MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2368 スポーツが人格形成に果たす役割

2023年02月21日 | 教育

 一般に「スポーツマン」という言葉には、男らしく純粋で爽やか、健康で正義感が強く友情に熱い…といった、(あくまで)健全なイメージが漂います。私的には、慶応ラグビー部のスタンドオフを任されるような、お金持ちだけれどそれを鼻にかけない、温和でやさしい力持ちという感じ。松任谷由実や竹内まりやの歌に出てくるような(お嬢様の)女子大生が憧れる、ちゃらちゃらしないタイプのナイス・ガイの印象です。

 確かに、「巨人、大鵬、卵焼き」と言われた昭和の昔から、野球選手やプロレスラーは子どもたちのあこがれの的でした。そしてこの令和の時代になっても、サッカー選手のトレカなどを集めている子どもたちはまだまだ多いのではないでしょうか。

 彼らは、全身全霊で試合には臨むけれども、勝ち負けという結果にはこだわらない。友情に熱く仲間思いで、スポーツマンシップを持ちルールーに厳しいというのが、世の中一般の評価というものでしょう。

 こうして誰もが憧れるスポーツマン。しかし、その実態はどうなのか?

 名桜大学准教授の大峰光博氏は、12月20日のPRESIDENT Onlineに寄せた『「運動部の部活は人格形成に必ず役立つ」はウソ』において、「スポーツ」のはらむ欺瞞、とりわけ学校における部活動が人格に及ぼす影響について、大変興味深い指摘を行っています。

 スポーツ基本法では、運動部活動で行われるスポーツは他者を尊重し、公正さを尊ぶ態度を培うと記されている。しかしそれでは、運動部活動に属さない生徒は、(運動部の生徒に比べ)他者を尊重し、公正さを尊ぶ態度を養う機会を失っているということなのかと、大峰氏はこの論考に綴っています。

 何をもって人格形成や人間形成がなされたとするかは見解が分かれるところだが、他者を尊重し公正さを尊ぶという社会性が包含される点については合意が得られるだろう。それでは、運動部の部活動が社会性(他者の尊重、公正さを尊ぶ態度)を養う上で(実際に)有効なツールになっていると言えるのか。

 氏によれば、運動部活動に参加する生徒には(いじめや、授業中に大声を出して騒ぐ行為など)反社会的傾向が強く、学校での逸脱傾向が高いという研究も存在しているとのこと(「部活動への参加が中学生の学校への心理社会的適応に与える影響」岡田雄司2009年東京都立大学)。また、哲学者の川谷茂樹氏は、スポーツは日常の倫理との緊張関係にあり、ほとんど不可避的に倫理的問題を引き起こす危険性を持っていると指摘しているということです。

 確かにスポーツには、相手の弱点を攻める、嫌がることをする、場合によっては殴る、蹴る、体当たりするといった日常生活で禁止される行為が許容される場合も多いと氏は言います。

 そうした中で、アスリートとして勝利を追求するためには、普通の人間としては「えげつない」行為を遂行する能力・技能が必要になる。審判に見えないところで(判らないように)ファウルを犯すことなども、勝つための技術として容認されるということです。

 一方、もしも運動部活動が社会性において必ずプラスに働くのであれば、中学生の4割が運動部活動に加入していない現状は極めて由々しき事態だと氏はこの論考で指摘しています。

 しかし現実社会では、飲酒、喫煙、薬物使用、いじめ、暴力といった事件が運動部活動に加入している学生によって繰り返され、また、運動部活動に長期にわたり加入していたトップアスリートが他者を尊重せず、公正さを尊ぶ態度が培われていないスキャンダルを頻発させている。こうした事例を見ればわかるように、スポーツや運動部での経験が必ずしも人格形成にプラスの影響をあたえるわけではないというのが氏の見解です。

 そもそもスポーツの語源はラテン語の"deportare"であり、「気晴らし」を意味するものだと氏はこの論考に記しています。身体を動かすこと、労働や日常の規範からの逸脱が、日々のストレスからの気晴らしとなる。もしも、スポーツそのものが労働や日常の規範の連続になってしまえば、それはもはや日常の規範にとっての「危うさ」にもなりかねないということです。

 さて、(その程度は違っても)技術として「えげつない」行為が要求されるスポーツは、それほど(例えば「スポーツ基本法」が言うほど)上等なものではないというのが、この論考で氏の指摘するところです。

 スポーツの魅力に、日常の倫理とは異なる倫理を求められることを挙げるアスリートも多い。そのようなスポーツを用いる運動部活動において、日常の倫理を重んじる社会性が育まれないことに何の不思議もないと、氏はこの論考の最後に綴っています。

 指導者が運動部活動において部員の社会性を養うことを目標とするのであれば、ひたすらに高いレベルを目指す必要はない。もちろん、生徒たちに甲子園や花園を目指させ、勝ち負けに一喜一憂する必要もないということでしょう。

 確かに、(例えアマチュアであっても)ボクサーが対戦相手の弱い部分に集中してパンチを浴びせるのは褒められるべきことのはず。卓球やバドミントンのポイントは、相手の嫌がる場所にいかに打ち返すかだというのは誰もが知るところです。

 先日のワールドカップサッカーでも、ファウルの判定欲しさに(相手選手かすっただけの足を)大げさに痛がってみせるスタープレイヤーの様子などを見るにつけ、スポーツとはそういうもの、多少えげつなくても結果に貪欲な方が勝つゲームだということが判ります。

 そうした観点に立ち、スポーツをする、学校で運動部に入るだけでは、(政府の言う「人格形成」のような)崇高な目標は到底達成されるはずがないことを肝に銘じておく必要があるとこの論考を結ぶ大峰氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。



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