書店の店頭で手に取った片岡義男氏の新刊「歌謡曲が聞こえる」(新潮新書)を相手に、1960年代から70年代にかけての記憶がつらつらと蘇ってくる感覚を楽しみながら、午後から夕方にかけての3時間ほどをスターバックスの片隅で過ごしました。
あいにくの雨降りとはいえ街中のカフェは明るく快適で、ノートPCを広げて何やら入力中のサラリーマンや、おしゃべりに夢中な女子学生などで大変に賑わっていました。
そして、アメリカナイズされた清潔で合理的な空間が持つ乾いた雰囲気と、今では当たり前になってしまったコーヒーの紙コップやプラスチックの蓋などの意匠が、今ここにある「現在」と「昭和」との間にある(50年ほどの)時間的な「隔たり」感を増幅させる小道具として、思った以上に演出効果の高いものであることを知りました。
この著書の中で片岡氏は、「戦後」と呼ばれた時代の日本でヒットした、いわゆる「歌謡曲」というジャンルの音楽の歴史を振り返り、これらのひとつひとつを丁寧に「聴き返す」ことで、時代とともに生きた日本人の精神構造や社会の移り変わりを淡々と描き出しています。
片岡義男という作家は、「スローなブギにしてくれ」「彼のオートバイ、彼女の島」など、若者の世相を映したハードボイルド系の作品群で知られる、1970年代から80年代にかけて花開いたいわゆる「カドカワ・エンターテイメント」の立役者の一人です。
学生運動の熱い時代が幕を下ろす中、少し「醒めた」風合いを持つ簡潔な文体が「新人類」と評された豊かな世代の共感を呼び、バブル期の少し前にはそのいくつかが映画化されるなど、氏の小説は20代を中心に絶大な人気を博していました。
また、このようなフィクションとしての短・中編小説と並行して、片岡氏は1970年代の早い時期から様々なノンフィクション作品や論評を手掛けています。中でも、2000年前後に発表された「自分と自分以外」(NHKブックス)、「日本語の外へ」(筑摩書房)などの一連の著作は、第二次大戦後の日本人のアイデンティティとアメリカとの関係を冷静な視点で整理、考察した随想として、静かな話題を呼んできました。
そう考えれば、この新刊の「歌謡曲が聞こえる」も、片岡氏が追いかけてきたテーマをある意味補完し、戦後の日本人の精神性のくびきに迫ろうとする試みのひとつと言えるのかもしれません。
さて、この著書の中で片岡氏は、様々な流行歌が(まるで空気のように)巷にあふれていた時代(1960~70年代)を振り返り、「思えば当時の東京は喫茶店の時代だった…」と述べています。
その時代、東京には街のいたる所に「喫茶店」という名のスペースがあり、大抵の店ではレコードを再生してスピーカーから聴かせるという形でBGMを提供していた。店のどこか目立たない所に置かれたレコードプレイヤーと真空管のアンプ。そこに二つのスピーカーがケーブルで結ばれ、営業中はほぼ切れ目なしにLPが再生されていたと、氏は当時の様子を描いています。
私の記憶でも、こうした喫茶店は東京のいたる所に穴倉のようにいくつもぽっかりと口を開けており、たいがいはいわゆる「常連」と呼ばれる住人の住処として、少し薄暗く、ほこり臭いにおいを漂わせていたものです。
山手線の高田馬場駅から早稲田通りを早大方面に200メートルほど歩いた場所に、「らんぶる」という名前の喫茶店がありました。看板や紙マッチに「名曲喫茶」と記されていたように、そこはリクエストに応じてクラッシックの名曲をLPレコードで掛けてくれるコーヒーショップとして、少なくとも当時は違和感なく存在していました。
今から思えば、よくも商売として成り立っていたと驚くのですが、こうした「名曲喫茶」や「ジャス喫茶」(その他にも「歌声喫茶」など)という不思議なコーヒーショップが、当時の東京には結構普通に店を構えていました。少し無愛想なマスターと、学生運動にくたびれた今で言うプータローのような人達、田舎出の頭でっかちな大学生などが、狭い空間で午後から夜の閉店時間までの時間をつぶすためにしつらえられた空間です。
しかしそういう意味で言えは、ランブルのマスターは少し変り者だったかもしれません。
椅子ともレコードともつかない様々なガラクタが盛大に積み上げられた、薄暗い(と言うよりは「かなり暗い」)店内に、お客と言えるような人がいた記憶はあまりありません。木製のかしいだドアを開けて埃っぽい店に入ると、「いらっしゃい、扇風機つけるから奥に入ってよ。」とか、「今日は寒いからさぁ、ストーブの脇の席においでよ。」となどと、その建物が作り出すあのシュールな雰囲気に似合わない、やたら元気な愛想のいい声が早速かけられます。
年齢を聞いたことはありませんでしたが、当時大学生だった私の目で見る限り、歳の頃なら「初老」をとうに過ぎた60代の半ばといった印象だったでしょうか。初めてこの店を訪れたたいがいの人は(蝶ネクタイ姿の)その「違和感」に圧倒され、怖れをなしてそのまま踵を返して店を出ていくか、かなり濃いめのコーヒーだけを飲んでそそくさと退散していくことになります。
そして、当のマスターと言えば、相手が御しやすいと見るやすかさず話しかけていって、(迂闊に相槌を打ったりすると)注文もそこそこにクラッシック音楽、特に交響曲(シンフォニー)がいかに素晴らしいかとか、レコードと著作権の関係はどうなっているかなどそれこそ延々と聞かされるはめになるのです。
まだ10代だった私が授業が終わってバイトまでの時間つぶしに最初に店に入った際、コーヒーを持ってきたマスターから「リクエストはあるの?」と聞かれた瞬間を今でも鮮明に覚えています。
咄嗟に「モーツァルトの40番」と答えた(それしか知らなかった)のが気に入られたのか、次からは訪れるたびに黙っていても40番のLPに針が落とされるようになりました。従って、私自身はその後もあまりマスターの暇つぶしの犠牲になることなく、平穏な時間を過ごすことができたというわけです。
しかし、改めて思い出してみると、「名曲喫茶」を標榜している割にランブルでは歌謡曲やFMラジオの音楽番組なども確かによく流れていたような気がします。今から思えばもしかしたらあの変わり者のマスターには、クラッシックそのものに余りこだわりなどなかったのかもしれません。
さて、そうはいっても貧乏学生だった私がこの店を訪れたのは、(頻度としては)多い時でもひと月に一度くらいのことだったでしょうか。店の座席は決して快適ではなかったし、何よりコーヒーが(少し高い割に)あまり美味しくなかった。
なぜ、こんな何十年も昔のことをとりとめもなく思い出したのかと言えば、(片岡義男氏の新刊に触発されたこともさることながら)そのつい数時間前、数年ぶりにその早稲田通りを歩いていて、名画座の「早稲田松竹」のすぐ奥にあったはずの「らんぶる」の建物が見当たらなかったことに気が付いたからです。
確か以前にそこを通った時は、(当然営業はしていないにしても)少し傾いた建物が蔦に絡まれ、それでも何とか頑張って立っている姿が認められていました。「へー、まだあるんだぁ」と驚いてから、さらに数年の月日が経ってしまっていることに改めて気付かされ、多分にがっかりした記憶が心のどこかに残っていたということでしょう。
昭和の時代を生き抜いたあの建物をもう見ることができないかと思うと、(しばらく忘れていたとは言え)それなりに動揺し、寂しい思いに突き動かされたのは事実です。
そして、たった今気が付いたのですが、私が当時「らんぶる」に通っていたのは、音楽のためでも変わり者のマスターのためでも、ましてやあの苦いコーヒーを飲むためでもなく、人を異次元の世界に引き込むような和洋折衷のあの「建物」の魅力に導かれたものだったのかもしれません。
昭和という時代、東京の恐らくあちらこちらにあったああした「魔界」のような空間を、忙しく働く現代人には既に受け入れる余裕が無くなっているのかもしれません。
「失われたもの」は、失われて初めてその意味を考えたりすることができるようになるのでしょうか。
人の「思い」というものは、ほんの少しのきっかけから徒然に広がっていくものだと改めて感じます。新刊書を相手にスタバで時間を過ごしながら、喪失感と温かさがまじりあう不思議な感覚を反芻した日曜日の午後となりました。
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