一週間ほど前にこの友人の訃報に接した。ポルトガルのシントラという名勝地で画廊兼絵画教室を開いていた友人で、もしも2011年に市営住宅入居ということにならなければ再び日本を脱出、彼のところへ身を寄せようと考えていた相手である。死因は脳溢血で69歳という早い旅立ちだった。僕がポルトガルで離婚をし、日本へ帰国するもとてもこの国には住めないと判断してすぐにHISへ行きマレーシアへ飛ぶ格安チケットを購入、マラッカの安宿に落ち着くも前途になんの夢も持てないと分かったときに、彼がFacebookのメッセンジャーに現れ、励ましの言葉をかけてくれたことが思い出される。
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僕の人生は6回崩壊した。最後の一回はちょうど16年まえのことだった。
僕はポルトガルでポルトガル人の妻と結婚して幸せに暮らしていた。しかしそれはたったの2年半で終末を迎えた。もう二人の間に何一つ共有できるものがないと分かったので離婚に踏み切った。
一番の友達であったホセはポルトガルにとどまるように言ってくれた。彼は美しい彼の画廊の空いていた屋根裏部屋を提供してくれるという。日当たりは良くないが窓からは王様の宮殿が目の前に見えた。
僕はホセが今までこの地球上で他に出会ったことがないくらいの親切な男だと分かっていた。しかし、僕はアジアへ帰る道を選んでしまった。
というのもポルトガルに住む限り誰かの援助がないと生きられないと思ったからだ。リスボンで個展を開けば生きていくに最低の肖像画の注文が取れただろう。しかし個展を開くためには車の運転が必要であり、注文を取るにはポルトガル語が話せる人間が必要であった。ところが僕は現地語を話せないばかりか車の運転もできないのだった。もう僕は誰のお荷物にもなりたくなかったのである。
そんな僕ではあるが、マレーシアでは一人で生きられたという経験があった。みんなが英語を話すからだった。そしてすべての物価がヨーロッパに比べれば格段に安かった。それにこの国では美術骨とう品の店を経営する友人がいたのだった。その友人が僕の絵画を扱いたいと以前から申し出ていたのだ。その友人夫婦とはもう長い付き合いになるが僕にはとてもよくしてくれていた。
彼らの条件は35%が彼らの取り分65%が僕の取り分であった。僕はホテルに帰ってその提案をよく吟味してみたが、金のために絵を描くことが僕には不得手であったので、やはり日本へ帰国することにした。どんな楽しみも一旦商売となると楽しいものではなくなり商売の罠にはまって身動きができなくなるものだ、ということをすでに気づいていた僕は、他人の傘の下で危うい商売をやるわけにはいかなかった。それでやっぱり帰国することにした。
しかし、日本に到着するやいなや僕は自分の選択を多いに後悔することになった。空港に降り立つやいなやこの国の国民性の暗さが思われた。陽気な顔はどこにも見いだせなかった。フレンドリーな雰囲気はどこにもなかった。みんなが自分とは異質の人間に見えた。ある人たちはやくざのように見え、またある人たちは精神病患者のようにみえた。そして残る人々は白痴のように思えた。僕はとてもこの国には住めない、そう思ったので一週間後にはまたマレーシアに舞い戻っていた。日本にいる間に描いた小品50点ばかりの鉛筆画と水彩画を持参して。
そして僕はそれらの作品をマレーシアの友に見せた。彼らはそれを受け入れて店頭に出すと言ってくれた。ところが彼らは二つの条件を持ち出した。
一つは僕は僕の作品をほかの店では販売することができない。彼の店の専属として絵を描くということだった。
第二はマージンが半々になった。僕はつい先だっては35%と65%と聞いていたのでこの変更には驚いた。
そして結果的には彼らは商人以外の何物でもないことに気づいたのであった。僕はこれまでの他人を見る目があまりにも甘いものであったことを思い知らされる気がした。そして最終的に僕は自分の進むべき道を完全に見失ったという心持に陥ってしまうのだった。
これからどうして生きていったらよいのだろう。
それはとても惨めな時間だった。とても悲しかった。この広い地球上にもはや自分の落ち着ける場所はないのだろうか。もはや助けてくれと言える友人もないように思えた。自分の蓄えも早晩底を突くだろう、そう思うと絶望的な気持ちにおそわれるのであった。
折しもそれは僕の誕生日に当たっていた。自分は他の泊り客が観光に出払った安宿に一人ぽつねんと取り残されて思案に暮れていた。
それでラップトップを開いてFacebookをチェックした。するとメッセンジャーにポルトガルのホセが現れた。
「やあ、秀実、いまどこにいるの」
「今はマレーシアなんだ」
「すべて上手くいっているかい」
僕は正直に自分の状況を告白した。
「ポルトガルに帰っておいでよ。無償で部屋を提供するよ。何も心配は要らない。僕は君の役に立てるよ」
僕はその言葉を聞いて先ほどまでこらえていた涙がとうとうこらえきれなくなって、ほとばしり出るのを感じた。僕は一生懸命にむせび泣きになりそうなのをこらえてタイプした。
「ポルトガルに帰るよ。ありがとう。しかし、今すぐじゃない。一生懸命絵の勉強をして今よりももっと上手くなったらポルトガルに帰るよ。そしてまた昔のように一緒に絵が描けることをねがっているよ」
「その日が来るのを待っているよ。じゃ、元気でね」
この瞬間に僕は帰国してタクシー稼業に戻り月の内13日だけ働き残りの17日を絵の猛勉強に充てようと決心していた。
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それから早いもので16年が経過した。そしてつい一週間ほど前彼は他界した。
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