彼女が僕の目の前に現れた。場が緊張する。いや、俺が緊張しているのか…彼女は少しずつ、ゆっくりと踊り出す。
僕は彼女の鞭のようにしなる腕と引き締まった胴に目が釘付けになって離れない。カスタネットでリズムを取ってステップを踏む女。
動きが大きくなるにつれ、彼女の表情に奉仕心と悲しみの色が見える。その悲しみが、一瞬、彼女の流し目とともに弾けた。
少しして静寂。また彼女は動き出す。
素敵な光景だ。でも、何にもならない。幸せだが、この時間は死神に刈り取られたかりそめの時間なんだ。聞こえるかい、この死神の足音が。
まるで麻薬、この店では僕がいて彼女がいて他の人は全て背景であったが、その背景すら僕のように熱を持ち始めているじゃないか。
誘惑されている。彼女の踊りの先には何があるというのか。ハーメルンの笛吹き男についていった子供たちは、どうなったっけ。
僕とその他大勢の誰かは、ちょうどその子供たちのようになりつつあった。
ふと周囲がグルグルと回り出した。しまったな、ちょっと飲み過ぎたのだろうか。いや、それだけでもないらしい。
周囲の男たちも皆ヨダレを垂らして恍惚としているじゃないか。
彼女の踊りは一層激しくなり、場の熱も一層高まっていく。彼女の口に咥えたバラはこれまで以上に鮮やかさを増し、
身を翻すごとにドレスは周囲を薙いで行く。言葉がでない。出るはずがない。
僕はこのまま視線だけを彼女に注いで、魂をここに捧げてしまうんだ…ふと気が遠くなった。
どうしたことか、さっきまで気高く厳しかったはずの彼女の表情が柔和になった。
小鳥のように軽やかなステップ。急に10代のあどけなさといたずらっぽい笑み。そのギャップに驚くが、神が降臨していたかのような
先程の緊張こそが異常なわけで、これが本来の彼女かもしれないとも思った。
何かが憑くというのも、時間経過で何か変わるものがあるのかもしれないと思っているうちに、また体が熱くなっていき…
紅い時間が戻った。熱に浮かれたように先程の時を繰り返す。
最後のダンス。彼女はどこを見ているのか…
まるで太陽でも見ているように視線が遠い。一瞬目が合ったと思ったその瞳は真っ黒であった。
光を吸い込むブラックホールのように、俺はその瞳に引き寄せらた。
最後の一歩を踏み出した後、彼女は急に力を失ったように座り込んだ。
そして熱に浮かれた俺の夢も終わった。