードで論じているということです。
大澤氏は、同じ「現代思想」誌に、「この不安をどうしたら取り除くことができるのか」と題する論評を寄稿しているということです。そしてこの論評において大澤氏は、「できるだけ多くの人が幸福であるほうがよい」、「不幸や不快はできるだけ少ない方がよい」とするアイディアは、実は危険な思想であると看破していると雨宮氏は言います。
この思想を突き詰めたものを、私たちは「功利主義」と呼ぶ。功利主義に基づくと、他人に多くの快楽や幸福をもたらす人の生は重んじられ、逆に、他人に苦労を要求せざるを得ない弱者の生は軽いものになってしまう。
恐らく、(今、老いを迎えようとしている)ほとんどの親たちは、「人様に迷惑をかけてはいけない」と言って子供を教育してきたのではないかと大澤氏はこの論評で述べています。
確かに、これは文句のつけようがない、道徳的な項目といえなくもありません。しかし、(今見てきたように)その合意をどんどん拡張していくと、まったく賛成できない主張にたどり着いてしまうことになりかねないということです。
そこで大澤氏は、「それ故、こう問わないといけない」としています。それは「ほんとうに、迷惑をかけることは何もかもいけないことなのか?」という、伝統的な価値観への素朴な反論です。
雨宮氏は、「現代思想」に掲載されたこの大澤氏の文章を読んで、相模原事件が私の心を離れないのは、容疑者である植松某の主張と現実の社会が奇妙に符合していることによるのかもしれないと評しています。
そして、それはあたかも、ネット上の悪意に満ちた言説や、学校で教えられるタテマエや、経済原理ばかりを追求して財源論で命を値切るような社会の空気を突き詰めて得られた、「最悪の解」と同質のものだということです。
事件後から容疑者の措置入院解除が問題視されているが、この議論の行き着くところは必然的に「予防拘禁」の肯定ではないかと雨宮氏はこの論評で指摘しています。
精神障害者は再犯の怖れが完璧になくなるまで隔離せよという主張は、「障害者に生きる価値はない」とする植松容疑者の主張とほとんど重なり合うものとなる。このように、あの(相模原の)事件は、私たち(の倫理観)に様々な課題を突き付けていると氏はしています。
さて、IT技術の飛躍的な進歩などにより情報アクセスへのハードルが下がる中、現代人は様々なものの考え方に接する機会が(それこそ飛躍的に)増えているはずです。
しかしながら、そうしてもたらされたグローバリゼーションの進展の結果、私たちの価値基準は逆に集約され、集団に対する価値(役に立つか、立たないか)が優先されるシンプルな功利主義に収斂しつつあると言えるかもしれません。
一方、雨宮氏の論評でも指摘されているように、私たち人間はそれぞれが一個の生き物に過ぎず、命という頸木からは誰一人として逃れることができないのは自明です。心身の能力は人それぞれに異なるうえ、人は誰でも老い、病み、死んでいく存在です。
そう考えれば、押し寄せる功利主義の魅力と破壊力(と愚かさ)の前に、「生命の尊厳」が最後の砦であることは疑う余地がなく、ここしばらくは両者の間で厳しい鬩ぎあいが続くことになると考えるところです。
この論評の結びにあたり、雨宮氏は「最も心に残った言葉」として、DPI(障害者インターナショナル)日本会議の尾上浩二氏による「殺されてよい命、死んでよかったというような命はない」というコメントを挙げています。
まさしく人の生命とはそういうものであり、価値の根底に位置付けられるべきものであることを、この論評から私も改めて重く受け止めたところです。
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