眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

 「存在しない」者たち ・・・・・ 「ビューティフル・マインド」

2006-07-30 15:17:47 | 映画・本
何年か前、「ビューティフル・マインド」を劇場で観た。主演俳優二人の名前と天才数学者の話らしいという、例によって僅かの予備知識で観に行ったため、本編の始まる直前に「この映画は統合失調症に対する偏見を助長するものではない・・・云々」といった意味の、説明とも但し書きともつかない文章が現れたのには驚いた。その結果主人公の運命の一部が観る前から判ってしまい、映画を観る楽しみが削がれるという以前に、こういう「配慮」はそもそも必要なものなのかどうかに、疑問を感じたからだ。

その時点では、何となく割り切れないような気持ちで観始めたのだけれど、物語が進むに連れて、この但し書きが付けられた理由のようなものが、そのうち私にも見えてくることになった・・・。

優秀な数学者のタマゴである主人公ジョン・ナッシュは、元々人好きがするとは言い難いような人物だったが、プリンストンの大学院生時代に、あるひらめきから後にノーベル賞受賞の根拠となる「非協力ゲーム理論」を考えつく。アダム・スミスに始まる150年来の経済理論を覆したと言われるこの新理論を打ち立てた彼は、新進気鋭の数学者として一躍脚光を浴びる。独創的な着想をなんとかして得たいという焦燥感に駆られて研究に没頭するあまり、「変人」とまで見られていたのが、そういう彼を理解する美しく聡明な彼の講義の聴講生アリシアに出会い、恋に落ち、結婚もする。しかしそれ以前から、彼の才能を見込んだ国防総省の諜報員との間で、彼は冷戦の状況下、「暗号解読」のため周囲に秘密で協力する約束をしていた。結婚後もその任務から抜けることを許されず、そのうち彼は怪しげな人影に追われるようになる・・・。

映画のあらすじだけを見ていると、前半は一種のサスペンスとも言えそうだが、実はそれが彼の「統合失調症の発症」によるものであり、それも相当早くから発病していたのが、彼の人柄や研究一色の生活態度のせいもあって、周囲に気付かれなかったのだと判ってくる。

その後の彼は、数学者としてはもちろん一社会人としての生活もままならない「病者」としての人生を余儀なくされる。ただ、妻のアリシアは彼を見捨てることなく、その後の多難な生活でも出来る限り拘束しないようなやり方で彼を見守り、彼は母校プリンストンと自宅を往復しながらの病との長い闘いの後、或る程度の回復を見、やがて人との交流も可能になった頃、彼の若き日の業績が後の経済学に与えた多大な影響を認められて、ノーベル賞受賞の知らせが届く・・・。

今、パンフレットを見ながらストーリーを追ってみると、この映画は主人公と妻との愛情や信頼がメイン・テーマの作品だったように見えてくる。しかし劇場でこれを観た際、私にとって一番印象に残ったのは、この主人公の所謂「妄想」や「幻視幻聴」のリアルさだった。

「暗号解読」の作業が段々エスカレートしていく過程、「ソ連側の手先に追われている」という彼の恐怖感、そしてそういった彼の病ゆえの「妄想」が、第三者に「発見」され、客観的事実として人目に映った時の一種いわく言い難いような異様さ・・・。文字や数字が並ぶ雑誌の切り抜きが部屋中に貼られ、床に散乱しているのを「第三者の目」で突然見ることになる観客の驚き。それは、もしかしたら上映直前の但し書きの必要性に繋がっていたのかもしれない・・・と私が一瞬思ったほど、デリケートなリアルさに満ちていた。ただ単に「異様」なのではなく、どこか本当に一生懸命で、その一途さが痛々しくもいじらしくも見えてくるような、所謂「統合失調症」を発症した人の生真面目さのようなものを、映画はフィクションだと解っていても彷彿とさせるような場面だったのだ。後になって、精神科医である私の友人が、「スタッフかアドバイザーに、経験者がいるのかな・・・って思った。」と言ったほどに。

そして何よりもショックだったのは、主人公の唯一の親しい友人だったルーム・メイトのチャールズとその姪の少女マーシーの存在だった。

彼らと居る時のジョンは、「学者としては天才的だが、自己中心的な変わり者で、人間としてはイヤな奴」という、周囲から見えるジョンではなく、チャールズの言うことに素直に耳を傾け、マーシーの姿を見ると笑顔で抱き上げる優しい青年に見えた。大事な論文がなかなか書けないまま、ライバルに先を越されそうになり追い詰められたジョンの目の前で、立派な重たい書き物机を二階の窓のガラスを突き破って外に放り出し、「こうしたかったんだろう。どうだ、気が済んだだろうが。」と言うチャールズに向ける、圧倒的な信頼と感謝に満ちた子どものようなジョンの表情に、私は文字通り胸がつぶれそうな気がした。


現実の友人よりも、ずっと親しい「愛おしい」ような存在。時として家族よりももっと身近で、もっと生身の人間としてのリアルさを感じさせるような、しかし現実には「存在しない」者達・・・。私は自分自身、そういう者達と共に暮らしたことがある。今となると、もう25年も前のことだ。

私の場合、それは「人間」ですらなかった。

魑魅魍魎とでもいうような、気味の悪いような有象無象はたくさん居たけれど、姿形としてはっきりとは見ていない。その影、その存在の気配を感じていただけだったと思う。今もはっきり覚えているのは、なんだか薄汚れてボロボロのネコと、当時はまだ身近ではなかったCGで描いたような美しく作り物っぽい若い女性だけだ。そのネコのことを、私は「みっともないネコ」と呼び、女性には綺麗な外国名がつけられていた。銀色の髪と何色か判らないような瞳を持ち、真っ白な衣装に身を包んだ彼女は、口をきかなかった。喋るのは専らネコのほうで、しかもそれは口も開かずに私の頭の中に直接話しかけてくるような感じだった。声として、耳できいているのではないことも、それ以前にそもそも彼らが現実には存在していないことも、映画の場合とは違って、私には判っていた。

それなのに、彼らに対する愛おしさと実在する家族や友人とは次元が違うかのようなリアルな存在感、現実のどんな人間よりもずっと身近にいる、誰よりも大事な存在だと思う気持ちは、ジョンも私も全く変わらないように思えた。映画ではそういった本人の心情が、本人の側から本人の目を通してだけ描かれていたため、私は20年以上もの歳月を思いがけない所で一瞬のうちに逆行させられたような気がした。それくらい、映画の中のジョンの眼に映る(彼の病ゆえの)光景は、私にとってはリアルなものだったのだ。

私の場合「存在しない」者達は、さまざまな経緯を経て私自身の手で殺される結果になった。居なくなった奇怪な者達。首が飛んだネコ。見えない刃物を振り回す私を止めようとして、血しぶきを上げた女性。暗い中、血溜まりを作って倒れている彼女の白い顔を最後に、私は彼らと会うことは無くなった。

私は統合失調症を発症したことはない。当時はまだ、私のような状態・病状を精神医学の方が把握・分類しきれていなかったのだと精神科医の友人が言っていたのを覚えているが、最近の特に若い人達には全然珍しくなくなったようにも見える。あくまで、素人にそう思えるというだけの話だけれど。

私にとって「存在しない」者達がどれほど近しいものだったかを説明するには、こういう言い方が良いかもしれない。

私の周囲にも、既に何人も亡くなった人がいる。祖父母や父、義父、伯父達のような身内もいれば、親しかった友人、後輩、一緒に何らかの活動をしたような知人もいる。しかし、生前の親しさの程度に差はあっても、その人の死を思っただけで訳もなく涙がこみ上げてくるのは、私の場合、あのネコと若い女性だけだ。私という人間のある種の薄情さ、家族との縁の薄さや、子どもの頃から何十年も続いた離人症状とも関係があるのかもしれないが、私自身はそれだけとは思えないものを感じる。「幻覚」「妄想」と自覚していてさえ、彼らとの別れは辛かったのかもしれない。そうする以外に無いというところまで、私の場合も追い詰められた揚句のことだったのだけれど。


映画の終盤、ジョンはこの現実の人間世界に還ってくる。

実は、映画のパンフレットには、撮影現場に招待された実在のジョンとアリシアの横顔が、他のキャストやスタッフと一緒に撮られた写真として載せられている。結婚当時の昔の写真もあって、その間の二人の顔の変化は、映画とは別の実人生を垣間見させてくれる気がした。ジョンは他人の目を意識して肩を怒らせている尊大そうな青年から、人の良さそうなしかしちょっと子どものような雰囲気を感じさせる老人に、アリシアはふくよかで非常に美しい若い女性から、ほとんど鷹を思わせるような強さを感じさせる顔へと変わったように、私には見えた。

私には、この「ビューティフル・マインド」という映画を一作品として観て楽しむことは出来なかった。作品の一部にしかすぎない部分に、あまりにも強いショックを受けてしまったため、作った人の意図や描写の仕方はもちろん、俳優の演技に見入ることも結局出来なかったと思う。私は時々こういう作品に出会う事があり、先に書いた「ヒトラー」などもこれに当たる。

しかし、不思議と言えば不思議、当然と言えば当然のように、そういう映画のことは長く記憶に残るのだ。映画そのものは「砂の城」として形を無くし消えていくのに、その映画が私の中で開けてくれた扉から、私にはそれまで見えていなかった世界が、ほんの少しまた違った方向に開けて見えてくる。

アリシア役を演じたJ・コネリーに「この映画で表現して欲しいことがありますか?」と尋ねられた時、アリシア本人はただ「これは貴女の映画よ。」とだけ答えたという。

一観客である私にとっても、こういうごく個人的な見方をすることになった作品は、数少ない「私の映画」なのかもしれない。その映画の出来不出来、観ている私の好き嫌いすら問題にならないような次元で、私の人生のある時点に根を下ろす気配をいつも感じさせるという意味で。





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5 コメント

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ムーマさんも (お茶屋)
2006-08-03 19:01:13
サバイバーやね~。

私の『ビューティフル・マインド』的1本は『タクシードライバー』です。『タクシードライバー』の脚本家を勝手に仲間や~と思っています(笑)。



ところで「存在しないもの」を描いた映画って、結構あるんじゃないでしょうか。コレクションしてみては?

『ポピーとディンガン』なんかいかがでしょう?

私は観てないですが、おもしろそうですよ。

原作本もあるみたいです。



ポビーとディンガン(梅田ガーデンシネマ)

http://www.gardencinema.jp/umeda/back/20360_year.html



DVD(amazon.co.jp)

http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000GIWLRQ/250-2573042-0333839?v=glance&n=561958



原作本(amazon.co.jp)

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4901142445/250-2573042-0333839?v=glance&n=465392&s=books

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そういう手があったか~(笑) (ムーマ)
2006-08-03 21:02:01
お茶屋さ~ん、

「ボビーとディンガン」面白そうですね~。(原作のあらすじだけ見てきました。)



私は自分のこういうコトから出発して映画を観ようと思ったことが無かったので、「そういうやり方があったんだ~」って、実はすごーく驚いてます(ボー然)。発想の違いというか・・・。



でも、それもいいかも。



私はお茶屋さんの書かれるものの「乾いた」感覚(私から見るとそう感じられるのです。もちろん、本気で本気の賞め言葉ですが。)が好きなのですが、今回下さったコメントからも、それを改めて感じました。



また、書いて下さいね(と催促する)。



いつかも仰ってましたが、「タクシー・ドライヴァー」をもう一度観たくなりました。(お茶屋さんの仲間となると、興味も湧きます(笑)。)
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「ビューティフル・マインド」→「タクシー・ドライバー」→「エンジェル・アット・マイ・テーブル」 (ガビー)
2006-08-06 11:57:22
お二人のコメントに、乱入でごめんなさい。



僕にとっての「ビューティフル・マインド」的作品は、ジェーン・カンビオンの「エンジェル・アット・マイ・テーブル」でした。



こちらは、強迫神経症の女性を主人公に、生い立ちから作家として自立するまでを描いた、精神の大河ドラマです。大きな作品でありながら、非常にプライベートな作品でもあり、僕の中ではすでに生涯のベストテンに入ってしまっています。



僕にとってジェーン・カンピオンは、お友達と言うより分身です。



お茶屋さんは「タクシー・ドライバー」の脚本家ポール・シュレイダーがお仲間なんですか? 

こ、怖い! それって凄すぎません? お茶屋さんて、そんなアナーキーな人だったんですか。

3m以内には近づかないようにしよう。



好きとか嫌いとかのレベルではなく、自分にとって抜き差しならない関係になる作家とか作品について考えてみると、一つの法則性があるといつも思わされます。それは単純に言うと、内向性と外向性のブレンドの具合、といったものです。感覚なので何の根拠もないのですが、僕にとって自分の心に根をおろす作り手というのは、内向性の方が外向性よりやや立ち優った存在であり、その作品なのです。これも感覚でしかありませんが、6対4程度の割合で内向性に傾斜した作品が好ましいのですね。



もともと傾いているのですから、それが7対3であってもぜんぜんOKです。



ところが逆に、これがバランスよく5対5くらいであったり、4対6と感じられたら、作品として評価できても、それらはまぶしい作品であり、自分の領域に入ってくる作品ではないのですね。



人間の感情はふらふらしていますから、いつもいつもそんな評価基準で動いているわけではないのですが、最終的に落ち着くところはそこ、という気がします。



だから、漫画の好みで樹村みのりだったり、音楽で浜田省吾が好きで、7対3の矢野絢子がOKだったりするわけです。



結局、人間って自分の似姿が好きなのかなあ?

もちろん、思いこみの世界の中の話ですが。



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「同類」を探す気持ち (ムーマ)
2006-08-06 14:29:00
ガビーさ~ん、乱入大歓迎!です。



偶然ですが、「エンジェル・アット・マイ・テーブル」は、私にとっても特別な作品です。(いつか書ける時が来るかもしれません。)



カンピオン監督の作品の中でも、私にとっては非常に距離の近い作品ですが、それも(ガビーさんのように)監督との距離ではなく、私の場合は主人公との距離のような気がします。「分身」というなら、あの主人公がそうで、確かに「仲間」ではないのです。



私は多分、ケーブルTVから録画して観たのだと思いますが、最後に近い場面で、医者からごくごく無造作に「友人と付き合うのが苦痛なら、付き合わなければよろしい。」といった意味のことを言われて彼女が初めて見せた自然な笑顔が、今も鮮やかに思い浮かびます。



一方、創作活動に携わる「作り手」を「同類」と感じることも、確かにありますね。



「バランスよく5対5くらいであったり、4対6と感じられたら、作品として評価できても、それらはまぶしい作品であり、自分の領域に入ってくる作品ではない・・・」とお書きになっているのは、本当に私自身の場合も同じです。(「まぶしい作品」というのは言い得て妙だと思いました(笑))。



私個人に限って言えば、同じ人間同士で「仲間」や、まして「同類(とでも呼ぶしかないような人達)」を探すことを、最初から半ば諦めていたのかもしれません。作品を通しての「同類」とは、出会っただけで幸せを感じますが、人間同士だとそうもいかない・・・と思い込んでいたフシも?あって、余計に「作品を通しての仲間」を熱心に探したのかも・・・と、今ガビーさんのコメントを読んで、ふと思いました。





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う~ん、そうね~ (お茶屋)
2006-08-06 22:30:20
ガビーさんへ



分身というなら、トラビス・ビックルは、分身でしたね~。



>3m以内には近づかないようにしよう。



わはは!

核のボタンも押したことがありますから(^_^;。

でも、頭の中だけで、私にも理性ちゅうもんがありますから、近づいても大丈夫だと思います。多分。

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