押井守監督の新作アニメーション『スカイ・クロラ』を、シネコンに観に行った。
私にとっては、夏はアニメーションの季節だ。県立美術館では、毎年名作アニメーションの特集企画があり、映画館で上映されるものと合わせて、今年も日本製・外国製取り混ぜて10本近く観せてもらったことになる。
その中で、私にとって個人的に考えさせられるところがあって、長い間「抱えて暮らした」作品の1本が、この『スカイ・クロラ』だった。
なぜ「長く抱えて暮らした」のかというと、このアニメーションの原作である森博嗣の同名小説に、私は一種特別な気持ちを持っていたらしいことに、映画を観て改めて気づかされたからだと思う。
森さんの小説は以前から好きで、私にしては沢山読んでいる作家の1人だと思う。けれど、この『スカイクロラ』シリーズ5冊(もっとあるかもしれない)については、全巻を読んだ訳ではないので、物語の全体像がまだ判っていない。
それなのに初めてこの映画を観た時、「これはあの小説とは全く別の物語だ。」という微妙にイヤな?感じ(としか言いようがない)が強くして、自分でもちょっと困惑した。
元々、映画と原作とは全く別物だと思うし、原作者の森さんもそれを承知の上で許可されたことなのだろうから、一読者、一観客としては「全く別の物語」でも一向に構わない。映画の方が小説より明らかに完成度が低いと、分かってはいても、ちょっとガッカリはする。しかし今回の場合、アニメーション作品としては作り手の真剣さがはっきり伝わってくる出来栄えで、メカニックなことにはさっぱり無知の私でさえ、「全力を出し切って作った」という迫力のようなものを感じた。
しかも、この映画に使われているエピソードの多くは、小説からそのまま取られている。映像面での空と航空機の描き方や全体的な「絵」の雰囲気も、小説の持つ独特のイメージに合っているように(少なくとも私には)見えて、違和感がないことなどから、一見このアニメーションは原作に非常に忠実に作られたもののように、原作のファンである私にさえ、見えてしまうところがあるのだ。
それなのに、どうしてこれほど強く「全く別の物語」だと感じ、しかもそのことで「困惑」までするのかが自分でも不可解な気がして、例によってあれこれ思いを巡らしている。(本当に、こういうことに限ってどうして「まあ、いいじゃない」と思わないのだろう。)
という訳で、手元にある『スカイ・クロラ』、『ダウン・ツ・ヘヴン』の2冊をもう一度読み直した。(『ダウン』の方は、ヒロインであるクサナギがまだ第一線のエース・パイロットだった頃の話だ。)その後、性懲りも無く更に、映画の方をもう一度観に行った。
そして、最初に感じた違和感は、私としては当然のことだったのだと改めて思った。以下にそのことを、少しでも整理しておきたい。
映画と小説で大きく異なって見えるのは、何よりもエンディングだろう。
けれど私から見ると、登場人物の設定や相互の関係がそもそも随分違っている。そのせいで、エピソードは同じものを使っていても、エンディングも含めて物語全体の描き出すものが、全く違って見えているのだ。
それが監督(や脚本家)の意図なのだから、映画の作り手と一読者の私とでは、「キルドレ」と呼ばれる「永遠に(思春期くらいのまま)歳を取らない子ども」であるパイロットたちに対して持っているイメージが、相当違っているということなのだと思う。
実は、小説の『スカイ・クロラ』はカンナミの一人称で書かれている。登場人物の中でも、エース・パイロットである若いカンナミのものの考え方、感じ方が、一番よく分かるように書かれているとも言えるかもしれない。
ともあれ小説では、「オトナから見たキルドレ」は殆ど描かれていないのだ。
元々、森博嗣さんという人は、子どもを単に「大人になる前の未熟な段階」とは思っていないように見える。小説の中にも「子どもみたいだ」という言葉を侮辱と受け取るには、大人になることが無条件に良いことで、子どもであることはそれに比べて何かが欠損していることだと捉える考え方をしていないといけない・・・などといった表現もあったと思う。
そして、当然のことながらキルドレ自身は、永遠にオトナにはならないことを元から運命付けられている自分自身のことを、「何かが欠損している前段階」とか、まして(オトナに利用されて)「痛々しい」だの「可哀想」だのとは、思っている筈がないのだ。
小説で鮮やかに描かれているのは(私の勝手な受け取り方だけれど)、「地上よりも空にいたい」「出来るだけ高く、長く、空を飛びたい」そして、「敵と一対一のダンスを踊りたい」という、ごく若い、しかも「飛ぶ」ことについて非凡な才能に恵まれた、やや特殊な戦闘機パイロットの姿だと思う。飛んでいる(そして敵と戦っている)時が自分という生き物の本体なのであって、それ以外のことは大したことではない・・・というような。
地上の現実はオトナの作っているモノなので、「なぜ」という理由を常に相手に要求する。
しかし、「永遠に歳を取らず、従って老いて死ぬことはあり得ず、しかも明日死ぬかもしれない」という日常を生きるキルドレたちにとっては、地上で言うところの「理由」などどうでもいいことなのだ。寧ろ、彼らはそういった「地上の鬱陶しさ」を、普通の思春期の人たち同様、明らかに嫌悪している。
また、「死」と隣り合わせにいることさえ、彼らにとっては大したことではない。彼らの現実では、「死」は「生」の隣に元々あるものだ・・・とでもいうように。
そんなキルドレたちの感覚は、小説『スカイ・クロラ』のエンディングによく表れていると思うので、少しだけ引用する。
「きっと、
彼女は生き返る。
僕だって生き返る。
繰り返し、僕たちは、生きることになるだろう。
そしてまた・・・・・・、
戦おう。
人間のように。
永遠に、戦おう。
殺し合おう。
いつまでも。
理由もなく、
愛情もなく、
孤独もなく。
何のためでもなく、
何も望まずに・・・・・・。」
押井監督は、こういうキルドレの姿が、現代の日本の若い人たちの姿に重なって見えたのだという。
「この歳(56歳)になって、とにかく人生を一回りしてきたような気がしている自分としては、今の若い人たちの閉塞感がとても気になる。大人として何か出来ることは無いのかと。せめて、僕らの生きているこの世界も、そんなに捨てたものじゃないってことを、若い人たちに伝えたいと思った。」といった内容のことを、インタビューで口にしておられるのをテレビでも見た。
そして、そういった監督の思いが、アニメーションと小説という二つの『スカイ・クロラ』を全く違うものにしたのだと、私は今思っている。
前の引用部分だけを読んでいると、もしかしたら「作り物のゲームとしての戦争」に命を賭けているキルドレたちの強がりや痛々しさの方しか、見えてこないのではないか・・・という気もしてきた。(興味をもたれた方は、どうぞ小説を丸々読んでみて下さい。)
私が言いたかったのは、小説の『スカイ・クロラ』からは、ある種の清清しさのようなものを強く感じるということなのだけれど、それがなかなか上手く表現できない。
簡単に言うなら、小説は「空」の、映画の方は「地上」の『スカイ・クロラ(空を這う人たち)』という感じがする。
小説はコドモの側から書かれ、映画はオトナの眼差しで作られている、或いは、小説は本人たちの言葉で、映画は見ている人たちのものの考え方、解釈の仕方で創り出されたと言ったら、まだ近いのだろうか。
そして、私はコドモの側の感覚、本人たちの言葉の方に、より強く惹かれるものがあるのだろう。だから、このただでさえ映像化の難しそうな、ほとんど詩のような小説をアニメーションにする企画があると聞いた時から、この清清しさをこそ、色と音のある「絵」にしてほしい・・・と、どこかで願っていたのかもしれない。(それがとても難しいだろうということは、素人の私にでもよく分かっていた筈なのに。)
実際には、小説の映像化それ自体は、驚くほど上手くいっているように見える。「困難」だったのは寧ろ、小説の世界観(倫理観?というか、本来の意味での「反社会性」??のようなもの)を、そのまま映画のストーリーに反映させることだったような気がする。
「理由もなく、愛情もなく、孤独もなく・・・」というあの小説をそのままアニメーションにしたのでは、多くの観客は望めないということに、もう少し早く気がつけば良かった・・・と、今となると自分でも可笑しくなる。アニメーションは「売れなければ次は無い」世界らしいのだから、若い脚本家(26歳の女性)がラブ・ストーリーにしてしまったのも無理ないことだったのだ。(それがどれほど「キルドレ」からは遠いことであったとしても。)
以前、宮崎吾朗監督・脚本のアニメーション『ゲド戦記』を観た時、私は宮崎監督の「今の若い人たちに希望を与えたかった」といった意味の言葉に、唖然とした記憶がある。「希望を与えたい」なら、オリジナルな脚本で作ってもらいたいと、あの小説を大事に思っている私は、珍しく本気で腹が立った。背景の絵は、いつものジブリ作品のように美しかったけれど、アニメーションとしての迫力も魅力も、私にはなぜか感じられず、作品の完成度の低さ!(エラソ~な言い方だけれど、本当にそう感じた)が余計に怒りを掻き立てた。
しかし、今回の『スカイ・クロラ』については、ああいう不愉快さは感じない。(相当人物設定が変えられているのも、セリフやストーリーのどこか「オジサン」的感覚も、そもそも原作を知らなければそれまでだ・・・などと、諦めてしまえる。)
とにかく押井監督は、無彩色だったあの小説『スカイ・クロラ』の世界に、非常に美しい色彩と音楽(特にオープニング)を与えた。微妙な効果音や会話の間の取り方・・・といった、「音」についての細かな気の配りようが、観ている私にもよく判った。また、私の頭では想像のしようもないプロペラ機の数々を、現実に目の前に見せてくれた。それらの飛ぶ姿、撃ち、撃たれ、爆発して「上へ上へと落ちていく」姿を。
「空の美しさと飛ぶことの爽快感が上質のアニメーションとして見られたら、もうそれだけでいいや。」程度の気持ちで観に行った私にとって、それらは、ただそれだけでも、ストーリーの違和感とは別のところで、私を感動させる力が十分あったのだと思う。
書き始める時には、自分が何を言い出すか(罵詈雑言とまでは行かなくても、文句タラタラ・・・の可能性もあったので)ちょっと見当のつかなかった今回の記事が、こういう褒め言葉で終われるのが、自分ではとても嬉しい。
映画が好きな私は、出来るなら腹を立てたり、文句を言ったりしたくない。(それも、大好きな「アニメーション」についてなので、尚更。)そんな悲しくなるようなことはしたくないのだと思う。
もっとも書いている間中、あのいかにも人前で(それも作品の宣伝用の)話なんかしたくなさそうな押井監督が、我慢強く?インタビューに答えている顔が浮かんできて、文句を言う気が失せてしまったのかもしれない。
私はこの監督の作品は『ビューティフル・ドリーマー』しか観たことが無いけれど、機会があれば有名な『イノセンス』その他も観てみたい。と言うか、とにかく「私が原作を知らない」作品が、一度観られたらいいなと思う。
日本でもディズニーみたいなアニメーションが出来ればいいのに・・・という子どもの頃の願いが、いつの間にかこうして叶いつつあるのを見ていると、なんだか信じられないくらいの幸運のような気がしてくる。
ただただ暑さに耐えているようだった、でもとても幸せだった、この夏が終わる。
私にとっては、夏はアニメーションの季節だ。県立美術館では、毎年名作アニメーションの特集企画があり、映画館で上映されるものと合わせて、今年も日本製・外国製取り混ぜて10本近く観せてもらったことになる。
その中で、私にとって個人的に考えさせられるところがあって、長い間「抱えて暮らした」作品の1本が、この『スカイ・クロラ』だった。
なぜ「長く抱えて暮らした」のかというと、このアニメーションの原作である森博嗣の同名小説に、私は一種特別な気持ちを持っていたらしいことに、映画を観て改めて気づかされたからだと思う。
森さんの小説は以前から好きで、私にしては沢山読んでいる作家の1人だと思う。けれど、この『スカイクロラ』シリーズ5冊(もっとあるかもしれない)については、全巻を読んだ訳ではないので、物語の全体像がまだ判っていない。
それなのに初めてこの映画を観た時、「これはあの小説とは全く別の物語だ。」という微妙にイヤな?感じ(としか言いようがない)が強くして、自分でもちょっと困惑した。
元々、映画と原作とは全く別物だと思うし、原作者の森さんもそれを承知の上で許可されたことなのだろうから、一読者、一観客としては「全く別の物語」でも一向に構わない。映画の方が小説より明らかに完成度が低いと、分かってはいても、ちょっとガッカリはする。しかし今回の場合、アニメーション作品としては作り手の真剣さがはっきり伝わってくる出来栄えで、メカニックなことにはさっぱり無知の私でさえ、「全力を出し切って作った」という迫力のようなものを感じた。
しかも、この映画に使われているエピソードの多くは、小説からそのまま取られている。映像面での空と航空機の描き方や全体的な「絵」の雰囲気も、小説の持つ独特のイメージに合っているように(少なくとも私には)見えて、違和感がないことなどから、一見このアニメーションは原作に非常に忠実に作られたもののように、原作のファンである私にさえ、見えてしまうところがあるのだ。
それなのに、どうしてこれほど強く「全く別の物語」だと感じ、しかもそのことで「困惑」までするのかが自分でも不可解な気がして、例によってあれこれ思いを巡らしている。(本当に、こういうことに限ってどうして「まあ、いいじゃない」と思わないのだろう。)
という訳で、手元にある『スカイ・クロラ』、『ダウン・ツ・ヘヴン』の2冊をもう一度読み直した。(『ダウン』の方は、ヒロインであるクサナギがまだ第一線のエース・パイロットだった頃の話だ。)その後、性懲りも無く更に、映画の方をもう一度観に行った。
そして、最初に感じた違和感は、私としては当然のことだったのだと改めて思った。以下にそのことを、少しでも整理しておきたい。
映画と小説で大きく異なって見えるのは、何よりもエンディングだろう。
けれど私から見ると、登場人物の設定や相互の関係がそもそも随分違っている。そのせいで、エピソードは同じものを使っていても、エンディングも含めて物語全体の描き出すものが、全く違って見えているのだ。
それが監督(や脚本家)の意図なのだから、映画の作り手と一読者の私とでは、「キルドレ」と呼ばれる「永遠に(思春期くらいのまま)歳を取らない子ども」であるパイロットたちに対して持っているイメージが、相当違っているということなのだと思う。
実は、小説の『スカイ・クロラ』はカンナミの一人称で書かれている。登場人物の中でも、エース・パイロットである若いカンナミのものの考え方、感じ方が、一番よく分かるように書かれているとも言えるかもしれない。
ともあれ小説では、「オトナから見たキルドレ」は殆ど描かれていないのだ。
元々、森博嗣さんという人は、子どもを単に「大人になる前の未熟な段階」とは思っていないように見える。小説の中にも「子どもみたいだ」という言葉を侮辱と受け取るには、大人になることが無条件に良いことで、子どもであることはそれに比べて何かが欠損していることだと捉える考え方をしていないといけない・・・などといった表現もあったと思う。
そして、当然のことながらキルドレ自身は、永遠にオトナにはならないことを元から運命付けられている自分自身のことを、「何かが欠損している前段階」とか、まして(オトナに利用されて)「痛々しい」だの「可哀想」だのとは、思っている筈がないのだ。
小説で鮮やかに描かれているのは(私の勝手な受け取り方だけれど)、「地上よりも空にいたい」「出来るだけ高く、長く、空を飛びたい」そして、「敵と一対一のダンスを踊りたい」という、ごく若い、しかも「飛ぶ」ことについて非凡な才能に恵まれた、やや特殊な戦闘機パイロットの姿だと思う。飛んでいる(そして敵と戦っている)時が自分という生き物の本体なのであって、それ以外のことは大したことではない・・・というような。
地上の現実はオトナの作っているモノなので、「なぜ」という理由を常に相手に要求する。
しかし、「永遠に歳を取らず、従って老いて死ぬことはあり得ず、しかも明日死ぬかもしれない」という日常を生きるキルドレたちにとっては、地上で言うところの「理由」などどうでもいいことなのだ。寧ろ、彼らはそういった「地上の鬱陶しさ」を、普通の思春期の人たち同様、明らかに嫌悪している。
また、「死」と隣り合わせにいることさえ、彼らにとっては大したことではない。彼らの現実では、「死」は「生」の隣に元々あるものだ・・・とでもいうように。
そんなキルドレたちの感覚は、小説『スカイ・クロラ』のエンディングによく表れていると思うので、少しだけ引用する。
「きっと、
彼女は生き返る。
僕だって生き返る。
繰り返し、僕たちは、生きることになるだろう。
そしてまた・・・・・・、
戦おう。
人間のように。
永遠に、戦おう。
殺し合おう。
いつまでも。
理由もなく、
愛情もなく、
孤独もなく。
何のためでもなく、
何も望まずに・・・・・・。」
押井監督は、こういうキルドレの姿が、現代の日本の若い人たちの姿に重なって見えたのだという。
「この歳(56歳)になって、とにかく人生を一回りしてきたような気がしている自分としては、今の若い人たちの閉塞感がとても気になる。大人として何か出来ることは無いのかと。せめて、僕らの生きているこの世界も、そんなに捨てたものじゃないってことを、若い人たちに伝えたいと思った。」といった内容のことを、インタビューで口にしておられるのをテレビでも見た。
そして、そういった監督の思いが、アニメーションと小説という二つの『スカイ・クロラ』を全く違うものにしたのだと、私は今思っている。
前の引用部分だけを読んでいると、もしかしたら「作り物のゲームとしての戦争」に命を賭けているキルドレたちの強がりや痛々しさの方しか、見えてこないのではないか・・・という気もしてきた。(興味をもたれた方は、どうぞ小説を丸々読んでみて下さい。)
私が言いたかったのは、小説の『スカイ・クロラ』からは、ある種の清清しさのようなものを強く感じるということなのだけれど、それがなかなか上手く表現できない。
簡単に言うなら、小説は「空」の、映画の方は「地上」の『スカイ・クロラ(空を這う人たち)』という感じがする。
小説はコドモの側から書かれ、映画はオトナの眼差しで作られている、或いは、小説は本人たちの言葉で、映画は見ている人たちのものの考え方、解釈の仕方で創り出されたと言ったら、まだ近いのだろうか。
そして、私はコドモの側の感覚、本人たちの言葉の方に、より強く惹かれるものがあるのだろう。だから、このただでさえ映像化の難しそうな、ほとんど詩のような小説をアニメーションにする企画があると聞いた時から、この清清しさをこそ、色と音のある「絵」にしてほしい・・・と、どこかで願っていたのかもしれない。(それがとても難しいだろうということは、素人の私にでもよく分かっていた筈なのに。)
実際には、小説の映像化それ自体は、驚くほど上手くいっているように見える。「困難」だったのは寧ろ、小説の世界観(倫理観?というか、本来の意味での「反社会性」??のようなもの)を、そのまま映画のストーリーに反映させることだったような気がする。
「理由もなく、愛情もなく、孤独もなく・・・」というあの小説をそのままアニメーションにしたのでは、多くの観客は望めないということに、もう少し早く気がつけば良かった・・・と、今となると自分でも可笑しくなる。アニメーションは「売れなければ次は無い」世界らしいのだから、若い脚本家(26歳の女性)がラブ・ストーリーにしてしまったのも無理ないことだったのだ。(それがどれほど「キルドレ」からは遠いことであったとしても。)
以前、宮崎吾朗監督・脚本のアニメーション『ゲド戦記』を観た時、私は宮崎監督の「今の若い人たちに希望を与えたかった」といった意味の言葉に、唖然とした記憶がある。「希望を与えたい」なら、オリジナルな脚本で作ってもらいたいと、あの小説を大事に思っている私は、珍しく本気で腹が立った。背景の絵は、いつものジブリ作品のように美しかったけれど、アニメーションとしての迫力も魅力も、私にはなぜか感じられず、作品の完成度の低さ!(エラソ~な言い方だけれど、本当にそう感じた)が余計に怒りを掻き立てた。
しかし、今回の『スカイ・クロラ』については、ああいう不愉快さは感じない。(相当人物設定が変えられているのも、セリフやストーリーのどこか「オジサン」的感覚も、そもそも原作を知らなければそれまでだ・・・などと、諦めてしまえる。)
とにかく押井監督は、無彩色だったあの小説『スカイ・クロラ』の世界に、非常に美しい色彩と音楽(特にオープニング)を与えた。微妙な効果音や会話の間の取り方・・・といった、「音」についての細かな気の配りようが、観ている私にもよく判った。また、私の頭では想像のしようもないプロペラ機の数々を、現実に目の前に見せてくれた。それらの飛ぶ姿、撃ち、撃たれ、爆発して「上へ上へと落ちていく」姿を。
「空の美しさと飛ぶことの爽快感が上質のアニメーションとして見られたら、もうそれだけでいいや。」程度の気持ちで観に行った私にとって、それらは、ただそれだけでも、ストーリーの違和感とは別のところで、私を感動させる力が十分あったのだと思う。
書き始める時には、自分が何を言い出すか(罵詈雑言とまでは行かなくても、文句タラタラ・・・の可能性もあったので)ちょっと見当のつかなかった今回の記事が、こういう褒め言葉で終われるのが、自分ではとても嬉しい。
映画が好きな私は、出来るなら腹を立てたり、文句を言ったりしたくない。(それも、大好きな「アニメーション」についてなので、尚更。)そんな悲しくなるようなことはしたくないのだと思う。
もっとも書いている間中、あのいかにも人前で(それも作品の宣伝用の)話なんかしたくなさそうな押井監督が、我慢強く?インタビューに答えている顔が浮かんできて、文句を言う気が失せてしまったのかもしれない。
私はこの監督の作品は『ビューティフル・ドリーマー』しか観たことが無いけれど、機会があれば有名な『イノセンス』その他も観てみたい。と言うか、とにかく「私が原作を知らない」作品が、一度観られたらいいなと思う。
日本でもディズニーみたいなアニメーションが出来ればいいのに・・・という子どもの頃の願いが、いつの間にかこうして叶いつつあるのを見ていると、なんだか信じられないくらいの幸運のような気がしてくる。
ただただ暑さに耐えているようだった、でもとても幸せだった、この夏が終わる。
いちおう書いたんだけど。
何を書いたのか自分でも意味不明の文章になっちゃったので、消しちゃいました。(;^_^A
またいつかお会いできた時、話しますね♪
しかし、私は押井さんの作品をほとんどまともに見た(読んだ)事がないのだと気付いたのは収穫でした。v(^o^)v
ありがと~う♪
私はほんとに、あんまり押井作品を知らないんです。賛否両論あるというか、好きなヒトと好きじゃないヒトと、分かれる監督さんらしい・・・って、漠然と思ってただけで。
この次お会いした時が楽しみです(わーい)。
忘れない!で、お喋りしましょうね~。(この頃、それが一番心配。)
読んで頂けて、とても嬉しいです。
原作、ぜひお読みになって下さい(森博嗣ファンのセリフ)。
アニメーションとはまた違った面白さがあると(私は)思います。
来て下さって、どうもありがとうございました。
初めて来られた方と間違えました。
ゴメンナサイ。(で、合ってますよね?(笑))
スミマセン。でもこれからは、〓を(目が)テントウムシに変換して見ると思います(笑)。
何気な~く
》》サリンジャーお好きなのですか""
す、すごい!!
良いアンテナをお持ちですね~(驚嘆)。
>》》サリンジャーお好きなのですか""
若い頃、とても好きでした。
引っ越しを繰り返した間、本棚1本分だけ選んで、残りの本はどんどん処分しましたが、『ナイン・ストーリーズ』は長い間「本棚に残す」方に入っていました。
実は『スカイ・クロラ』は、文庫の表紙が美しかったので、病院の売店かどこかで、珍しく衝動買い?した本だったんです。
扉のサリンジャーを見て、一瞬時が止まった??気がしたのを、頂いたコメントで思い出しました。
(^o^)要するにこの方はサリンジャー信奉者ってことですね♪
‐‐‐‐‐‐‐
》》唯一の問題は、なんのために生きるのかということ。ぼくたちは神に祈るか、それとも戦争をするか、そのどちらかを選択しなければならない……
‐なかなかGOODな件もありますね""""""
しかし、あまり新鮮味は感じませんでした…
〉〉ゴメンナサイ〉〉 (^。^;)
デモ映像はすばらしいんだろうてことは予想出来まヨ。
PRODUCTION-IG制作でシヨ!サラニ◆音楽◆川井憲次ですからね~♪
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