「冬は落語が上手くなったような気がする」…生前の談志がよくこう言っていたようですが、確かに冬場、特に年の瀬に聞く落語には、庶民の心に響く日本人独特の(ちょっと優しい)風情のようなものがあるような気がします。
木枯らしが吹く日曜日の午後、湯呑に渋茶をたんと入れて堀炬燵などに入りラジオから流れる名人の小噺などを聞いていると、熊さんや八っあんに垂れる御隠居や大家さんの人生訓も妙にしみじみと聞こえたりするものです。
巷の皆がせわしなく動き回っている歳の暮れ。大掃除やおせち作りに忙殺されている家の者からはあてにされず、「少し出てくるよ」と邪魔者ついでに抜け出して浅草や上野界隈の寄席に居座りを決め込むのも、(多少の後ろめたさも相まって)それはそれで楽しいものです。
周囲を見渡せば、やはり同じような境遇のじい様方の笑顔がたくさんあって、今年もいい年の瀬になりましたねと、一緒に幸せな気分に浸ることができます。
この時期の落語と言えば、「芝浜」、「掛取り」、「穴泥」などが思い浮かびますが、いずれも借金や酒の失敗にまつわる、(ちょっと心温まる)ストーリー性の高い演目です。気が付けば噺家の世界に取り込まれ、一緒に寒空の下を走ったり、凍えた体を温める熱燗にあり付いたり、借金取りをごまかしたり女房に叱られたりしている自分に気が付きます。
最近は、パソコンやインターネットなどという昔は想像すらできなかったような道具が普及していて、既に鬼籍に入った大名跡の名演などを、自宅に居ながらにして楽しむことができるようになりました。また、You Tubeなどという便利な動画サイトもあったりして、名人芸をその所作の細部に至るまで、必要があれば繰り返し堪能することが可能です。
さて、そうした暮れの定番演目のひとつに、「富久」があります。
富久と言えば、年の瀬の江戸らしく「火事」と「酒」と「富くじ」という三拍子がそろった大変賑やかな演目で、(三代目)古今亭志ん生、その長男の初代志ん朝、テレビなどでも活躍した次男の三代目志ん朝の名人親子が十八番のひとつとしていたことでも知られています。
今年の暮れはこの3人に加え、八代目文楽、人間国宝の小さん、そして談志と、計6人の大看板の富久を、ネットを通し何日か掛けて改めて聴いてみました。
浅草三間町の長屋に住む幇間の久蔵は、酒癖が悪いのが玉に傷。御贔屓筋をしくじって女房にも逃げられ、今ではひとり寂しい貧乏暮しをしています。
そんな暮れのある日、知り合いから偶然買った富札を神棚に供えたまま酔いつぶれてしまっていた久蔵は、贔屓の旦那の家がある芝近くで火事との知らせでたたき起こされます。おっとり刀で駆けつけて何とか旦那のご機嫌をとりなおしたまでは良かったのですが、そこでまた酒を飲んで酔っ払ってしまう。
ところが今度は浅草方面が火事との知らせでまたたたき起こされ、あわてて駆け戻ってみると、長屋は家財もろとも既に丸焼けのあり様です。
数日後、たまたま通りかかった富くじの抽選会で、久蔵は以前買った富札が見事千両当たっていることを知らされます。確かに当たっていたのに富札は火事で灰と化し、一文の賞金にもありつけない。嘆く久蔵が肩を落として歩いていると、ばったり会った顔なじみの鳶の親方が、「そういゃ、おめえんところの神棚預かってるぜ」と。
こうして当たり札を手にした久蔵は、「これも大神宮様のおかげです。これで方々に『おはらい』ができます」と(借金の支払いと「お祓い」をかける)落ちをつけ、この噺は締まります。
志ん生の久蔵はぱりぱりの江戸っ子で、「てやんで、このやろう」といった勢いが魅力的。初代志ん朝も親子だけに良く似た風情なのですが、加えて少し気弱な印象がこれもまたよし。三代目志ん朝は持ち前の真面目さがうまく出ていて、久蔵にも律儀な庶民の姿が浮かびます。
文楽の久蔵は、幇間らしく少し斜に構えた芸人の体であり、小さんは相変わらずのゆったりとした芸風で、久蔵ものんびりしたいい味を出しています。そして談志が描く久蔵は、やっぱり少しいい加減で、酒にだらしない八方破れの迫力があったりします。
いやはや落語というのはいかに話し尽くされた古典であっても、やっぱり噺家の送ってきた人生そのものが、ほんのり…というかしっかり出てくる所にその魅力があるようです。逆に言えば、噺家というのは大勢のお客様に自分の人となりをさらけ出してなんぼの稼ぎをする、因果な商売と言えるのかもしれません。
今回、聴いた6人の名人は、いずれも既にこの世を去って久しい人達です。しかし、こうした落語の登場人物の中に、そして落語ファンの記憶の中に彼らの人となりがしっかりと生き続けていることを、私も改めて確認した次第です。
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