(今回の記事は、いつも以上に「何が何やら」で「ダラダラ長い」代物です。自分のアタマの整理のために書いているので、スルーして下さって構いません。)
いつものことながら、調子が悪くなってくると「何事にも興味が持てない」日々がやってくる。ここしばらくは、映画を観たいという気持ちも全然起きない。
こういう風に、「世界が(それまでとは)違って見えてくる」感じが、昔は本当に嫌だった。
カラー映像がセピア色を通過して、粒子の粗いモノクロになっていく。またか・・・と思う。どこまで行っても、いつまでたっても、私は結局こうなんだな・・・と。
ただでさえ物事を悪い方に取りやすくなって、そのせいで「虚しさ」を感じやすい時期なんだと、もちろんアタマでは解っている。それでも、長年にわたってただただ同じことを繰り返している自分という人間に、毎回のように愛想が尽きかける。
「でも、歳を取った分 良くも悪くも極端なコトは起きなくなってる・・・」と、私は自分に向かって呟く。かつてのように「耐え難い」と思うほどの苦痛を感じることは、いつの間にか無くなった。それはそのまま家族にも影響することなのだから、今こうして穏やかな波(好不調)で済んでるのは、とてもありがたいことなんだと。
私が抱えていたさまざまな事柄、その中には自分である程度意識して持って来たものも、知らない間に背負わされてしまったモノもあったけれど、僅かずつではあっても、これまでにずいぶん整理されたのだと思う。(このブログでも以前書いたけれど、50歳を過ぎる頃から、私は少しずつ「楽になってきた」のを実感している。そういう意味では、今の私は10年前の私とはほとんど別人だ。)
けれど今回の「不調」の波は、そういったこれまでのモノとは違うもののような気が、私はしているのだと思う。
気晴らしに何か書こうとしても、何も書けない。何も感じない?のか、単にアタマが働かないのかもヨクワカラナイ。それなら「考えずに書ける」コトを、取りあえず書き始めてみよう・・・そう思った。これまでに書いたこととも重複するかもしれないけれど。
今年の1月、母が亡くなった。本当に急なことで、たまたま誰も傍にはいなかった。
去年の暮れにガンが見つかった際も、本人は積極的な治療を望まず、そもそも「長生きしたいと思わない」と昔から公言している人だった。それがおそらく口先だけのものではないことを、同じような感覚を共有?する私も姉も感じていたので、なるべく本人の望む通りにしてあげたいと思っていた。
1ヶ月の入院中に、遠くに住む孫たちや生まれたばかりのひ孫にも会うことが出来て、母は嬉しそうだったという。80歳を目前に、それなりに「大往生」だったのではないかと、残された者は皆後から口々に言い合った・・・そんな最期だった。
お通夜、お葬式・・・そして四十九日に、母の故郷の菩提寺の墓に遺骨を納めることが出来たとき、全てを取り仕切ってきた義兄は、「ああ、本当に・・・ほっとした。」と、漸く肩の荷が下りた様子で笑顔を見せた。姉は身動きもままならぬ病人で、私は長年遠く離れた土地にいて、入院以来まだしも近くに住む義兄と甥が、すべての世話をしてくれていた。
生前は、「40年以上にわたるつき合い」というお友だちが、本当に親身になって面倒をみてくれていた。母が病気で入院する際は、一緒に泊まり込みで看病してくれたほどだった。亡くなった後は、母とは必ずしも上手くいっていたとは言えない義兄が、「ヨウコさん(母の名前)にワカリマシタって言っちゃったからなあ(苦笑)。」と、法事だけでなく色々な相続関係のことまで、多忙な合間を縫って片付けてくれた。
母は、あの世代(昭和一ケタ生まれ)がおそらく誰しもそうであるように、若き日に戦争の影響をモロに受け、それでもその後の長い人生の荒波を、私などには信じられないほどのエネルギーでもって、泳ぎ渡ってきた人だった。災難にも出遭い、思うにまかせぬ苦労が多々あったとしても、それでも父や周囲の人たちに大切にされ、幸せな一生だったんじゃないかと、娘の私は思っている。
ときどき電話で聞く話からは、母がそれなりに楽しんで暮らしている様子が窺えることが多かった。たとえ私に気を遣って、悪いことは聞かせないように・・・としてくれていたのだとしても。55歳で父と死に別れた後も、母なりの人生を自分で作り上げているように見えた。良くも悪くも、彼女流の「人に寄りかからない」「人のせいにしない」やり方で。
ただ・・・今こうして振り返ってみて、改めて気づいたことだけれど、私が母と「一緒に暮らした」と言えるのは、母の79年の生涯のうち、ほんの10年ちょっとのことだ。
母の人生の大半を、私は傍では見ていない。だから、今となるとおそらくは私が一番、母の“実像”を知らない。
私以外の人たちは、(良くも悪くも)日々母と顔を合わせ、母と共に歳月を送り、歳を重ねてきている・・・私はそのことを、これまであまり意識してこなかった。数々の具体的な記憶(思い出)を母と共有した人たちにとっては、母はまさに「実像」であって、母の死は現実の出来事そのものだろう。
けれど私にとっては、40年前に実家を出て以来、母は少しずつ「実像」ではなくなっていった。私が京大の精神科に入院した後、結婚した時には既に、両親とも私にとっては「実像」ではなくなってしまっていた。
その後の30数年、向こうから見る私は「実像」(生きている実の娘)なのだとしても、私自身は自分のことを、両親にとっては「亡くなった娘」なんだな・・・といった風に感じてきた。この十数年、月に一度母にかけていた電話の際も、ふと「天国と地上で電話してるようなものなんだろな・・・」などと思ったりした。
母には、私の現実の話は一切しなかった。母も「みんな元気?」と聞くだけで、「元気よ。」と答えるとそれ以上は訊いてこなかった。 あとはずっと、母の近況報告を私が聞くだけだった。
でも・・・私はそれを楽しんでいることも多かったと思う。 毎月電話したのは、決して義務感からだけではなかった。
私は小さい頃から「おかあさんっ子」だった。母は日々あまりにヒステリックに怒るので、恐ろしかったり困らせられる人ではあっても、 私は決して嫌いにはならなかった。
お洒落で、さまざまなことにセンスを感じさせる「ヨウコさん」という人を、私は幼い頃もオトナになってからも、それどころか母が70代のオバアチャンになってからさえ、眩しい思いで見ていた気がする・・・今こうして書いていて、つくづくそれがわかる。
父が亡くなった時もそうだったけれど、今回も、私は母の死の実感が無かった。悲しみと言うほどのものは感じない。急なことだったので驚いたけれど、ショックではなかった。「亡くなった娘」である私は、両親のどちらとも、現実の死の前に“死別”に相当するような別れを経験してしまっていたのだろうか。
ただ、母のことを気安く話せる相手が誰もいないのが、ちょっと寂しい気はした。姉とは母の思い出話を「なんでも思う通りに」話すことは出来ない。姉にとって母はそんな「いい思い出」の相手ではないことを、この数年、私はさんざん聞いてきている。そして・・・私の血縁というのは、もう姉ひとりしかいないようなものなのだ。
私は父のときと同じく、母の死も自分の内側に抱えているしかなかったし、それがあまりに当然のことなので、特に疑問も感じなかった。
それでも、なんとなく母の話がしたかったのだろう。私は独り言のように、上の息子に言ったことがある。
「私は、私のお母さんが好きだったのよ。おかあさんっ子だって言われてた子どもの頃だけじゃなくて、オトナになってからも。」
彼は、大きく何度も頷いて言った。
「わかってるよ。好きだからこそ、離れたんでしょ。それ以上近くにいると、嫌いになるのが目に見えてたから。」
あまりにあっけらかんと、当然のことのように言った彼に、私は驚いたのだけれど。
彼は続けていった。
「それにしても、元気だったからな~バアチャンは。こっちが元気じゃないときは、この人どうしてこんなに元気なんだろうって(笑)。でも、あの元気さが・・・僕は好きだったな。」
あれから、もうすぐ半年。
今も母の死の実感は湧かない。生前と同じ、「母の顔を見ることのない」毎日が続いている(言うまでもない、当然のことだ)。
それでも、何かの拍子に母を思い出す。
たとえば、取れたボタンをつけ直すために小さな裁縫箱を取り出したとき。(母は裁縫が上手で、私は学生の頃もよく自分で布地を買って来て、スカートやパジャマを作ってもらった。)
たとえば、手元にある材料だけで料理を「でっち上げる」必要に迫られたとき。(母は何事によらず手早い人で、料理はその最たるものだったかもしれない(笑)。)
たとえば、『バス停留所』のM・モンロー、『ローマの休日』のA・ヘップバーンを、どこかで見かけたようなとき。(母はこの二人がとても好きだった。映画の好きだった父と、一緒に観たことがあるのかも。)
たとえば・・・たとえば・・・挙げ始めると、不思議なくらい次々出てくる。
こういうことは勿論、母の生前もよくあった。なんでもない日常の些末なことで、一瞬、母のことが頭を過ぎる。それは特別な感慨でもなんでもなくて、ほとんど習慣的なものだった。
けれど、母が亡くなってからは違う。そうして母のことが浮かぶたびに、毎回即座に、私は思う。
「あ、そうか・・・もうあの人はいないんだ。」
20年以上前の父のときも、同じような瞬間はあった。
それは「父がもういないのだ」ということを感じる、ほとんど唯一の瞬間だった。それ以外のとき、私は自分の日常(幼い子を連れてあちこち引っ越しを重ねる生活)だけで手一杯で、父のことなど忘れていたと思う。
「悲しむ」機会も時間も無いままに、父の死はいつしか遠い出来事になっていった。
今はもう、私には「忙しい日常」など存在しない。子どもたちは大人になり、引っ越すこともなくなり、健康上の都合もあって、スケジュール表はほとんど空白、人間関係からも身を引いて、ほとんど家から出ないような生活をしている。
だから余計に、母を思い出す瞬間が多くなるのだろう。それはそれで、自然なことかもしれない。それでも大抵は、「あ、そうか・・・」というだけのことなのだから。
ただ、それでも・・・時として自分の「調子が悪い」と、それはほとんど叫びたいほどの思いになることもある。
なぜあれほど徹底して、故郷から遠ざかろうとしたのか。大人になってからも、自分の内側にあるモノを両親に見せずに、「守る」ことを続けてきてしまったのか。そうする以外に方法が見当たらないと思い込んできたのか。
過ぎた時間は戻っては来ない・・・と、私の内側の「何か」が叫ぶ。
それは、私がそうして長年守ってきた「何か」と同じモノなのだろうか。そうまでして守ってくれなくても良かったのだと、今になって伝えようとしているのだろうか。
私の不調が続いているのを、息子たちが心配してくれたらしい。兄貴に「何かあったのかなあ・・・」と言われた弟の方が、そっと私に訊いてきた。
「特に何も無いんだけど・・・」と言いながらも、母のことを話し始めたら止まらなくなった?私の言葉をじっと聞いた後、彼は静かな声で思いがけないことを言った。
「・・・それはもう物語だから、何か書いたら? ブログみたいに一つで完結するようなものじゃなくて・・・エッセイかフィクションか・・・とかは、僕はワカラナイけど。」
“物語”というのは、多分彼にとって最上の言葉の一つなんだろうな・・・ということが、なんとなく伝わって来る言い方だったのにも、私は驚いたのだと思う。気がつくと、口が勝手に返事をしていた。
「そうね。“物語”・・・それもいいかもしれない。 考えてみる。」
それからずっと、どこかでソンナコトを考えている自分を感じるのだけれど・・・まだ海のものとも山のものともつかない。イメージも何もない、ただただ漠然とした何かを、またまた抱えてしまっただけなのかも。
「不調」も「虚しさ」も「映画を観たいと思わない」のも、そのままずっと続いている。それでも、ここまで書いてみて、なんだかほっとしている自分もいる。
あてのない旅に出るような気力が、私に本当にあるのかなあ・・・。
ムーマさんのお母様の事、物語にしたら?と言った息子さん、ステキですね!!
ムーマさんだったら、きっと何か、物語が書けると思います(*^o^*)
楽しみにしています!!
読んで下さって、どうもありがとう(^o^)
「物語」なんてカッコイイ言葉、まさか自分のことに使うことがあろうとは・・・デス。(^_^:
どんなモノになるのやら、自分でも目下見当もつきませんが、
いつか(ほんとに長~い目で見ての「いつの日か」)
何らかの形になったらいいな~って、今回初めて思いました。
若いヒトたちには、日々本当に助けられています。
でも、親の片方(私)がこんなヒトじゃなかったら
彼らはもっと(自分たちのことだけ考えて)重荷の少ない人生になったんじゃないか・・・
と思うことも、ままあります。
それでも、過ぎたことは過ぎたこと。
取り返しのつくようなものではないと思うので、なるべく前だけ見て、今(の幸せ)を味わって生きていけたら・・・と思います。
ステキって言って下さったこと、息子に伝えますね。(テレるかな~(^_^:)
あれこれイロイロ、「どうもありがとうございました」(^o^)。
私も子供の頃は母親っ子でしたが、
思春期が来て成人した頃には、エキセントリックな母が大嫌いで、
でも誰より母を心配する娘であるという、
複雑な関係でした。
私は母の心を慮って、その感情を表に出さなかったので、
母は堂々と自分たちは一覧性母娘だと嬉々としているという、厄介さでした(笑)。
お母様の事を今のお気持ちで見送れるムーマさんが羨ましいです。
40年は伊達じゃないですね。
私の母は、私がまだ30前の55歳で無くなりました。
私は人格障害だった母が亡くなった時は、
正直ホッとしたというの本音だった、親不孝ものです。
精神科に勤めて一年半、先生から人格障害は薬はないけど、
年齢が行くとマイルドになって、普通になる人が多いと聞きました。
母もムーマさんのお母様くらい頑張ってくれていたら、
私も今頃悪口言わなくて済んだかな?と思います(笑)。
そういえばケイケイさんも、以前お母様のこと書いてらっしゃいましたね。
確か妹さんもおられたような・・・。
うちの姉はケイケイさんと似た立場だったんだな~って
書いて下さったの読みながら思いました。
姉も「エキセントリックな母が大嫌いで
でも誰より母を心配する娘であるという、複雑な関係」だったんだと
今となると、妹の私にもよくわかります。
父が亡くなってからは、姉は(母を案じて)夫を説き伏せ
わざわざ実家の隣に家を建ててまでして、近くに暮らすようになったのですが
それがかえって母との関係を悪化させる結果になったようです。
ソモソモうちの場合、母は娘家族が近くに住むことを
とても嫌がっていました。
「見えなくてもいいモノが見えすぎる」から良くないと反対するのを
姉は母の強がりだと思ったんでしょうね。
ケイケイさんが姉の立場だったら、母の本心を感じ取って
絶対に家なんか建てなかっただろうな~って、
なんだかシミジミしてしまいました。
姉はこの数年、母とは文字通り「断絶状態」でしたが
亡くなって半年の今は、以前より病状(内科的・整形外科的・精神科的)もマシ?になって
落ち着いて暮らせるようになってきたと
最近、義兄から聞きました。
親不孝なんじゃなくて、孝行娘だったからこそ
母の死にホッとしたんでしょうね。
出来ることは全てやり尽くしたという感じで。
30前の若さでも、ケイケイさんも
そういう風に感じておられるところがあったんじゃないかな・・・なんて勝手に想像します。
18歳で、直観的に(進学を)最初で最後の機会と思い
必死に逃げた妹の私とは全然違う、母と姉のその後の人生を
ケイケイさんの言葉で色々考えさせられました。
読んで下さって、書き込んで下さって
本当にありがとうございました。(^o^)
悲しみや喪失感より、衝撃の方が大きくて、深い思いというものを感じないままここまできました。
ムーマさんは、ここまで大変だったとわかっているのに、それでも、こんなに深い思いを紡げてうらやましいなと思ってしまった。
母が、長生きしていたら、私たちはどんな母娘になったんだろう
と重いながら、読みました。
物語、是非書いてください。
ふと「紀ノ川」なんて、思い出しましたが、古いですね(笑)
長いですね(笑)
更新楽しみにしています。
はにわさんのお母様は、今思うと(当時の私なんかが感じていたよりずっとずっと)本当にお若かったんですよね・・・。
あの時は外野の私たちもショックで、他人事とは到底思えなくて、もうみんなしてウロウロオタオタ、ひやひやハラハラ?してたのを思い出します。
お母様が長生きなさってたら、はにわさんはソックリだったんじゃないかな・・・なんて、想像したこともあります。
学生時代にお会いしたときのお母様の雰囲気を、その後はにわさんから感じることが、時々あったりするので。
「今生きてたら、一緒に温泉に行きたいわ。」ってはにわさんが言われたときには、本当に羨ましい気がしました。
私と母の間では、全然浮かばない光景で・・・でも、はにわさんとお母様が、温泉地の旅館で浴衣姿で寛いでおられる風景は、とっても似合って見えたんです(本当)。
余計なコトばっか書いてスミマセン(^_^:)。
自分では、今母について感じるものが「深い」思いだとはとても思えないんです。
どちらかというと散漫な感じ。大抵は、あれこれチラッとアタマを掠めるだけで。
だから「物語」といっても、「紀ノ川」なんてトンデモナイ!(近所の小川も到底・・・(^_^:))
ただ、息子がそういう言葉で表現してくれたのを聞いて、なんだか救われるモノがあった・・・それが一番大きかったんだと思います。
それでも、もしも何か形になるなら、母親と娘・・・とかいうよりは、いくつになってもヤンチャ坊主(坊主はヘン?)みたいだった「ヨウコさん」のことを、いつか「物語」に出来たらいいな~と。
そんなことをボンヤリ考えたりもします。
何にせよ気の長い話なので、どうぞのんびりおつき合い下さいマセ。
コメント書いて下さって、本当にありがとうございました(^o^)。
つくづく親子て不思議ですね。息子さんが余りに優しいので羨ましいぐらいです。私の母はまだ健在ですが
まだまだ自分の中で整理がつかず生きていてもらわないと困ります。今思うと私に子供がいないせいかもしれませんね。素敵な陽子さんの一日をフィクションでかいてみてはどうですか。楡家のような長編もいいですね。
しばらく、思い出に浸った方が体にいいと思います。そのための思い出だから。
「一日」をフィクションで・・・っていうの、いいですね。
もしかしたら私でも書けるかも・・・なんて
ちょっと希望が湧いてきました(^o^)。
それに・・・
「しばらく、思い出に浸った方が体にいいと思います。そのための思い出だから。」
なんだか目からウロコが・・・です。
さすがイエロー・フロッグ・フィッシュさん♪
考えてもみなかった、優しい言葉をありがとう!(^o^)
ご両親の健康と長寿を、心からお祈りしています。
(ついでにフィッシュさんも私も、元気で長生きしましょうね(^o^)。)
長々しいの読んで下さって、書き込んで下さって
本当にありがとうございました。
この日記をうっかり見逃していました。
その後、7月2日に父が亡くなった後は、
ファザコンの妹とエキセントリックな母のバトルに巻き込まれ、
私は泣くひまもないまま、このところやっとバトルの鎮静化の兆しが見え、
「そうか、もういないんだ・・・」と思うことが増えてきました。
母と密着しすぎては愛憎をあらわにする妹とちがって、
私は母から上手に逃げたクチなんですけど、
ムーマさんのように母を好きではいられず・・・。
とくに妹に対する母の仕打ちを知ってからは
どうしても冷ややかな眼で見てしまいます。
それこそ見えなくてもいいものを見過ぎてしまったかも。
ムーマさんのお母様はお幸せですね。
それと素敵な息子さんをお持ちのムーマさんも!
お父様のこと、TAOさんの日記で知ったときは驚きました。
何か一言でも・・・と思ったのですが
何も書けなくて失礼してしまいました。
以前、お母様が入院なさった時のTAOさんの日記に描かれていた
お父様の姿が思い出されます。
遅くなりましたが、ご冥福をお祈りいたします。
TAOさんも(ケイケイさんのように)「姉」の立場なんですね。
私は妹(末っ子)だったので、自分で覚えている以上に
母に可愛がられ、気を遣って?貰えたんじゃないかと想像します。
おかあさんっ子になったのも当然です(^_^:)。
私の眼には、TAOさんはとても優しいお姉さんに見えます。
私もこの数年、姉の話を聞いて
肉親同士の愛憎のムズカシサを痛感させられたので
TAOさんに、「鎮静化」の兆しが・・・とお聞きして
(関係ないのに、ついちょっとだけ)・・・ホッとしています。
まだまだ後片付けなどがあって、大変かもしれませんが
どうぞご自愛下さいね。
こんなトリトメモナイ記事を丁寧に読んで下さって
そして書き込んで下さって、本当にありがとうございました(^o^)