(監督・脚本:沖田修一 原作:若竹千佐子 2020)
去年の暮れに、配信で偶然見つけて観た映画です。世間では忙しいはずの師走に、そんなことばっかりしていたわけで…(^^;
上映中に話題になったかどうかも知らず、覚えていたのは田中裕子主演ということだけ。
むしろ原作についての方が、「60代の小説デヴュー作で芥川賞受賞」とか「東北弁で書かれている部分がいい」…などと、あちこちで取り上げられていた記憶があります。
田中裕子は、最近では「自分にとても厳しい」役が多い気がして、わたしはちょっと敬遠気味でした。(元々は好きな女優さんだったのに、なんとなく足が向かない… っていうのは、自分でもサビシイものと知りましたが)
それでも、これは「75歳の一人暮らし」の役とあったので、どうやって(化けて)演じるのかなあ… と興味が湧いて。(でも今調べてみたら、田中裕子は私より1歳若いだけ。原作者の若竹千佐子さんは、なんと同い年でビックリ!)
映画は、監督の名前も意識せずに観始めたのですが、なんというかちょっとファンタジーのような、それとは全く別物のような、不思議なテイストの作品で…
エンディング・ロールの最後に「沖田修一」と出てきたときには、「やっぱりかあ…」(^^)
主人公桃子を演じる田中さんは、カラオケ(いえいえワンマンショー?)で、大好きだった亡き夫のことをボロチョンにけなす歌も歌えば、雪の降った住宅街を「マンモスを引き連れて」歩いたり。
冒頭からすでに「さびしさ1」「さびしさ2」「さびしさ3」という名の男性3人を前に、東北弁で議論をするくらいで、まあ「沖田監督全開」みたいな感じなんですが…
(その都度、桃子さんに似た格好で出てくる)その3人が、とても優しいのです。
「自分の中の自分」の一面(というか一意見)を表す存在なので、けっこうキツイことも言ってくるのに、それでも優しいと感じるのは、3人の男優さんがそう演じているから。
「さびしさ」は人を死なせるほどの力のある感情だとわたしは思っています。でも、この3人の「さびしさ」たちなら、桃子さんの毒になることはないんだろうな…と。
わたしから見ると、ここが原作と映画の大きな違いの一つ。観た後読んだ小説の方は、もっともっと「自分に厳しい」内容でした。
「自分とは何か」「どういう存在なのか」だから「この先どう生きていったらいいのか」
書いた作家と桃子さんは、かなり近い距離にあるような気がして、考えに考えたその結果が小説として結実するまでに、長い年月がかかったというのも当然と思いました。
でも…
実はわたしは、小説より映画の方が好きです。映画の優しさの方が好き。自分に大甘に甘い人間なので、小説を先に読んでいたら、映画の方は観なかったかも(^^;
そういう意味では、「観てから読んで」正解だったことになります。その順番の方が(映画にガッカリせずに済む場合が多いので)自分に合ってるとは思っていましたが… まさかこういうパターン(映画の方が優しいから好き)があろうとは!
それでも、「原作にかなり忠実な映画化」だと感じたのも本当です。
生きている者も、既に亡き人も、同じ地平に並んでいる。そういう「存在しない」世界と、存在している現実世界の間を行き来しながら、「おら、おらでひとりいぐ」と決心する桃子さんは、私よりずっと真面目で芯の強い人。
でも、(こっそり白状すると)これまであまり出会うことのなかった「自分と同じ人種」とも思いました(^^;
現実世界での不器用さ。その一方で、存在しなくなった人たち(若き日の自分も含めて)や、自分の中にいる何人もの自分との、あまりに自然なやりとり。
沖田修一監督との相性の良さは、その辺りの感覚が似てるのかも… そんなことも、あれこれ考えました。
とにかく田中裕子さんは、久しぶりに見た「ちょっとおびえるような?表情も可愛らしい」あの田中裕子さんでアリマシタ。次に出演作を見つけたら、もちろん観ると思います。なんだかそれが、すごーく嬉しいデス(^^)
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