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眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

 記憶について ・・・・・ 「灯台守の恋」

2006-03-20 20:06:14 | 映画・本
私が住んでいる街では、以前から映画の自主上映が盛んだ。(一地方都市で、最近はシネコンと、あとは古くからの小さな映画館があるだけになってしまったけれど、かつては全国的にも人口の割に映画館が多い土地だと言われていた記憶がある。)

昨年、そんな自主上映グループの中のひとつの賛助会員になった。いくつかある中で、そのグループの上映作品の選び方が一番好きだったから。地元の映画ファンが作っているあるサイトで「映画に対する愛を一番感じる」と書いてあったけれど、私もそういうものを感じたのだと思う。

最近そこで観たのが「灯台守の恋」だった。

1960年代、フランスの中でも辺境の地といわれたノルマンディー地方の、或る島の灯台守達とその家族の物語だけれど、タイトルから判るとおり、三人の男女の恋が描かれているこの作品を観ながら、私はなんだか不思議な気持ちになった。突然村に現れて、灯台守の助手をすることになったアントワーヌという若いアルジェリア帰還兵が、かつて私が知っていた人を思い出させたからだ。

大柄な若い白人男性で辺境の地に突然やって来たという以外、話している言語も国籍も異なり、容貌も特に似ている訳ではない。(映画では、「ハンサムな男」ということになっていて、実際演じる俳優も甘い雰囲気を感じさせる顔立ちだったが、知人は所謂ハンサムではなかったと思う。)

それなのに、見ているうちにイメージが重なって振り切れなくなってしまったのは、灯台で勤務についている時のアントワーヌの、居着いているネコや灯にぶつかってきた海鳥に触れる手の何気ない優しさだったり、必ずしも好意的とは言えない頃のイヴォンに対する柔らかく穏やかな、ちょっと(好意を込めて)面白がっているような対応のしかたが、「彼」を一々思い出させずにはおかなかったからだと思う。

先輩の灯台守であるイヴォンの妻マベと、アントワーヌは恋に落ちる。映画はそれを、夜空を彩る花火や嵐の中の灯台とといったドラマチックな背景の中で描いていく。それはあくまで「映画の中にしかあり得ない」ような風景だった。

実は私はこの映画を観ながら、自分が「彼」を思い出させられても動じなくなったことに初めて気づいた。ほんの10年ちょっとの間に、私の中で何がそんなに変わってしまったのか自分でも意外だったけれど。あの、思い出す度に何とも言えない後悔のような苦味を感じていたのが、今回は全くと言っていいほど無かった。

むしろヒロインであるマベが、いかにもフランスのこういう映画に相応しく、強い自己主張を持つ「大人の女」を感じさせる事が、私にはどこか辛かった。かつての私は彼女と同じくらいの年齢だったにもかかわらず、比べものにならないくらいコドモだったから。そういう私の未熟さが、自分も相手も傷つけることになったのだということが、今の私には良く解るから。(どうしてあんな風にしか出来なかったのだろう・・・。)

映画の中ではもうひとりの男性である夫イヴォンの、所謂「朴訥だけれど外からは見えない優しさを秘めた」善良な人柄も、アントワーヌの魅力と同じくらい強い印象を残す。その事もあって、この映画では、ヒロインは最初から最後まで「本当に幸せ」な女性として、私の目には映った。

映画はもちろんフィクションの世界だけれど、たったの10年で現実も映画とそれほど変わらなくなることに、私は一番驚いているのかもしれない。

ここまで書いてきて、ふと昨年度のアカデミー賞の授賞式で、ロバート・アルトマン監督が語った言葉を思い出した。

「映画を撮るのは、浜辺に砂の城を建てるようなものだ。完成したら今度は、グラス片手に皆で、波がその城をさらっていくのを眺める。」
「やがて城は消える。しかし、見ていた人の心の中には残る。」

不遜な言い方に聞こえるかもしれないけれど、有名な監督が映画を作ることも、私のような一個人がささやかな記憶を作り上げる作業も、私には同じく「浜辺に砂の城を建てる」ことのような気がし始めているのかもしれない。

イヴォンとマベの元には消えない城(最愛の一人娘)が残された。彼らはその後の歳月で、どういう記憶を作り上げたのだろう・・・。



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