みりんの徒然声

日々、感じたことを日記や詩でお届けします

みりんの徒然声 袖ふれあうも・・。

2016-09-04 21:55:30 | 日記
昔買った本が出て来て読み返したら主人公の女性と同じ年齢になっていた。そうか、もう10年経ったのかと驚く。当たり前だが物語の人物は年を取らない。あたしはこれから彼女の年を追い越すのか、と思うと不思議な感じがする。そして何も変われなかったな、とがっかりもする。この本を買ったときはあたしも若くて主人公の生活を遠目に見ていた。今はひしひし痛む。悲しい話ではない。酒飲みの女性と30歳以上年上の老人が恋愛する静かな静かな話だ。あたしの好きな袖ふれあうも多生の縁、という諺が出てくる。好きだと言いながらこの本を読むまで多生を、多少、と勘違いしていた。前世との繋がりは多少の縁があるからだと。実際は多く生きる、からたくさん生を繰り返すから縁が出来るのだ。やはり日本語は奥深い。漢字ひとつ、読み仮名ひとつで意味が変わる。多く生きる、か前世が本当にあるなら今まだ一度しか生きていないと思うあたしも何度目かの転生なのだろう。頭が痛くなる、毎日死んだように生きるあたしは例え死んでもまた生きるのだ。それにしても前世あたしとふれあった人はいるのだろうか?今のところこれからあたしと共に過ごしてくれる人はいない。と、言うよりなんだかんだで諦めてしまっている。今のあたしが誰かの側にいるなど想像もつかないし夢のまた夢のような気がする。ふわふわ実体がない。そのくせ寂しさかだけ積もる。しんしんと。大丈夫、あたしは呟く。今までだってだめだ、だめだと言いながら生きてきた。寂しいと呟いたって生きてきた。死にたくなりながら、死ぬって言っている奴ほど長生きする、ってことも知っているのだ。物語の題名は、センセイの鞄、と言う。恋愛も忘れ、一人で生き、一人で居酒屋に通う女性が高校時代のセンセイと再会し恋に落ちる。多生の縁があったらしい。センセイは数年後に亡くなり、形見にいつも持ち歩いていた鞄を貰って終わる。最終的に主人公はまた一人になる。だけど多生を生きる彼女はまたいつかの世界でセンセイと再会するだろう。あたしにも多生の縁はあるだろうか?死んだように生きるあたしに少しの光はあるだろうか?分からない。ただ、言えるのは今のところ絶望的だと言うことだ。一人行ける居酒屋などこの辺りにはないし、(舞台は東京だ)第一都会でなければ呑んだら帰れない。あたしの中の恋愛感情は完全に機能停止しているし懐かしい恩師などいない。ああ、寂しいなあとしみじみ思う。そして言い様のない不安に駈られる。あたしはずっと、そうこれからずっと大丈夫と言い聞かせながら一人年を取るのかも知れない。暖かい鞄を得ることもなく。優しさも忘れたままで。袖ふれあうも多生の縁。あたしは多少、そう僅かな縁もないのかも知れない。あっても現実味をおびず投げ出してしまいそうだ。