北海道物語 2️⃣
樺太はもともと日本人が普通に住んでいた
しかし、そうなるまでは大変だった、まず稚内だが、
1685年 松前藩管轄の宗谷場所*から始まり、開基は宗谷村に戸長役場がおかれて始まった
ドリーマーの一人村山伝兵衛は宗谷場所も請け負うことになり当時・天明5年樺太探検隊が
組織された時にも力となっている。
しかし、酷寒の地で、今で言えば新種の風邪に悩まされ庵原弥六が、宗谷村で内地に帰れず
越年して翌年の春についに病死したこともあった。現在・稚内の北門神社に眠る。
◇
樺太も含めこの北の最果てを本拠地として通過した偉人は
松平忠明・遠山金四郎・近藤重蔵・松平伝十郎・間宮林蔵・松浦武四郎・大山重他多くの
勇気ある侍が、この地と樺太に命をかけて開拓・測量などに励んだ
その間 1685年から1872年のこと・・・
この北方地帯は当時からロシア人との軋轢・小競り合いがあり、南へ進出したいロシアと
狭い日本の領土を北方の列島や樺太に確定したい日本は早くから樺太などに標柱を建て、
ここは日本であると主張し、測量も行い確定させて来た。
しかし、日露戦争・大東亜戦争を経て押したり引いたりが今も続いている。
*宗谷場所:この「ばしょ」と云うのは未開の蝦夷地では稲作の普及がなされておらす税金に
あたる米での年貢を納める代わりに一定の土地で「あきない」をする権利を与えて
請負制として、そこで売上を得ることからなる禄の一部を納めさせていた。
その請負・商いする権利を持ったところ→ 「~場所」としていた
アイヌは農民としての位置ずけでした。この場所のオーナーは近江商人等が北前船で
やって来て松前藩の許可により請け負い・やアイヌ人がかかる流行病の疱瘡などに対して
薬を処方するなどして社会保障行為もしていた。しかし、面白くない行動派のアイヌ人も
多くいた・・・。