MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯1838 うっせぇわ!

2021年05月01日 | アート・文化


 昨年10月23日にYouTubeに初めて投稿されてから半年、4月27日には1億2千万回の再生を数え、「子供に歌わせたくない歌第1位」など大きな話題となっている『うっせぇわ』。作詞作曲は米津玄師などと同様ボーカロイドシーンで活躍するボカロPの syudou氏で、歌っているのは同曲の発表日が「17歳最後の日」だったという2002年生まれのAdoという名の現役女子高生とされています。

 ちなみに、ボーカロイド(VOCALOID)とは、ヤマハが開発した音声合成ソフトのことで、この技術を駆使してネット上で音楽作品を発表するクリエーターを「ボーカロイドプロデューサー」(略してボカロP)と呼ぶそうです。彼らの作品の創作やプロデュースの仕方は従来の音楽業界のそれとは大きく異なり、才能とデータが直結し、カスタマーがそれを直接選択するというスキームでビジネスにつながっていくのもののようです。

 実際、1年ほど前まで元サラリーマンだったという syudou氏は、4月30日に放送されたテレビ朝日系音楽番組「ミュージックステーション」の取材にリモートで応じ、歌っているAdoとは一度も会ったことがないと話しています。

 さて、自分を抑圧する大人たちへの「うるさいなぁ」という思いは、(きっと)社会に生きる誰もがある種のいらだちとともに経験したことがある感覚でしょう。それを(女子高生の強烈なアニメキャラクターとともに)ここまでストレートに表現したこの楽曲には、還暦を過ぎようとしている世代としては「参りました」と言うほかありません。

 「うっせぇうっせぇうっせぇわ」と(ちょうどオクターヴの跳躍を反復する)メロディに圧倒され、「あなたが思うより健康です」と断言されれば次の言葉はなかなか出てこないのも事実です。

 「ちっちゃなころから優等生、気づいたら大人になっていた」私。でも、遊び足りないし何か足りない。実際は「社会人の当然のルール」なんて本当は知ったこっちゃない。(「そんなの当り前だろ」と)何を偉そうに説教してんだよ…そういった気持ちは今も昔も変わらないものなのでしょう。

 しかし、その一方で、「社会の常識やあり方なんてどうでもいいと」反抗したり実際に行動に移したりすることもなく、「うっせぇわ」とただ心の中で繰り返し反発を募らせているようにも聞こえるこの楽曲の世界観を、なんとなく(器用で立ち回りのうまい)「イマドキ」の20代を重ね合わせてしまうのは私だけではないでしょう。

 話題が話題を呼んでひとつの「ブーム」を巻き起こしているこの『うっせぇわ』に関し、東京大学教養学部の非常勤講師で音楽評論家の鮎川ぱて氏が 3月5日の総合情報サイト「現代ビジネス」に、「『うっせぇわ』を聞いた30代以上が犯している致命的な勘違い」と題する興味深い一文を寄せているのでここで紹介しておきます。

 鮎川氏はこの寄稿において、「この曲は「大人への抗議」を歌ってはいない」と指摘しています。

 抗議とは、コミュニケーションだと氏は言います。若者が、盗んだバイクで走り出したり校舎の窓ガラスを割って歩いたりしなくなってもうずいぶん経った。若者が大人世代に反発心を持っているなら、それは自分たちにわかるかたちで表現されるだろうと思う大人世代は、楽観的に過ぎると氏は話しています。

 現代の若者は、あなたの前では最後の直前まで「優等生」で「模範人間」でいるだろう。一方、「うっせぇわ」が描いているのは、大人への断念(と大人との断絶)であり、実際には語られることのない本音だというのが氏の見解です。

 言うなれば、飲み会で年長者と談笑した翌日に辞表を出す若者の内面のようなもの。事が起こったときにはそれは終わっているし、そこにはコミュニケーションは必要とされないということです。

 現代の日本社会において、若者はマイノリティだというのが鮎川氏の指摘するところです。例えば、国内外の様々な調査によれば、日本の人口の8〜10%がLGBTQなどのセクシュアル・マイノリティに該当すると言われる。対して、現在の日本の10代(10〜19歳)の人口は約1100万人。日本の総人口(約1億3000万人)に占める割合は8%程度でセクシュアル・マイノリティの割合と同じくらいだと氏は説明しています。

 社会がセクシュアル・マイノリティを存在しないもののように扱うことは、そうした10代全員を存在しないもののように扱うことと等しい。それがどれだけ暴力的なことかを想像してみる必要があるということです。

 若者は自分たちもまた、自身がマイノリティであることをすでに直感的に知っているのではないかと、鮎川氏はこの論考に綴っています。団塊ジュニア世代が10代だったころと、いまの10代とでは、世界の見え方があまりにも隔たっているというのが氏の認識です。

 もちろん、マイノリティが声を潜めなければいけないということはいっさいないと氏は言います。しかし、多数決の論理のもとでつねに強者となるマジョリティ=大人に対し、そしてその「強者性」への無自覚さに対して、若者たちが世代全体として諦念を共有していたとしても何の不思議もない。もうずっと前から若者は、盗んだバイクで走り出したりできない状況に置かれているということです。

 本音は音楽に託して、マジョリティである年長者には期待しない。一方で、若者が上の世代を「一切合切凡庸な」と指差してしまうのは、数が多すぎて顔が見えないからだと氏はしています。マジョリティは強者であり、マジョリティであるだけで加害者となり得る。「うっせぇわ」は、その被害者たちの声だというのが、この論考で鮎川氏が指摘するところです。

 そういえば、元気に頑張っていたと思っていたのに、年度末になって(急に)退職を申し出てきた20代が、私のオフィスにも何人かいたと聞いています。穏やかで器用で回転が速く、上の世代ともうまく付き合っているように見えても、(鮎川氏も言うように)もしかしたら世代間の分断はすでに大きく進んでいるのかもしれません。 

 彼らには抗議するつもりも、反抗するつもりもない。そもそも「分かってもらえる」とも思っていないのか。上の世代が思っているよりもずっと「健康」な彼らに、「クソだりぃな」と思われるのはまだしも、「丸々と肉付いたその顔面に×」を付けられないようしっかり向き合っていく必要があるのだろうと改めて感じたところです。



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