MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2742 「令和の米騒動」はいつまで続くのか

2025年02月12日 | 社会・経済

 私たちの生活に身近なコンビニや飲食店などで、(昨年に引き続き)コメ商品の値上げが相次いでいると1月24日の日本テレビNNNニュースが報じています。

 セブンイレブンは1月20日、おにぎりや弁当など一部商品を値上げすると発表。『塩むすび』は税抜き108円から128円と2割アップ、『唐揚げ弁当』は530円から580円に値上げされるということす。

 また、コメが欠かせない回転寿司でも、はま寿司が昨年末から約半数の商品を165円から176円などに値上げしたほか、ファミリーレストランのデニーズでも、ライスを税込みで44円値上げした由。いずれも、最近のコメの価格高騰が理由とされ、消費者の財布に直接打撃を与えています。

 さて、こうした報道を見ても、店頭から在庫が消え「令和の米騒動」と言われた昨年の夏以降、(令和6年産米が流通して久しい現在でも)コメ価格の高騰はとどまるところを知らずに続いていることがわかります。

 各種報道によれば、首都圏のスーパーなどでの(令和6年産米の)販売価格は5キロで4000円程度とのこと。前の年の同じ月に比べ2倍近くとなり、「米騒動」と騒がれた昨年よりもむしろ値上がりしている状況とされています。

 農水省によれば、そもそも米農家から卸売業者に販売される際の『相対取引価格』(平均値)が、2024年産は60kgあたり2万3715円と前の年に比べて約1.5倍に跳ね上がり、比較可能な2006年以降最高値を記録しているとのこと。以前のような品不足感はないものの、これにより「卸→販売業者」間の取引価格はさらに跳ね上がり、5キロ5000円に迫る銘柄米も出始めていると伝えられています。

 外食やスーパーなど、売り先が確保できているのに手元在庫が乏しい業者は、高値でも買わざるを得ない状況に置かれ、そのコストが商品価格に反映されている。また、それを逆手に取って「コメ転がし」的なことを行っている業者なども現れて、悪循環が続いているということです。

 さて、こうしたコメ価格の高騰を受けて、1月31日、政府はようやく備蓄米の放出(厳密に言うと「貸出し」)を発表。江藤農相は7日に早期実施の考えを表明しました。不作や災害など、緊急時に備えた「政府備蓄米」は、政府がJAなどから毎年20万トンずつ主食用米(1万5000円/60kg)を買い入れ、放出する事態が起こらなければ5年後にエサ米(1000円/60kg)として処分するというもの。

 これまでほとんど放出した例がないので、その背景に「米価維持のための安定需要の確保策」といった(極めて政治的な)政策意図があるのは周知の事実ですが、いずれにしても年間500億円、100万トンの備蓄なのでトータル2500億円の財政負担が生まれていること、そしてもちろん、それを負担しているのが国民・納税者であることに間違いはありません。

 今回、その一部がJAなどの集荷業者を通じて市場に供給されるころになりますが、何とも面倒くさいのは、放出した同量のコメを政府が1年以内に買い戻すとしていること。何故そんなことをするかと言えば、その分を放出したままでは、市場にコメがだぶつき7年産米の価格が急落する恐れがあるからです。現在、高値は続いているものの、6年産米を大量に誰かが食べてしまったという話は聞きません。さらに、米価が異常に高騰していることもあって、米農家が今年(令和7年)産のコメの作付けを大幅に増やす可能性も考慮する必要があったのでしょう。

 おコメの値段が下がるのはもちろん消費者としては有難いことですが、主食の需給管理を担当する(そして生産者の味方である)農水省としては看過できようはずもありません。例え農水省が許しても、コメ農家やJAの庇護者である農林族政治家が黙っていることはないでしょう。

 簡単に言ってしまえば、米価が高騰しても備蓄米が「放出」されることはないということ。結局のところ、納税者であり消費者でもある国民が「備蓄米制度」の恩恵を被ることはなく、おまけに高いコメまで買わされる。こうして米価を維持することで利益を得るのは、米流通に携わる一握りの人たちあることはまちがいありません。

 さてその一方で、令和5年度産米が不作だったのは事実しても、令和6年産米の米が作況指数は101と平年を上回ったにもかかわらず、なぜ市場にコメが出回らないのか。

 農水省の調査によれば、令和6年産米の生産量は、前年より18万トン増えていたとのこと。しかし、収穫後の年末にJA全農などの大手集荷業者が集めた量は、前年よりも(少なくとも)21万トンも減っていたとのことです。

 と、すれば、通常の流通経路から消えたこの「21万トン」が、価格高騰の背景にあると見て間違いないでしょう。忽然と消えた(ご飯茶碗で実に32億杯という)大量のおコメは、一体どこへ消えたのか。報道によれば、農林水産省では、米の値上がりを見込んだ流通業者や生産者などが、米を抱え込んでいると見ているということです。

 生産者や業者が、コメをより高く売れるタイミングまで市場に出さずにいることは、(それだけのリスクやコストを背負うことになるだけで)もちろん違法でも何でもありません。昨今では、JA(全農)などの大手卸を通さなくても、スーパーなどの流通業者が生産者から直接仕入れるルートも一般化、さらにインターネット通販やふるさと納税などを通じて生産者から直接消費者に米を届ける仕組みも整ってきているので、それはそれで健全な姿なのかもしれません。

 ただし、もしも一部の流通事業者などが、投機目的で6年産米を(どこぞの倉庫などで)大量に抱えている状況があるとすれば、市場の大きな不安定要因になるのは明らかでしょう。消費に適するお米の期限は、持って2年間というところ。そうしたものが、(例えば「偽装」とかいった形で)今後、不適切に市場に流れ出れば、消費者に大きな混乱をも招きかねません。

 首都圏でコメを作り続けている知り合いの農家の話では、昨年の稲刈りが終わった時分に、(少し強面の)見かけないおじさんたちが4トントラックで近所の農家を回り、JAに出す値段の1.5倍の価格で新米を買い集めていった由。全然知らない相手でも、その場で札束を置いて買い上げていくので、(いくら売ったか税務署にもバレないし)小遣い稼ぎにと10俵単位で取引した農家も多かったということです。

 ともあれ、この「令和の米騒動」はいつまで続くのか。6年産米がどこかに滞留しているのであれば、(コメ消費も落ち込んでいる折)いつかはその値段も下がっていくのでしょうが、心配なのは政府からは「相場を下げよう」という意思が感じられないこと。

 まあ、コメの市場価格が高止まりすれば、農水省のステークホルダーである米農家も流通業者も潤うので、放置しても(省益としては)問題はない。さらに、農家の所得が一定以上になれば農水省は補助金をカットできるので、今の相場を維持したいという動機もあるのかもしれません。

 しかし、いずれの事態となっても、迷惑をこうむるのが消費者であることは間違いありません。(それにしても)こうした事態に何もできない米行政のいい加減さに関しては、納税者であり消費者である国民はもっと怒っていいのではないかと改めて思うのですが、果たして皆さんはいかがでしょうか。


#2741 一番給料が上がっているのは誰?

2025年02月11日 | 社会・経済

 厚生労働省が公表している「令和6年賃金構造基本統計調査(一次集計)」によると、フルタイム勤務者を指す「一般労働者」の平均所定内給与額は33万200円で、前年調査結果の31万8300円と比べて3.7%増加したとされています。これを年齢別(大卒)に見ると20〜24歳が25万800円、30〜34歳が32万5100円、40〜44歳で40万5900円、50〜54歳で49万600円、ピークを迎える55〜59歳では52万3800円と、私が新入社員だった40年前と比べ(少なくとも初任給は)ほぼ倍増していることが見て取れます。

 しかしその内訳を見ると、大学卒の20~30代前半の労働者の賃金上昇率が実質で1.7~2.8%アップとなっている一方で、40代後半~50代前半の賃金上昇率は-0.2%~0.3%(厚生労働省「賃金構造基本統計調査(2024.1)」とばらつきも大きい由。ここのところの賃上げが若手中心に行われ、中高年層の賃金は(諸物価高騰の中で)実際には目減りしていることも見て取れます。

 産労総合研究所「決定初任給調査」によれば、大卒者の初任給の増加率は2023年が2.84%、2024年は3.85%と(他の年齢層に比べ)大きく増加しており、初任給引き上げの理由は「人材を確保するため」が最も多いとのこと。人手不足の折、新卒者の採用確保のために初任給が特に引き上げられていることが分かります。

 政治的には国民民主党の「手取りを増やす」がキーワードとなる中、実際に給料袋の中身が増えているのは誰なのか。昨年10月20日の経済情報サイト「現代ビジネス」に、リクルートワークス研究所研究員の坂本貴志氏が『一番賃金が上がっているのは誰か…意外と知らない、正社員と非正規の「賃金格差の実態」』と題する論考を寄せているので、参考までに指摘の一部を紹介しておきたいと思います。

 厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」では、①一般労働者でかつ正規雇用者、②一般労働者でかつ非正規雇用者、③短時間労働者の賃金を比べている。この区分はそれぞれ①→「フルタイムの正社員」、②→「フルタイムの契約社員や派遣社員」、③→「パート労働者」に対応しており、その数字からは正規雇用者よりも非正規雇用者の方が賃金上昇のスピードが速いことがわかると坂本氏はこの論考に記しています。

 データによれば、「名目時給」が最も上昇しているのはパート労働者で、2013年の1067円から2023年には1318円まで上昇している(10年間で23.6%増)とのこと。次に賃金が上昇しているのは一般労働者の非正規雇用者で、1316円→1539円の16.9%増。そして、最も賃金が上がっていないのが正規雇用者で、同10年間で2370円→2537円と時給にして167円、7.0%増にとどまっているということです。

 昨今の春闘においては、大企業の正規雇用者や都市部の労働者ばかりが賃金上昇の恩恵を受けているとの指摘もあるが、(もう少し)長期的な目線でデータを丁寧に見ていくと、むしろ逆の傾向が窺えると氏は言います。では、その理由は何故なのか?…それは、非正規雇用の領域ほど労働市場の需給が賃金にダイレクトに影響を及ぼすからだというのが氏の指摘するところです。

 日本の労働市場においては、正規雇用者、契約社員や派遣社員、パート・アルバイトの労働者でそれぞれマーケットの特性は大きく異なっていると氏はしています。正規雇用者よりも契約社員や派遣社員の方が、また契約社員や派遣社員よりもパート労働者の方が労働市場の需給に対して感応度が高い市場となっている。つまり、労働市場の需給が緩んだときに真っ先に雇用を調整されるのが非正規雇用者であるのと同時に、労働市場の需給がひっ迫したときに先行して賃金が上がるのが非正規雇用者だということです。

 ここからは、まさに市場の硬直性・弾力性の話。労働市場の需給が緩ければ、企業は労働市場から安い労働力を大量に確保することができるが、需給がひっ迫した状態にあれば、(労働者としてはほかにも求人がいくらでもあるわけだから)より条件の良い求人に応募することになる。こうした(ある意味純粋な)労働市場のメカニズムの中で賃金は定まると氏は言います。

 そして、非正規雇用者と正規雇用者の賃金格差は、企業側の従業員の雇用形態の選択にも影響を及ぼすことになる。非正規雇用者の賃金上昇や社会保険の適用拡大によって「正規」「非正規」間の格差が小さくなれば、非正規雇用者の人件費が高騰することになり、企業としては従業員を非正規雇用の形態で雇うメリットが少なくなるということです。

 ではそこで何が起こるか。そうなれば非正規雇用の従業員を正規転換するなどして、企業としては戦略的に正社員を増やしにかかることになるはずだと氏は話しています。つまり現場では、例えば熟練のパートさんなど説得して正社員に迎え、安定的な労働力の確保につなげていくといった動きが増えるということでしょう。

 さて、「年収の壁」の撤廃が叫ばれる昨今のこと、労働現場でこうした流れが起こるとすれば、それ自体は日本の経済そのものにとって(おそらく)プラスに作用していくことでしょう。

 しかしその一方で、需給関係の変化によって雇用条件が良くなれば、時間に自由が利く「非正規」の魅力もまたアップするはず。売り手市場が(少なくともしばらくは)続くことを考えれば、買い手の雇用者としては「多様な働き方」を求める供給サイドの意向にどれだけ応えられるかが大きな鍵を握るのだろうなど、氏の論考を読んで改めて感じたところです。


#2740 市場では条件のいい物件から先に売れていく

2025年02月10日 | 社会・経済

 1970年ごろは年間100万組を超えていた日本の婚姻数。2011年以降は年間60万組余りでしばらく推移していましたが、コロナ禍に見舞われた2020年に前年比12.3%減と大きな減少を見せ、気が付けば2023年にはさらに6.0%減の47万4717組と、戦後初めて50万組を割り込む水準に減っています。

 一方、結婚した夫婦が持つ子どもの数(→完結出生児数)は、1970年代から2.2前後で推移し、21年も最低値を更新したものの1.9と大きくは変わっていない由。こうしたデータからは、昨今の少子化の(直接の)原因が、若者の「未婚化」にあることが見て取れます

 2020年の国勢調査によれば、「50歳時の未婚率」は(既に)男性が約28%、女性が約18%に達しているとのこと。昭和生まれの世代ですらこうなのですから、30歳半ばを迎える平成生まれが、今さらそう簡単に結婚してくれるとは思えません。

 そうした中で昨年話題を呼んだのが、東京都が提供する婚活サービスがかなりの人気を博しているという話。「TOKYO縁結び」と銘打たれたサイトに登録するとAIが信頼性の高い相手を紹介してくれるということで、(2年で11000円という登録料にもかかわらず)申し込みが殺到しているとの話を聞きました。

 そういえばこの年末に、地上波テレビの娯楽番組に小池百合子都知事が出演し同事業をPRしているのを見かけましたが、(知事の人気取りにはなるとしても)こうした官製マッチングアプリが少子化対策の「切り札」になると見るのは楽観に過ぎるというものでしょう。

 (いわゆる)適齢期の独身男女は多いのに、彼ら。彼女らはなぜ結婚に踏み出せないのか。参考になるかどうかは分かりませんが、少し前のYahoo newsに、マーケティングディレクターの荒川和久氏が『男の結婚は「年収の高い方から売れていく」が、決して婚活市場には登場しない』(2023.7.26)と題する一文を寄せていたので、指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 氏によれば、国の基幹統計では、初婚時点での年収がいくらだったかについての調査は存在していないとのこと。このため、氏が独自に「5歳単位での年収別の未婚率の逆数の累積値」を使って推計(←ご苦労様です)したところ、20-24歳で結婚している男性というのは最低でも年収400万円以上であった由。さらに、初婚のボリューム層である25-29歳では、年収500万円以上の未婚男性の4割以上が、29歳までに結婚していることがわかったということです。

 30-34歳になってもその傾向は一緒で、年収500万円以上だと累積で7割以上が既婚者となっていると氏は話しています。しかし、そうした動きも35歳までのこと。その年齢を超えるとどの年収帯でも既婚割合は一気に下がり、当然、未婚のまま生涯を過ごす可能性が高まるということです。

 これをどう見ればいいかというと、①そもそも高年収の男性自体の絶対数は少ない、②若ければ若いほど少ない、③その「ただでさえ少ない年収の高い男から順に売れていく(結婚していく)」ということ。男性の生涯未婚率は2020年時点で28.3%。約3割なので(残りの)7割は結婚するということになるが、44歳までの累積値で70%を超えるのは年収400万円以上だと氏は言います。

 もちろん、年収400万未満でも結婚している男性は勿論いるが、400万未満から下の層は一気に既婚率が下がっている。かくして、結果として生涯未婚率対象年齢の45歳以上で未婚である男性の年収は低くなるというのが氏の指摘するところです。

 婚活をしている女性から(しばしば)「結婚相談所でもアプリでも500万以上の年収の未婚で若い男なんてほぼいない。いたとしても、その年収が大嘘か既婚者が偽っている場合しかない」という声を聴く。しかし、それは当たり前のことだと氏は話しています。

 理由は、「若くして高年収の男性は早くに売れてしまう」から。婚活市場などに流れ、広く公開される前に「売約済み」だというのが氏の見解です。それでも、34歳くらいまでなら可能性があると思う人(←特に女性)もいるかもしれないが、結婚に至るまでの平均交際期間はおおむね4年間(出生動向基本調査)とされる。つまり、34歳で初婚する男性も結婚相手とは既に30歳の頃から付き合っていて、ある意味「売約済み」の状態だということです。

 さて、「そうね、年収はだいたい〇〇円以上」といった条件を譲らない婚活女性が一向にマッチングしないのは、婚活の現場そのものにそんな男はいないからだと氏は(ここで)厳しく指摘しています。

 それは、魚のいない釣り堀で釣り糸を垂れているようなもの。もしも本当に結婚したいなら、相手の年収云々はさておき、少なくとも相手男性が25-29歳の間に結婚しておくこと。そのためには最低25歳までには結婚対象と交際していないといけないと、この論考で氏は断じています。

 30歳を過ぎてから婚活しても既に遅すぎる。そして、同様のことは男性側にも言えることで、もし結婚したいと思っていて、40歳すぎて「結婚したかったなあ」などと不本意未婚の苦しみに陥らないためには、20代のうちに結婚に向けて邁進しておいた方が可能性が高いということです。

 一方で、年齢を重ねれば重ねる程、それだけ「選ばれる」ための年収のハードルも上がってしまう。データを見る限りでは、35歳を過ぎて年収400万円を超えてももう相手は見つからない可能性が高いと氏は見ています。

 「聞いてないよー」「そんなこと今更言われても…」と言う声が(あちこちから)上がりそうですが、実際の数字がそれを物語っているということなのでしょう。幸せのためには「早め早め」の準備が必要ということ。白馬に乗った王子さまやガラスの靴を履いたお姫様は、努力しない者には決して微笑まないという現実を、私たちは受け止めなければいけないのかもしれません。


#2739 助け合うのは「仲間」だけ

2025年02月09日 | 社会・経済

 「ジニ係数」とは、「所得や資産がどれくらい平等に分けられているか」を可視化するため、イタリアの統計学者コッラド・ジニによって考案された数字とのこと。(細かな計算式は省きますが)ジニ係数が0であれば、その集団の所得が完全に均一で全く格差がない状態。ジニ係数が1であれば、集団全体の所得をたった1人が独占している状態を指し、その集団の所得格差を数字的に表す指標として使われています。因みに、このジニ係数には「警戒ライン」というものが存在していて、一般的には0.4を越えると暴動や社会騒乱が増加すると言われているようです。

 さて、国連が発表している「世界経済状況・予測2022(World Economic Situation Prospect 2022)」によると、新型コロナウイルス感染症などによる経済への逆風が強まる中、先進各国でも格差の拡大が顕著である由。2022年の各国のジニ係数を見ると、先進国ではアイスランド(0.25)、ノルウェー(0.26)、デンマーク(0.27)、フィンランド(0.27)、スウェーデン(0.29)などの高負担・高福祉で知られる北欧各国が、世界的にも平等性の高いグループに属していることがわかります。

 一方、所得格差の大きなグループには、(先進国では)ジニ係数警戒ライン上にある0.40の米国や0.37のイギリスが並び、日本(0.34)、イタリア・韓国(0.32)、ドイツ・フランス(0.3)なども、比較的所得格差の大きな国と捉えてよさそうです。数字を見る限り、米国やイギリスなどのアングロ・サクソンの国々で(ある意味とびぬけて)所得格差が高い(→所得の再配分が進んでいない)ように見えますが、そこには何か特別な理由があるのでしょうか?

 そんな疑問を抱いていた折、日本経済新聞のコラム「やさしい経済学」に連載中の東京理科大学准教授松本朋子氏が、12月27日の「所得再分配を支える世論(7)」において興味深い指摘をしていたので、参考までにその内容を小欄に残しておきたいと思います。

 所得格差の拡大は、社会の安定や民主主義の維持に大きな負の影響を及ぼすことから、再配分による所得の平準化が暮らしの向上や生活の安寧に重要な意味を持つことは(理屈としては)理解している人が多い。しかしそれも、ある程度、衣食が足りていればのこと。例えば、明日の糧にも困るような経済状況に置かれた時でも、人は他者に優しく、支えようと思えるのか。

 たとえ支えることが正しいと理解していても、先行きが不安な状況で全員を支える余裕がないと感じれば、支える相手を選ぶべきだと考え始めるかもしれない。人は感情の動物であり、特に自分が苦しい状況にあれば、支える相手を「自分たちの仲間」と見なせるかどうかでその意欲に差が生じるかもしれないと、松本氏はコラムに記しています。

 氏によれば、こうした問題は20世紀後半、西欧に比べ、米国がなぜ所得再分配に消極的なのかという問いから議論されてきたということです。米国には多様な人種が共存し、しかも人種間の所得格差が大きいという特徴がある。研究者たちはこうした特徴に注目し仮説を提起したと氏は話しています。それは、人は自分が属する集団内での格差が広がると再分配を支持する一方、自分とは異なる集団の貧困には冷淡になり、再分配を支持しにくくなる…というものです。

 この議論はさらに進み、米国が移民国家であることから、「所得再分配と移民の共存は難しい」という仮説が生まれてきたと氏は説明しています。近年では移民を積極的に受け入れた西欧でも、この視点が注目されているとのこと。トランプ新大統領の再登板により不法移民への風当たりが強まると予想される米国では、所得再配分へのハードルはさらに高まることも考えられます。

 移民と再分配政策の関係については現在も分析結果が定まっていないが、これは(他人事ではなく)今後の日本にも大いに関係のある課題だと、松本氏はこの論考の最後に指摘しています。

 過去10年間、日本では外国人労働者が急増している。少子高齢化が進む日本において、即戦力として労働人口を支えている外国人労働者に、(日本人と同様の)福祉を提供するのは当然のことだと氏は言います。また、外国人労働者を含めた所得再分配は、外国人の増加によって一部で懸念されている治安悪化の防止にもつながるだろうということです。

 しかし、(感情論として)日本社会は本当に外国人労働者を「仲間」として受け入れることができるのか。この問いは近い将来、日本が向き合うべき課題になるかもしれないと話す松本氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。


#2738 社会の流動性と「親ガチャ」

2025年02月08日 | 社会・経済

 イソップ寓話「アリとキリギリス」は、寒い冬に備えず夏を遊び暮らしたキリギリスが、食べ物がなくなってアリを訪ねるも「自業自得」と追い返される厳しい物語です。子供たちはこのエピソードから地道な努力の大切さを学ぶ…というか、「努力しないとひどい目に合うよ」と脅かされるわけですが、一方で、人一倍の努力をしたからといって成功が約束されるわけではないのが現実でしょう。

 かつて日本のプロ野球界を引っ張ったホームラン王王貞治さんは、「努力は必ず報われる。 もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない」と話したと伝わっていますが、過酷な令和の時代を生きる若者たちには「それは将来に夢を持てた昭和の話だろ?」と一蹴されてしまうかもしれません。

 とはいえ、何の努力もしないまま大人になって、結果「闇バイト」などに走ってうえで、「自分の人生が望み通りにいかなくなったのは親や家庭環境のせい」などと裁判でうそぶいても誰も許してはくれません。

 なので、多くの大人は子供たちに努力を求め、「頑張れ」などと(無責任に)口にするのですが、苦しくても頑張れるのは「努力すれば報われる」という期待(というか確信)があってこそ。誰だってコスパの悪い無駄な汗はかきたくないし、いくら「根性」があっても(結果を残さなければ)昨今のデジタル社会では評価の対象にもなりません。

 さてそこで、格差の拡大が進むとされるこれからの社会において、私たちは働く意欲やモチベーションをどのように維持していったら良いのか?という話。東京理科大学准教授の松本朋子氏は、12月25日の日本経済新聞のコラム「やさしい経済学」に、『「親ガチャ」が強まる日本社会』と題する一文を寄せています。

 努力の多寡が所得に反映されたり成功に繋がったりしないのであれば、努力すること自体にインセンティブは湧かないもの。それでは人は、努力をすれば運命に打ち勝つことができるのか?

 歴史の教科書には、親の地位や職業に関係なく個人の能力が評価され、努力が報われる「実力主義社会」が誕生したのは近代だと書かれている。日本でも、明治維新によって職業の選択が自由になったとされるが、ここ数十年の実証研究は、この「近代化が実力主義社会をもたらした」とする考えに疑問符を投げかけていると松本氏はコラムで指摘しています。

 英国では、封建領主だった郷紳(ジェントリー)たちが産業革命期に金融業に進出し、子孫の多くが現在も富裕層として名を連ねている。また、富裕層の名字を多国調査した結果を見ても、同じ名字が時代を経ても富裕層リストに残り続けているということです。

 そしてこの日本でも、明治維新後の最上層のエリート層の入れ替わりは限定的だったことがわかっていると氏は話しています。(いわゆる)「クラス」は脈々と次代に受け継がれている。近代化は私たちが思ったほど、社会に流動性をもたらしたわけではないというのが氏の認識です。

 親の所得や職業が、どの程度子どもに引き継がれていくかを調べる社会階層論の研究によると、日本では21世紀に入ってから社会的な流動性、つまり階層間の移動がさらに少なくなっていると氏は言います。ホワイトカラー上層で非流動的な傾向があるほか、非熟練ブルーカラー層や自営業層でも閉鎖性が高まっている。その結果に、日本で世襲議員が多いことを想起した人も多いだろうということです。

 2021年の「新語・流行語大賞」で「親ガチャ」がトップ10に入ったのも、努力より、生まれ持った初期条件(運)が所得を決定する比重が(思ったより)大きいことに、人々が気づき始めたからかもしれないと氏は話しています。

 親子間の継承性が高いという現実は、所得再分配の必要性を裏付けるだけでなく、社会福祉のあり方を見直す必要性も示唆している。格差が大きく流動性が低い社会で福祉を市場や家族に任せることは、格差の固定化を助長することにつながりかねないということです。

 さて、一方で「親ガチャ」の影響で発射台は多少低くても、地道に誠実に努力すればいつかきっと報われるという考え方をする人も、(そうはいっても)少なくはないでしょう。それでも人の世は捨てたものではない。社会は公正で、神は見ているに違いないと考える人は多いはずです。

 因みに、このような世界観を、社会心理学では「公正世界仮説」と呼ぶそうです。公正世界仮説の持ち主は、「世の中というのは、頑張っている人は報われるしそうでない人は罰せられる」と考える由。こうした世界観に従えば(努力への中長期的なモチベーションが喚起されるので)世の中的にはありがたい話ですが、実社会ではそうした理想も裏切られることが多く、結果、自暴自棄になるといった弊害も生まれてきます。

 また、この仮説でさらに問題なのが、「頑張れば報われる」→「報われていないのは頑張らなかったから」という論理に陥りがちなこと。「強者総取り」は当然として、弱者が切り捨てられるのは「自業自得」だというのが、この(仮説の)世界の住人にありがちな考え方だということでしょう。

 得てして人の世は、自分ではどうしようもないことに縛られがち。世の中を長く生きていると、人々が平等に価値を置く「努力」すら、健康や環境、経験などに大きく左右されていることがわかります

 キリギリスだって、隙でキリギリスに生まれてきたわけではない。運がすべてでもないし努力が全てもない。うまくいったら「運がよかった」、上手くいかないのは「努力が足りない」くらいに考えるのが丁度よいのかもしれないと、改めて感じる所以です。


#2737 米国の繁栄と危うさ(その2)

2025年02月07日 | 国際・政治

 他国を大きく凌駕する経済の発展が続く一方で、人々の様々な形での分断など、国内的には深刻な問題を抱えるとされる米国に関し、12月4日の英紙「フィナンシャルシャルタイムズ」に、国際ジャーナリストで同紙主任経済評論家のマーティン・ウルフ(Martin Wolf)氏が、『病を抱え繁栄する米国 活気と低福祉、表裏一体か』と題する論考を寄せています。

 各国の経済が振るわない中、世界の富を一身に集めているように見える米国だが、このような経済上驚異的な国がなぜ「最悪の国」にもなり得るのかと、ウルフ氏はここで疑問を投げかけています。

 米国の21年の殺人発生率は人口10万人あたり6.8人で、英国の約6倍、これは日本の約30倍に当たると氏は言います。米国の最新の収監率は10万人あたり541人(世界第5位)で、180万人以上が刑務所に収容されている。一方、英国のイングランドおよびウェールズ地方の収監率は10万人あたり139人で、ドイツは68人、日本に至っては33人に過ぎないということです。

 米国の白人女性の妊産婦死亡率は、直近では出生数10万人当たり19人で、英国の5.5人、ドイツの3.5人、スイスの1.2人に比べて数倍から十数倍の高さ。黒人女性の妊産婦死亡率に至っては、出生数10万人当たり50人に迫ると氏はしています。また、米国の5歳未満児の死亡率は22年に出生数1000人当たり6.3人で、英国の4.1人、ドイツの3.6人、日本の2.3人よりもかなり高いということです。

 ウルフ氏はさらに続けます。国民の福祉の状態を示す最も重要な指標が平均寿命。米国は世界第48位の79.5歳で、中国の平均寿命(78歳)とほぼ同じ。英国とドイツは81.5歳、フランスは83.5歳、イタリアは83.9歳、日本は84.9歳と、他の先進国に大きく引き離されていると氏は説明しています。

 米国はGDP比で17%前後という他のどの国よりもはるかに多くの医療費をつぎ込んでいるにもかかわらず、貧弱な成果しか上げられていない。米国の繁栄は、こういった低福祉を強く示す指標と相まって、多くの矛盾をはらんでいるということです。

 このような(矛盾した)事態は、①大きな不平等、②個人の不適切な選択、そして③異常ともいえる社会的な選択の結果だというのが、ウルフ氏がこの論考で最も厳しく指摘するところです。例えば、米国には約4億丁の銃が流通しているという。これは正気の沙汰ではないと(米国以外に暮らす)多くの人が思うだろうと氏は話しています。

 私達(米国人以外)にとっての大きな心配は、このような米国社会の「病理」(とも見える弱肉強食の個人主義)が、経済ダイナミズムに必要な代償なのか…ということ。革新的な経済は、より調和のとれた健全な社会と結びつかないということなのかという疑問だということです。

 ウルフ氏は、トランプ氏の再登場は、米国の大きな不平等と低中所得層の不満が、「規制緩和と低税率を求める超富裕層」と、「自分たちがうまくいかないことへのはけ口を求めた低中所得層」の政治的な合流につながった結果ではないかと話しています。そして、もしもそうだとしたら、現在の脱工業化(製造業の重要性低下)と抑制なき金融の時代に、米国の活力の高さが(トランプ氏の台頭にみられる)新たな危険な扇動的独裁政治への移行を招いてしまったことになるということです。

 そうした中、結果として今後、この「トランプ主義」が、米国経済という金のなる木を殺してしまうのではないかという懸念を抱く人も多いと氏は指摘しています。

 これまで米国の繁栄と大国化を支えてきたのは、①法の支配、②政治的安定、③国民の一体感、④表現の自由、そして⑤科学的卓越性だった。一方、トランプ次期政権が進めようとしている①司法の武器化、②科学への敵意、③批判的なメディアを抑制しようとする試み、さらに④多くの憲法規範への明らかな無関心などは、米国を支えてきた(これら)壊れやすい概念を脅かす存在となる可能性があるということです。

 ウルフ氏によれば、米国の共和制は、欠点も含めて、おそらく世界史上最も顕著な成功例である由。しかし、その強みが今、弱みと組み合わさることで、築き上げてきたものを覆してしまう可能性があるというのがウルフ氏の見解です。

 歴史的な経緯や論理、そして科学をも否定する無茶苦茶な米国に、今後、世界は付き合っていかなければならないのか。(北極圏のグリーンランドやパレスチナのガザに暮らす人々も含めた)全人類が、米国色に染まったルール無用のジャングルに生活の糧を求めていかなければならないのか。

 (そうした事態を避けるためにも)我々は、米国から学ばなければならない。そして併せて、法が支配する民主主義の理想を重んじる人々は、それに対する心配もすべきだろうとこの論考をまとめるウルフ氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2736 米国の繁栄と危うさ(その1)

2025年02月07日 | 国際・政治

 東西冷戦の終結から30余年、その強大な軍事力や経済力をもって「唯一の超大国」として国際社会や世界市場に君臨してきた米国。いくつかの地域紛争や経済危機を乗り越えながらも常に自身を更新し、いまだにその地位をゆるぎないものにしている姿は、まさに「奇跡」と言えるかもしれません。

 しかしその一方で、米国内では人々の経済的な分断が進み、人口の僅か1%の富裕層が国富全体の半分を保有しているとされるほか、国民の貧困率は14.5%(4530万人)と先進国の中では飛び抜けて高いのが現実です。

 低所得層の下位20%の家庭に生まれた子供の約4割は成人しても同じ所得階層のまま。逆に上位20%の富裕層の家庭に生まれた子供のやはり約4割が同じ富裕層に留まっているといった状況は、もはや「アメリカンドリーム」の崩壊を示唆していると言っても過言ではないでしょう。

 そうした中、国民の大きな支持を得て再び政治の表舞台に立つことになったトランプ大統領。「MAGA」「米国一国主義」の掛け声も勇ましく、米国の持つ国際的な影響力を駆使したディールで世界の指導者を揺さぶり、国民が希望を持てるダイナミックな社会・経済環境を取り戻そうということのようです。しかし、そのやり方が(行き当たりばったりで)統一性に欠け、なおかつ強引なだけに、果たしてうまくいくかどうか疑問視(というより「危険視」する)の声も上がっているところです。

 巨大なエンジンを全開にしたまま、その内部では大きく傷ついているようにも見える米国は、(目立ちたがりの)新しい船長の下で何を蹴散らし、どこに向かおうとしているのか。12月4日の英紙「フィナンシャルシャルタイムズ」に、国際ジャーナリストで同紙主任経済評論家のマーティン・ウルフ(Martin Wolf)氏が、『病を抱え繁栄する米国 活気と低福祉、表裏一体か』と題する論考を寄せているので、参考までにその指摘を小欄に残しておきたいと思います。

 米国の持続的な繁栄には正直、驚かされる。1人当たり実質所得が米国よりさらに高い西側諸国もいくつかあるが、高所得国な大国に限れば1人当たり実質GDPの平均は(米国の)それを下回っており、しかもこういった国々は、21世紀に入ってさらに米国に後れを取っているとウルフ氏はこの論考の冒頭に綴っています。。

 2023年のドイツの1人当たり実質GDPは米国の84%で、00年の92%から低下。英国のそれは米国の73%で、00年の82%から低下した。米国が大きく多様であることを考えれば、出遅れていた他の高所得国が追い上げると予想されていた中、その相対的な強さは注目に値するというのが氏の感想です。

 では、強さ理由はどこにあるのか? 驚くことではないが、米国経済は他の高所得国よりもはるかに革新的であり続けていると氏は言います。米国企業は欧州の企業よりも時価総額がはるかに大きいだけでなく、デジタル経済に著しく集中している。MITスローンスクールの首席リサーチ・サイエンティスト、アンドリュー・マカフィー氏は、「米国には、ゼロから起業した有望な新興企業が数多くあり、そして多様性に富んでいる。EUには単にそういったことがない。時価総額100億ドル(約1.5兆円)以上の米国の新興企業は、合計では30兆ドル近い価値がある。EUの70倍以上だ」と説明しているということです。

 さて、こうした(特にパンデミック以降の)米国の状況については、円安日本に暮らしていると実感としてはなかなか分かりづらい所がありますが、例えばOECDの統計によれば、2022年における米国の雇用者一人当たりの年間賃金(中央値)は7.75万ドル。日本円でおよそ1200万円で世界第3位となっており、日本の4.15万ドル(およそ650万円)の約1.9倍の高さです。

 もちろん一人当たりGDP(IMFデータベース)で見ても、米国の7.84万ドル(2023年)は、日本の3.50万ドルの約2.2倍の水準。世界には、一人あたりGDPで米国よりも生産性に優れた国はいくつかありますが、(ウルフ氏も指摘するように)これらは皆北欧などの人口が少ない国で、人口が数千万以上の国の中では米国がもっとも豊かであることは数字を見ても明らかです。

 一方、このように、(軍事力も含めた)国力で見ても、人々が生み出している富で見ても世界の中で飛びぬけた力を誇る米国が、暮らしてみれば決して楽園のような場所ではないことは多くの人が知るところ。次回は、米国での生活がもたらす、そんなサバイバルな側面を追っていきたいと思います。(→「#2737 米国の繁栄と危うさ(その2)」に続く…)


#2735 積極財政論は所詮“お花畑”

2025年02月06日 | 社会・経済

 経済学者で上武大学教授の田中秀臣氏は、12月17日の夕刊フジ「zakzak」において、今や「国民の敵」は緊縮主義の権化として減税を増税で取り返す、自民税調や財務省の幹部たち「懲りない面々」だと断じています。

 氏によれば、日本経済を長く低迷させてきた要因の一つは、財政政策の緊縮スタンスとのこと。不況から完全に立ち直るのを待たずに、増税や負担増をしてしまう。あげくには不況に苦しむ中小企業などを「ゾンビ企業」呼ばわりし、その淘汰を押しする。緊縮主義者たちは、中小企業が淘汰されれば日本の国際競争力が増すといっているが、それは単にトンデモだ…とその舌鋒に容赦はありません。

 こうして元気のよい積極財政論者に対し、(近ごろでは)財政のひっ迫を懸念し緊縮政策を唱える(ある意味真面目な)論者は「ザイム真理教」信者などと誹られ、批判の的となることも増えているようです。

 そこで今回は、そんな彼らに光を当てるべく、財政緊縮派の主張を敢えて正面から取り上げてみたいと思います。日本外国特派員協会(FCCJ)に所属するジャーナリストで作家の山田順(やまだ・じゅん)氏はニューヨーク発の情報メディア「DAILYSUN NEW YORK」に『「年収103万円の壁」合意は子ども騙し。バラマキ政治を続ける限り衰退は止まらない!』と題する一文を寄せ、もはや日本の政治の基本と化している経済対策としての「バラマキ」を強く批判しています。

 日本の政治家は、右派、左派、リベラル、保守、与野党を問わず、すべてバラマキ政策しか言わない。私たちが「窮状に陥っているあなたを助けます」と言って、自分のものではないカネ(つまり税金)を勝手に分配することを公約する。そうして選挙戦を行うのが既に常とう手段だと氏はその冒頭に綴っています。

 失業対策、企業支援、生活補助、子育て支援、教育無償化など、すべてがバラマキ。 バラマキばかりになると、それを獲得するための争奪戦が起こり政治家は「口利き」で儲けられる。また、官僚は采配を振るえるうえに、業者からの接待が増え天下り先も確保できると氏は言います。

 こうして縁故資本主義(クローニーキャピタリズム)は強化され、本来の資本主義が持つ競争によるダイナミズムは失われ、同時に自由市場も侵害される。本来、バラマキの恩恵に預かるのは一般国民のはずだが、(それも過ぎれば)いくら働いても給料が上がらないという社会ができ上がるというのが氏の認識です。

 このバラマキ政治を後押ししているのは、全政党に存在する「積極財政派」と、国民の間に蔓延する「積極財政世論」というもの。積極財政派は、財政支出を増やせば消費や投資が喚起され、景気は上向き、雇用創出にも繋がり、(それに伴い)税収も増えると説く。また、社会インフラ整備に予算を投じれば、国土も強靭化され、まるでいいことずくめであるかのようだと氏はしています。

 財源がなければ国債をどんどん発行すればいい。国債は国内で消化されている限り問題ないというのが彼らの主張。しかも、最近では日本が成長しなかったのは緊縮財政を続けてきたからで、その元凶は財務省であるという「ザイム真理教」陰謀論を信じる信者まで増えているということです。

 (しかし、この主張は)まさに“お花畑”でしかない。積極財政論は、それ自体は経済的に間違っているといは言えないが、それを国債という借金でまかなうのは間違っていると氏はここで断じています。

 バブル崩壊後の1990年以来、日本が続けてきたのは(緊縮財政ではなく)バラマキのために国債を大量発行するという「放漫財政」に外ならない。しかし、いつまでも放漫財政が続けられるはずもなく、もうこれ以上赤字国債を発行できない瀬戸際に来ていることを現在の超円安が示していると氏は言います。

 日本は財政規律を重視していない、無視しているのだということが世界の共通認識になれば、市場の円に対する信頼は失われる。ただでさえ国家債務のGDP比が世界第2位の252.36%(2023年度)に上る「借金大国」が国債を発行して補正予算を組むというのは、さらに借金を重ねていくと世界に公言しているようなものだということです。

 現在、スタグフレーションに陥っている国が、これ以上、中央銀行が国債を引き受ける「財政ファイナンス」を続けていけばどうなるのか。円安に歯止めがかからなくなり、ドル円はすぐにでも200円になるだろう。もちろん、物価上昇も止まらない。そしてその先にあるのは、国債暴落、ハイパーインフレだと氏はこの論考の最後に記しています。

 厳しい状況から目を背け、無責任に現状を肯定しても、外から見る目は厳しいもの。日本全体が「茹で蛙」になる前に、常識に立ち返る必要があるということでしょうか。

 (兎にも角にも)“お花畑”に暮らす積極財政派は、国民を地獄に導こうとしている。そんな地獄が来る前に、富裕層から有為な若者たちまで、この国を出ていくだろうと話す山田氏の指摘を、私も襟を正して読んだところです。


#2734 折々の言葉

2025年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム

 2月5日の朝日新聞が、兵庫県姫路市が同市出身の哲学者和辻哲郎にちなんで設けた「和辻哲郎文化賞」の第37回受賞作品に、哲学者の鷲田清一(わしだ・きよかず)氏と甲南大学教授の平井健介(ひらい・けんすけ)氏の両氏を選出したと伝えています。

 和辻哲郎文化賞は、国内の哲学や宗教、思想といった領域における、特に卓越した著作や研究などをたたえるもの。今年の学術部門では、朝日新聞朝刊1面のコラム「折々のことば」の筆者で知られる哲学者の鷲田清一氏の「所有論」、一般部門では平井健介・甲南大経済学部教授の「日本統治下の台湾―開発・植民地主義・主体性―」が対象となったということです。

 受賞に際し鷲田氏は、「胸をお借りしたのは和辻さんの『存在』(有)をめぐる厚い論述。先行するそのお仕事なしに私のこの論はありえなかった。和辻哲郎文化賞というかたちで評価いただいた幸運を嚙みしめている」とコメントしたと記事は報じています。

 さて、今回受賞者の一人となった鷲田氏と言えば、京都大学文学部哲学科・同大学院を卒業後、関西大学で教授などとして教鞭を執り、大阪大学に移った後は、文学部長、副学長、総長などを歴任した日本を代表する哲学者です。

 一方で、氏は1980年代から90年代にかけて、「身体論」などの視点からファッション論やモード論を哲学的な観点から自在に展開した言論人としても知られています。「ピアスや刺青をすることの意味とは?」「人は何のために服で体を隠すのか?」など、氏独特の一般人にも親しみ易い平易な口調で語る数々の言葉が多くの人々の心に響き、様々に受け止められてきたと言えるでしょう。

 そもそも、氏が当初から(哲学者として)自身の大きなテーマと捉えてきた「身体論」とはどのようなものか。結論から言ってしまえば、「『身体(からだ)』は、自らの経験に基づく『像(イメージ)』でしかありえない」(『ちぐはぐな身体』鷲田清一:筑摩書房2005)ということです。

 「身体」の中で、自分がじかに見たり触れたりして確認できるのは、手や足といった常にその断片でしかない。胃のような「身体」の内部はもちろんのこと、背中や後頭部さえじかに見ることはできないというのが氏の指摘するところ。

 そして、自分の感情が露出してしまう顔も、じかに見ることはできない。「身体」を知覚するための情報は実に乏しく、自分の「身体」の全体像は、離れてみればこう見えるだろうという想像に頼るしかない。つまり、自分の「身体」は、あくまで自分の「像(イメージ)」の中にしかないというのが氏の見解です。

 かくして、「わたし」は身体との間できわめて曖昧で不確かな関係しか結べない。人は、他者を鏡にして自分を見ることで自分の想像にたしかな「わたし」を成立させるようと努力する。しかし、「わたし」が「わたし」であることの絶対的な根拠がないことは私自身がわかっており、そこへの不安が「わたし」の脆さとなるということです。

 さて、話は逸れましたが、そんな氏の功績として特筆すべきなのが、今回の受賞の対象となった「折々の言葉」(朝日新聞)と言えるでしょう。

 「折々のことば」は、朝日新聞の2015年4月から始まった朝日新聞朝刊1面の左下の方に、(あくまで)さりげなく、(本当に)控えめに掲載されている300字に満たない小さなコラムです。古来の金言からツイッターのつぶやきに至るまで、鷲田氏が様々なさまざまなジャンルの文章や発言の中から心に響くことばを選び、それをきっかけにめぐらせた思索を綴っています。

 過去のチョイスは朝日新聞のホームページに掲載されているのでそこに委ねるとして、私の印象に強く残っているのは、2020年6月12に氏が選んだフランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの言葉です。

 それは、「死の意識とは、死の日付を本質的に知らないままに、死を絶えず繰り延べる意識である」(『全体性と無限』(熊野純彦訳))というもの。なかなか難解な表現ですが、自分なりに解釈すれば、「死ぬということは、死んでみないと分からない。死は、その日付を毎日繰り延べていくという作業を通して、その存在が自覚化されている」…といったところでしょうか。

 一方、鷲田氏はこの日のコラムで(この言葉に続けて)このように綴っています。「犬が逝った。彼女はやがて身に起こる自体がどのようなものか知らないまま、従順に死の訪れに吞み込まれたように見えた。人は死を、いつか身に降りかかるものとして意識する。そういう形で、不在の未来を現在の内に組み入れ、死をまだないものとし「遅らせる」ことで、時間という次元を開くのだと、20世紀のフランスの哲学者は言う。」

 人間にとっての「時間」とは、また「生きている」とは、結局、まだ見ぬ死を「繰り延べる」という作業を通して自覚される。その先に「死」がなければ「生」もまたないということであり、希望や不安といった感覚も、その過程に生じたちょっとした泡のようようなものに過ぎないのかもしれません。

 死というものを、自分という存在の先に見るのは人間だけ。そう思えば、死を意識しない老犬の日々は、きっと安らかなもののだろうなと改めて感じるところです。


#2733 子どもは「大人の予備軍」ではない

2025年02月04日 | 教育

 私は知らなかったのですが、学習指導要領が改訂され、2022年4月から小学校・中学校・高校での金融教育が義務化されているのだそうです。学校での金融教育はこれまでにも行われていましたが、(今回の改訂により)その内容が小学校から高校まで一貫した「金融プログラム」にとなるよう一新された由。特に高校の家庭科には具体的な資産運用の学習が盛り込まれ、電子マネーや決済機能などの実践的な知識を身に着けられるようになったということです。

 おそらくそうした変化の背景には、民法改正により成人年齢が18歳に引き下げられたことがあるのでしょう。これに伴い、様々な契約行為が本人の意志だけでできるようになる一方、若者が詐欺など金融トラブルに巻き込まれる可能性も大きく高まった。深刻なトラブルを避けるため、正しい判断ができるよう金融リテラシーを(なるべく)早い段階から身に付けることが求められているということでしょう。

 しかし、(そうは言っても)小学生の頃から「お金儲け」の仕方を学校で学ばせるというのは、思えば味気のない話。社会の構造や必要な倫理感、汗して働くことの大切さなどを理解しないままに「金融」の技術のみを身につけさせようというのでは、指導する教員も大変だなと思わないではありません。

 一方、欧米などの諸外国では既に1960年代から地域や学校の裁量で金融教育が推進されおり、社会生活を送るための基礎として、子供たちはクレジットシステムや金銭管理を学んでいるということです。

 経済界などから、「諸外国と比べ日本は金融教育が遅れている」との指摘が相次ぐ中、文部科学省としても何がしかの「やってる感」を醸し出す必要があったのでしょう。しかしこのような近年の動きに対しては、首をかしげる識者もいるようです。12月19日の「デイリー新潮」に、ベストセラー『バカの壁』で知られる東京大学名誉教授の養老孟司氏が、「子どもに投資を教えるなんて“アホ”」と題する論考を寄せているので、参考までに(「養老氏ならでは」の)厳しい指摘を残しておきたいと思います。

 氏によれば、今の時代、口では「子どもを大切にしている」と言いながら、実は大切にしていない気がするとのこと。若者の自殺が多いことなどはその表れかもしれないというのが氏の指摘するところです。

 「昔の方が子どもに厳しくてスパルタだったじゃないか」という話は確かによく聞く。実際、体罰やゲンコツは普通で、そこだけ取り上げると、スパルタ式で厳しかったようにも思われると氏は言います。

 しかし、一方で忘れられがちなのは、昔は子どもが簡単に病気などで亡くなっていたこと。例えば昭和14年頃まで、日本では乳児の10人に1人が1年以内に死亡しており、子どもはとても弱い存在で、いつ急にいなくなるかわからないというのが社会の常識だったということです。

 そんな「はかない」存在であるからこそ、(当時は)親も社会も子どもを大切にしなければと考えていた。子どもはいつ死ぬかわからない…そう思えば、今のうちに好きに遊ばせてあげようと思うのは自然な話で、その気持ちは想像できると氏はしています。

 しかし、今は子どもの時期について、「大人になるための貯金をする時期」のように考えている人が多い(のではないか)というのが氏の懸念するところ。すべては将来のための投資、今、頑張っておけば、我慢しておけば将来いいことがあるぞ、という理屈で子どもに無理をさせているというのが氏の認識です。

 全て将来の不安をなくすため。(「子どもため」と言いながら)子どもを大人の予備軍としか見ていない。しかし、もしも来年にはこの子が死ぬかもしれないと想像すれば、親だってあれこれ強いることはしないだろう。社会だって、子どもたちにはもっと今の時期を楽しんでほしいと考えるのが自然だろうということです。

 さて、「将来のために我慢しろ」「(そうすれば)先にはいいことがあるぞ」というのは、子ども時代そのものに価値を置いていないということ。しかし、子どもには子どもの人生があり、その毎日がとても大切なもので、これが子どもを大切にする基本なのではないかと、養老氏はここで指摘しています。

 近年では、子どもに対して「早く大人の世界に関われるようになりなさい」と教え込む教育が主になってきているように見える。実際、子どものときから「投資」だの「資産運用」だのをおぼえないといけないような意見をよく聞くが、「何とあほなことを」としか思えないと氏は話しています。

 「コミュニケーション能力を高めましょう」「グローバルで活躍できる人材を育成しましょう」…そうしたことに子どもの貴重な時間を割くのは、組織で使いやすい人材を速成するにはいいかもしれないが、言うことに中身がなければ、コミュニケーション能力なんて意味を持たない。そして、(「将来役に立つから」という理由で)こうした圧力が強くなること自体、若い人や子どもたちにとってよいことだと思えないということです。

 こんな調子だから、子供の自殺が増えるのではないか。早期教育を勧めている人たちには申し訳ないが、そもそもこういうことは、人の日常生活と関係ないのではないかというのが近年の教育の動きに対する氏の感覚です。

 日常生活というのは、まずは食事をする、体を動かす、睡眠をとる、といった生き物としての基本となるもので成り立っている。そこがきちんとしていることがまず重要であって、お金の知識も英語の能力も早くから身につけても人生にとって大した意味はないと氏は言います。幼児教育とか英才教育とか、何かすれば子どもが良くなるというのは勘ちがい…そのくらいに思っておいたほうがいいということです。

 あせる気持ちになるのもわかる。周囲があれこれやっていれば気になるもので、 親の立場からすればどうしても「何かさせなきゃ」と思うのは分かると氏はこの論考の最後に綴っています。

 しかし、多くの場合、子どもに無理に何かをさせても結果は大して変わらない。実は、(この国では)国民に「何かさせなきゃ」と無駄なことをさせたがるのは政治家や官僚も同じで、かわいそうなくらいに「何かさせなきゃ、しなきゃ」と思いこんでいると氏はしています。

 そこには、自分たちが何かしたほうが世の中が良くなるという思い込みがある。そしてその結果、バカみたいな政策を進めてしまったのをこれまでに何度も見てきたと話す(齢87歳を迎えた)人生の達人の言葉を、私も大変興味深く読んだところです。


#2732 経済を回すのは「不安のない老後」

2025年02月03日 | 社会・経済

 日銀が12月18日に発表した2024年7〜9月期の資金循環統計(速報)によると、9月末時点の家計の金融資産残高は6月末に比べて1.5%減の2179兆円。前四半期末からの8四半期ぶりの減少となったということです。

 株式相場の下落や、円高による外貨資産の円換算額の低下がその原因とされており、その実相は消費に伴う減少とはいささか趣を異にしている様子です。実際、現預金は0.3%増の1116兆円で、保険・年金・定型保証は540兆円で横ばいが続いている由。構成比を見ても、現預金が51.2%、保険・年金・定型保証が24.8%と、1位、2位を占め、「老後の備え」に重きを置く家計の姿が見て取れます。

 一方、内閣府が今年8月に発表した経済財政白書によれば、年齢別でみた世帯あたりの金融資産の平均額は50代までは年齢が上がるごとに増え、60~64歳でピークの1838万円に達しているとのこと。60代後半からは減少に転じるものの、「取り崩し」のペースは緩やかで、85歳を過ぎても1500万円超の金融資産を保有し(←つまり、20年間で300万円ほどしか減っていないということ)、その減少率は1割半にとどまるということです。

 また、米国FRBの調査との比較では、70歳以上の層が保有する資産の割合は、米国の約3割に対し日本は約4割と大きく上回り、構成比でも、日本人の資産の約7割が「預金」なのに対し、米国では預金は1~2割、株など有価証券が3~5割と、日本の「資産保全第一」「リスク回避」の傾向が際立っていると白書は指摘しています。

 「老後生活の安心材料」として、消費されることなく高齢世帯に滞留している日本の富。一方で、利殖や投資ではなく定期預金に(手つかずで)積み上げられたまま放置されている「お宝」を活用しようという意欲は、(政府からも経済会からも)余り感じられません。

 それでは、こうして貯めこまれた資産はその後どうなっていくのか。白書には、被相続人(遺産を残す側)の7割超が80歳以上(2019年時点)なのに対し、相続人(遺産を受け取る側)も60歳以上が5割超(22年時点)となっており、「老老相続」で財産が引き継がれている実態も示されています。

 還暦を大きく過ぎてから親の家や土地を相続したとしても、個人では既に使いようがなく、貸したり売ったりといった手続きも億劫なもの。使う当てのない現金も、(今さら株に手を出すつもりもないし)銀行に言われるまま手つかずで定期に積み置かれることになるのでしょう。

 お金が必要な時、必要な人にお金が回らない世の中を、もう少し何とかできないものか。こうした現状について白書は、「資産移転が高齢者間にとどまり、子育てへのニーズが高い若年世代への移転が進まない課題がある」と指摘しています。

 資産が有効に使われるため、①経済成長に対する期待を引き上げる、②教育資金の一括贈与にかかる非課税措置などで資産移転を後押しする、③長生きリスクに対して公的年金制度の持続可能性を確保する、④「貯蓄から投資」の流れを進め、若年期から収益性の高い資産形成を促す、などの対策を積極的に進めていく必要があるということです。

 まあ、いずれにしても、高齢者のお金が(使われずに)貯め込まれるのは、老後の生活に不安があればこそ。北欧ではありませんが、国や自治体が福祉制度によりしっかり面倒を見てくれると判れば、(それなりに)「きっちり使い切ろう」という気持ちにもなろうというものです。

 人生は、楽しんでこそなんぼというもの。おカネだって、使われなければ世の中の役に立ちません。我慢して、切り詰めて、その結果が預金通帳に並んだゼロの数というのでは(何とも)悲しすぎると思うのですが、果たしていかがでしょうか。


#2731 「ザイム真理教」と国民生活

2025年02月02日 | 社会・経済

 政府の経済対策として、12月17日の参院本会議で2024年度補正予算が、自民、公明両党や国民民主党、日本維新の会などの賛成多数により可決、成立しました。一般会計補正予算の歳出総額は実に13兆9433億円に上る由。財源の約半分に当たる6兆6900億円は、新規に国債を発行して賄うとされています。

 財源不足が叫ばれる中、財政の在り方を巡っては、国債の発行を極力抑え「身の丈に合った支出」(→税収の範囲内での政府支出)とすべきとする財政均衡主義に基づく指摘がある一方で、(昨今では)政府は一時的な財政収支の悪化にとらわれることなく、必要な財政出動を行うべきとするMMT(現代貨幣理論)の台頭なども注目されるところ。

 中には、「失われた30年の真犯人」として(国民を脅し、常に財政出動に「待った」をかけ続けてきた)財務省の名を挙げ、国民生活を犠牲にして財政均衡主義という「邪教」を布教する「ザイム真理教」だと揶揄する声も聞かれるところです。

 実際、国民には「財政破綻」をチラつかせ増税や福祉の切り捨てなどを迫っておきながら、政治に対しては十兆円を超える「経済対策」を認める彼らの姿に、「オオカミ少年」の面影を重ねる国民も多いはず。財務省の言う「お金がない」は、本当に本当なのか?…国民としては、誰を信じてよいのやらわからないというのが本音のところかもしれません。

 補正予算成立の報にそのようなことを感じていた折、12月17日の日本経済新聞の経済コラム「大機小機」に、『税収見積もりの玉手箱』と題する一文が掲載されていたので、(参考までに)その指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 今からちょうど1年前、岸田文雄前政権の打ち出した所得税の「定額減税」が税収減を招くと騒ぎになっていたのを覚えている人も多いはず。そして今年は、国民民主党の唱える「年収103万円の壁」引き上げで、税収に穴が開くと大騒ぎだとコラムは綴られています。

 政府の所得税収は、2024年度は当初予算で17兆9050億円の見通しだった。補正予算後の23年度の見込みに比べ、定額減税の影響で3兆3900億円減るとみられていたと筆者は話しています。(財務省は)24年度の税収全体では、総額で69兆6080億円を予想していた。これは23年度の補正後の見込みとほぼ横ばい。所得税の落ち込みについては、法人税や消費税で補う予定だったということです。

 当時は、財政当局の厳しいやり繰り算段に同情の声も漏れていた。しかし、それから1年。私たちは不思議な発表を目にしたと筆者は指摘しています。それは、今回(24年度)の補正予算の財源内訳の説明に当たってのこと。税収の上振れ分である3兆8270億円を、財源の一部に充てるという財務省の説明に驚いた人も多かっただろうということです。

 何のことはない。定額減税に伴う所得税の減収分を埋めてお釣りが出ている、税収の上振れが起きているとのこと。

 具体的には、法人税や消費税が想定を上回る伸びを記録したとのことで、4~10月の税収は、法人税が前年同期比で100.3%増、つまり倍増し、消費税も10月までで16.4%増加。24年度の当初予算の段階では、23年度の補正後に比べ法人税が16.3%増、消費税は3.6%増と、何とも控えめな予想だったにもかかわらず…ということです。

 財務省の説明によれば、過去最高の企業収益が、実際の法人税収を押し上げた由。しかも、モノやサービスの価格上昇で、消費税の税収も予想以上に増えたようだと筆者は理由を解説しています。

 企業の売り上げや利益、働く人の給与明細、そして政府の税収はすべて名目値であり、日本経済がデフレを脱しインフレとなったおかげで税収も無理なく伸びた。24年7~9月期の名目GDP(国内総生産)は年換算額で610.2兆円。1年前に比べて17.1兆円拡大した。GDPは国全体の付加価値の合計であり、個人と企業と政府がそれらを山分けする構図だということです。

 もちろん、政府はそのうちの「税収」という取り分を増やしている。企業も売り上げや利益を伸ばしている。しかし、個人はどうか。給与が増え始めたものの、給与から税や社会保険料を除いた実際の手取り(可処分所得)が伸び悩んでいると筆者はコラムの最後に指摘しています。

 実際のところ、財務省の発表によれば、2024年度の国民負担率は45.1%となる見通しとのこと。12年連続で40%を大きく超える高水準となるのは確実で、江戸時代に百姓一揆の目安とされた(いわゆる)「五公五民」ももう目の前と言えるでしょう。

 因みに、国民負担の内訳を見ると、租税負担率26.7%(国税16.9%、地方税9.9%)。に加え、医療費や年金などの保険料の社会保障負担率が18.4%と、税以外の部分も国民生活を圧迫している状況が見て取れます。

 賃金の上昇は始まったものの、一人一人の手取りを増やすには、賃上げと並んで税や社会保障費の負担の軽減がカギを握っているということでしょうか。インフレと成長に伴う税の自然増収こそ、そのための元手となり得るとコラムを結ぶ筆者の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2730 ノリでやってきたツケ

2025年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム

 世の中がバブル経済に浮かれた1980年代後半から90年代中盤にかけての時代。日本のテレビ界で圧倒的な強さを誇ったのはフジテレビでした。(若い人の中には信じられないかもしれませんが)なにしろ当時のフジは、12年間に渡って年間視聴率三冠王者に君臨し続けた絶対王者的存在だったのです。

 そんなフジテレビが、建築家・丹下健三氏の手によるお台場の新社屋に移転したのは1997年のこと。私もちょうどその時期、3年間ほどテレビというメディアに大きくかかわる仕事をしていたので、街開きが済んだばかりのお台場の近未来的なあの建物にも、しばしば足を運びました。

 例えば、バラエティの世界では、『ザ・マンザイ』から『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも』に至るまで、漫才ブームを引っ張ったのが(ほかでもない)フジテレビ。その後は、『オールナイト・フジ』『夕焼けニャンニャン』『料理の鉄人』『SMAP SMAP』と、次々と高視聴率の番組を繰り出します。

 一方、一世を風靡したトレンディドラマの世界でも、フジは頭二つ分ほど抜け出していました。今でも再放送が人気を博す1991年の『東京ラブストーリー』や『1回目のプロポーズ』、1993年の『ひとつ屋根の下』、『あすなろ白書』などを懐かしむ人は多いでしょう。そして90年代後半に入っても、フジは『古畑任三郎』『ロング・バケーション』『踊る大捜査線』など、立て続けに大ヒットを飛ばします。

 確かに私の記憶でも、他の在京キー局と比べ、お台場の社風は明るく自由な感じ。「楽しくなければテレビじゃない」とのスローガンのもと、若い社員たちが「お台場文化」と呼べるような軽いノリで、思い付きのアイディアを次々と実現していく姿を、私も羨ましく眺めていました。

 そして、それから30年。自由な社風の中でエンターテイメントを追い求めていたフジテレビは、どこで変わってしまったのか。1月30日の日本経済新聞に、(おそらくは私と同世代であろう)同紙編集委員の石鍋仁美氏が、『フジテレビの「内輪ノリ」 栄光と落とし穴は背中合わせ』と題する論考記事を寄稿していたので、概要を小欄に残しておきたいと思います。

 「内輪ノリ」とは、仲間内の信頼や感性を優先し、周囲や世間にも押し通すこと。業績不振や同族経営からの「クーデター」で若手社員の登用が進んだフジテレビは、この「内輪主義」を武器に一世を風靡した。しかしその文化が経営にも持ち込まれた結果、視聴率の低迷と会社を揺るがす危機を招いていると石川氏は(フジの)現状を説明しています。

 中居正広氏と女性の間のトラブルは、結果としてFMH(フジ・メディアホールディングス)の傘下で放送事業を担当するフジテレビジョンの会長と社長の辞任につながった。1月27日の会見では、トラブルの背景にはフジの企業風土があるのではないかとの質問に対し、金光会長は「自由、進取の気質、人情味」という良さを挙げたうえで、「自由だからといって、今は何でもいい時代ではない」と語ったということです。この発言を受け、同じくかつてバラエティ部門で数々のヒット番組を手がけ、同日付で社長を辞任した港浩一氏も、「昔のやり方を引きずってしまっているのかな」と答弁をしていました。

 かつて、若手社員が自由に企画を立て、時代に合わせるのではなく時代をけん引したフジテレビ。なぜ時代の流れを感知できなくなったのか。

 1980年前後に、同族経営の2代目が指揮し、「楽しくなければテレビじゃない」を合言葉に「楽しさ」路線にかじを切ったフジテレビは、大胆な人事異動を通じて現場への権限委譲を進めたと石川氏はしています。

 同時に、女性アナウンサーを「女子アナ」としてアイドルタレントのように売り出し、ディレクターらが芸能人にまじりバラエティー番組に出演するなど、業界自体のエンターテイメント化を進めた。これには賛否両論あったが、好意的に見ればこれは「25歳定年」で男性の補佐役だった女性社員を新たな主役にすえたり、日の当たりにくい裏方たちを表舞台に出したりする挑戦であり、「内輪ノリ」の真骨頂といえるというのが氏の認識です。

 さて、90年代に入り、同族からの3人目のトップをクーデターで事実上追放したのが現在の経営陣。主導者の一人が今はFMHとフジテレビの両社で取締役相談役を務める日枝久氏だが、その後、ライブドアによる買収騒動を経て東日本大震災のあった2011年ごろから「楽しさ」路線のヒットが出にくくなる。そして今回はガバナンス不全も露呈したと石川氏は話しています。

 FMHの2025年3月期の上半期決算をみると、売上高構成比22%の不動産事業(オフィスビル、ホテル、水族館など)が、営業利益の66%を稼いでいることがわかる。売上高では75%を占めるメディア事業(テレビ、有料配信、イベントなど)は営業利益では32%しか貢献しておらず、今回のCM停止で下半期のメディア事業はさらに厳しくなるだろうと石川氏は予想しています。

 人権への関心が事業領域を問わず強まり、芸能を含むコンテンツ産業の位置づけも変わる中、これは一般的な上場企業であれば、株主から「祖業であっても利益の低い事業は売却しろ」と要望が出てもおかしくない状況とのこと。

 日本のコンテンツの魅力に海外勢が気づき、日本の政府も基幹産業として本格的に育てようとしているさ中、投資、政治、社会などさまざまな面から、かつてのような「特殊なギョーカイ」「はぐれものの集まり」という無頼ぶりは(もはや)許されなくなっているというのが氏の指摘するところです。

 時代の変化を機敏に察知し変身していくには、若手への権限委譲、参加者の多様性、内と外や社員同士の風通しの良さ、安心して物が言える雰囲気が必要不可欠となる。それはかつてのフジテレビ自身が証明していることであり、そのために現在の経営陣やグループ上層部は何をすべきか。若いころの経験を顧みれば、答えは明らかだというのが氏の見解です。

 結局のところ、「出直し」という新しい船に乗るのは、もはや古い水夫ではないということなのでしょう。「とんねるず」や「ビートたけし」の笑いやノリは、もはや今の若者たちには通じない。今回の不祥事によって(一時はフジの屋台骨を担っていた)「SMAP」まで完全に終止符を打つ中、メディア全体が世代交代し、新しい理念と姿を纏う必要があるのだろうなと私も改めて感じた次第です。