ひとりを楽しむ

がん、脳梗塞を経験したバツイチ。
残りの人生ひとりを楽しみたいと思っている
おばさんの記録です。

父が旅立ちました

2022年07月14日 | 身辺雑記

12日の夜に父が旅立ちました。

 

11時前に病院から電話があって

かなり血圧が下がっており、心臓のグラフも直線のようになっていると言われました。

ただ時間も遅いこともあって明日行くことにしました。

仕事の予定だったので夕方にと言うと、できれば朝に来てくださいとのことで

朝なるべく早く行くことにして電話を切りました。

 

電話を切ったら涙が出てきました。

明日が最期かもしれないなあと思っていたらまた電話がかかってきて

心臓が止まりました。死亡ですと言われました。

医師に診断してもらってから確定しますのでということで別に明日来てもらっても構わない

と言われましたが、まだバスもあったのでそのまま行くことにしました。

 

いとこにも悪いなと思いつつ電話をして一緒に行ってもらいました。

霊安室に安置されていた父の顔は穏やかで綺麗でした。

その後、葬儀会社に電話をして車で迎えに来てもらいました。

それが午前1時過ぎ。

運ばれて行ったあと、お世話になった看護師さんと警備員の人に挨拶をして

病院を出ました。

そのときが一番泣けて来ました。

 

電車もないのでいとことどこかお店がないだろうかと歩き回りましたが、

結局カラオケボックスで始発まで時間を潰すことになりました。

 

死に目に会えないことは日曜日に覚悟していたつもりでしたが、

やはり会いたかったと思ったりもしました。

そして父は寂しくなかったのかなと思ったり。

 

6年前に父の認知症が始まり、その頃は気が短くなっていましたし、

お金のことばかり気にしていました。

投薬治療が始まり、私もそれまでは実家には何か月かに1回程度しか

帰っていなかったのですが、毎週お金を持っていくために帰るようになりました。

そうすると父も段々、機嫌がよくなってきましたし、

物忘れは相変わらずですが、そんなに症状が進むということもありませんでした。

 

ただ、去年あたりから転倒することが多くなりました。

介護が始まった頃はまだ自転車にも乗っていましたし、

自転車に乗らなくなってからでもしょっちゅう近所を歩き回っていました。

よくある歩き回って自宅がわからなくなったらどうしようかと思っていましたが、

そんなこともありませんでした。

 

転倒が多くなって急に弱り始めました。

冬あたりからほとんど家でも寝ているようになりました。

そして3月に救急搬送で入院することになりました。

 

最初に面会に行ったときはまだ何か話そうとして声を出そうとしていましたが、

声にはならず会話ができませんでした。

最初の病院では車椅子にも乗っていましたし、

その頃は特養に入れてとか、特養が空いていなければどうしようかと

病院の担当の人と話し合っていました。

 

結局、施設に入れるような状態ではないということになり、

最初の病院には6月の初旬までいて次の病院に転院。

その病院でもかなり状態は厳しい、

誤嚥性肺炎は克服できても寝たきりになりますと宣告されました。

 

6月の下旬に3つ目の病院に転院。

体力がなく栄養状態も悪いのでかなり厳しいですねと言われていましたが、

それでも2度危ない状態を乗り越えてくれたので

今回もまた乗り越えてくれるのではないかと思っていました。

誕生日が10月なのでそこまではと願っていました。

 

父は私の一番の理解者でした。

私の決めたことに異論を唱えたこともありません。

話をしていても楽しく入院してからは会話が全然できなかったことが悲しいです。

ちっともいい娘でもなく不肖の娘でしたが父は許してくれるでしょうか。

 

感情に任せて書いてしまいました。

お見苦しい文章お許し下さい。

 

病院に用意して下さいと言われて買った父の靴。

結局履くこともなく逝ってしまいました。

 

コメント (3)
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