「いい子症候群」という言葉があるそうです。親や上司の言うことをなんでもよく聞くいわゆる「いい子」でいることを行動規範とする、現代の若者たちの風潮を揶揄する際などによく使われているようです。
本当はしたくないことでも口に出して断われない。友達の輪から浮くのが嫌で意見ができない。だから大勢の前で褒められるようなことなどもされたくない…などなど。人から目立ったり特別扱いされたりするような場面を極力避けたいという若者のナイーブな心持ちを、一言で言い表す上手い言葉かもしれません。
そもそも、男女ともに(思春期にありがちな)「反抗期」というものが無くなったと言われて久しいZ世代のこと。自分の思いや意見を言ってぶつかるよりも、世間や親、家族、上司、友人らにとって従順な「いい子」であることを優先してしまいがちというのは、感覚としては判る気がします。
「大人の顔色をうかがい、先回りして親の期待に応えようとする自主性のない状態」と言ってしまえば取り付く島もありませんが、とはいえ(個人的には)「それで何が悪い」という気もしないではありません。
ともすれば、「俺たちの若い頃は…」「最近の若い者は…」と言いたがる世のおじさま方にとって、「のれんに腕押し」と言うか、反抗もせず、文句も言わない若者への愚痴話の格好のネタになっているということなのでしょう。
しかし、そうは言っても(心理学の専門家などによると)「従順な子ども」の性質(Adapted Child)が高い人ほど、自尊心や自己肯定感が低い傾向にあることなどが知られているということです。
成長に当たって自分の気持ちを抑圧してきたことで、成長後に「親の価値観を押し付けられた」とか「過度な期待をかけたれた」など、現状を自分のものとして受け止められない。人生が上手くいかないのは(いわゆる「毒親」などの)周囲のせいといじけ、苦しむケースなどもしばしばあると聞きます。
こうした現代の若者のナイーヴな感覚はどこから来るのか。4月27日の総合情報サイト『現代ビジネス』に掲載された「結婚しない、個性を殺したがる…日本の若者に起きている深刻な異変の正体」と題する記事が、彼らの求める平穏な世界観に(ある意味「大人の視点」から)メスを入れています。
「個性的と言われると、自分を否定された気がする」「周囲と違うってことでしょ?どう考えてもマイナスの言葉」「他の言葉は良い意味にも取れるけど、個性的だけは良い意味に取れない」「差別的に受け取られるかも」…。アンケートの回答用紙に並ぶこうした言葉を見ていると、どうやら今の若者たちは「個性的」だと思われたくないらしいと、記事はその冒頭に綴っています。
思いをストレートに口に出すと、周囲から自分だけが浮いてしまう。みんなと同じでなければ安心できず、たとえプラスの方向であったとしても自分だけが目立つことは避けたい。近年はそんな心性が広がっているように見えるというのが記事の認識です。
「個性的であること」は、組織からの解放を求めるには好都合だが、組織への包摂を求めるには不都合である。それは、自分の安定した居場所が揺らぎかねないからだと記事は言います。
そうした中、今日の若者たちは、かつてのように社会組織によって強制された鬱陶しい人間関係から解放されることを願うのではなく、その拘束力が緩んで流動性が増したがゆえに、不安定化した人間関係へ安全に包摂されることを願っている。それ故、今の若者たちにとって、「個性的」とは否定の言葉であるということです。
さて、改めて指摘するまでもありませんが、あくまで「肌感覚」としてとらえても、現代の若者たちは素直で真面目で協調性もある。しかし、一人一人の個性が見えず、主体性や積極性が感じられない(いわゆる「薄味」の)若者が増えているのは経験上からも事実のような気がします。
実際、個性丸出しでガツガツした昭和の若者が令和を生きる彼らの視野に入ったら、かなり特別な存在に映ることでしょう。そして、そうした現代の若者が口にする「彼って、個性的だよね…」という言葉の中に、毒があることに否定の余地はありません。
彼らの親世代といえる私でも、これまで人に自慢できるような情熱だとか野望だとかがあったかと言われれば(多分)それほどのものはないし、そういった熱い言葉を普通に吐ける人を見ていると(何となく)覚めた気分になってくる自分がいます。
しかしそんな私ですら、ほとんど個性を見せない同質的な彼らを見ていると、「同世代村」の空気や同調圧力から解放してやりたいと(上から目線で)思ってしまうのは、やはりそれだけ齢をとってしまったからなのかもしれません。
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