眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

楽しい夢

2007-11-05 19:11:34 | 人の記憶
私の父は大正15年の春、男ばかり3人の兄弟の、歳の離れた末っ子として生まれた。8ヶ月の未熟児だった彼がそれでも何とか育ったのは、当時としては相当幸運な部類に入ることだったらしい。

色白に大きな目、8か月で生まれた華奢さもあって、「女の子が欲しくてたまらんかったお袋が、ほんとに頭もオカッパにして、女の子の格好をずーっとさせた。」と、父は憮然として言っていた。目の前の四十男の父と、「ほんとに女の子に間違えられたり」した可愛い少年(少女?)がどうしても結びつかなくて、小学生の私は困惑した。

父はそういう四方山話を、食卓でも居間での家族の団欒の際も、気楽に口にする人だった。もしかして、あの世代の男性としては、オソロシクお喋り好きな人だったのかも知れない。

「西洋では、食事っていうのは『会話』を楽しむのもその重要な一部なんだよ。」とか、「キミたちは、あんまりにも静かに食事をするから・・・。そういうのが良いっていうような行儀作法は、オカシイんだ。」などなど、真剣に妻や娘たちを教育?しようとした当時の父の言葉は、今もよく覚えている。

「これは夫婦喧嘩なんかじゃない。ディスカッションなんだ。」とか、「女の人も、自分の意見をはっきり男に言うべきなんだよ。」などというのは、母と明らかに口喧嘩になっている時でさえ、大真面目で言っていた。確かに父の方は感情的にならずに、相手の言うことを聞いてから自分の意見を言う。が、母の方は「また始まった。勝手に言ってなさい。」と、怒り疲れてげんなりした顔に書いてあるのだ。コドモの私は、母の口から放たれる言葉の激しさになんだか途方に暮れながらも、父のことを「変わったヒトやなあ。」などと思ったりもした。

そういった明るく開放的な雰囲気は、父の生涯を通じて変わらなかったと思う。父はその場に自分以外の人が居る場合、決してその人を無視するようなことは無かった。その場の全員がそれぞれ出来るだけ楽しく居られるようにという心遣いを、無意識のうちにしているようなところがあって、周囲を切り捨てて自分の中に閉じこもっているような父の姿は、まず見ることが無かったと思う。


そういう父が、「戦争」のことを口にするときだけ、目の前の相手ではなく自分の中の何かを見ているような表情になるのに、私が気づいたのは一体いつ頃からだろう・・・。


例えば家族で散歩に出たりした時などに、何度か父が口にした言葉がある。

「あの戦争が終わってからの僕の人生は『余生』なんだ。」

その場に居た人たちがなんと答えたのかは思い出せない。ただ、私自身は当時まだ小学生だったが、父の言わんとするところを、おそらく父が想像もしていないような理由で「なんとなくワカル」気がしたのを覚えている。当時既に「自分はこの世界には属していない」という感じが当たり前になっていた私は、父の言う「余生」もこんな風なモノなのかな・・・などと、漠然とコドモなりに感じたのだ。

勿論、言葉に出来るような理解の仕方ではなかったので、私は何も言わなかった。ただ、この時の父の表情とそれとは釣り合わないような淡々とした口調は、私の心のどこかで、父のイメージを決定したような気がする。

この人は、何か深い傷とか悲しみとかいったものが心の大きな部分を占領しているのに、それを大したことではないかのように、いつも通りの真面目な顔で、淡々と人前で口にする。言ってることの深刻さと言う時の本人の様子がアンバランスな感じで、聞いてる方は何て答えていいか判らなくて、ドギマギするのに。自分の中になんだか自分でもよくワカラナイ「秘密」を隠したまま、どうすることも出来ずに生きている私とは違うけど、でもこの人も、普通の人にとっての「人生」とは違う次元で生きることになってしまった人らしい・・・とでもいうような。


一方で、一般論としてあの戦争に関する話が出た際の父の態度は、「何も知らない」で戦後の平和の中にのほほんと生きているように見える娘たちに、重要な歴史上の知識として知っていてもらいたい・・・といった真剣な意志を、どこかで感じさせた。

私は、そういうときの、妙に厳しく客観的であろうとするかのような父の表情が苦手だった。叱られている訳でもないのに、なんだかお説教されているような気分になることもあった。今から思うと、「必須の治療を受けさせられている、病気の子ども」にでもなったような、抗うことも疑問を口にすることさえも出来ないような、有無を言わさない圧力のようなモノを感じていたような気がする。実際は、公平な父は疑問も反対意見も、きちんと受け止めてくれていたのに、どうしてそんな風に感じたのだろう・・・。


もっとも、父は自分の事を何でも口にしているように見えて、実は殆ど触れない事柄もあったことに、私はずっと後になって気がついた。

父の兄の1人が、敗戦直後に自殺した(『「洗脳」という嵐』)というのは、他の人たちの話から漏れ聞いたもので、父からその時のことを具体的に聞かされたことは無かったと思う。父自身自殺を図ったけれど死に切れなかったという話も、本人の口から何度か聞いたけれど、それについての詳しい事情も直接は聞いていない。亡くなった伯父と同じような理由からだったのかどうかということも。

ただ、いつどんな話の成り行きからだったか、父は志願して入隊したのだと知って、驚いたことがある。本人に確かめた時、あれほど正直に自分のことを話したがる人が一瞬困った顔をしたのが印象に残った。このことについては、文字通りひと言も、父からは聞くことが無かった。


戦後、父は学校に戻り、「子どもの頃からの望み」通り医者になった。「どうしてお医者さんになったの?」という私の問いに対して、父は小学校6年間で13回肺炎になったという話をしてくれて、子供の頃にそれほど体が弱かったのが大きな理由だったと答えた。

「あの頃の肺炎ってのは、今みたいにウィルス性の軽いヤツじゃない。抗生物質もまだ無い時代だから、出来るのは部屋を暖めて、ヤカンにお湯を常時沸かして、あとはカラシ湿布くらいのもんや。そんなのベタッと胸に貼って、あとは『薄紙を剥ぐように』って言葉あるやろ、まさにあんな感じで治るのを待つ。大体、肺炎に一回罹ると、治るのに2ヶ月くらいかかったな。」

「1年に2回もそんなことしててみいや。学校の勉強なんて全く分からんがになる。オレは頭が悪いんやって、深刻な劣等感持ったなあ。」

そういう訳で、兄(伯父)のように親の意向や長男としての責任感からなったのではない、自分は「なりたくて」医者になったのだと父は念を押すように言った。


その後、生理学教室の「無給医局員」だったり、腹部外科の研修に行ったりしている間に、母と見合いで結婚した。二人の子どもが生まれてからは、一人娘だった母の実家の医院を継ぐことになった。

「開業するなら、事故とか怪我を扱うだろうから、整形外科の知識が絶対要ると思った。あの頃はまだ新しい分野だったから、教えてくれる場所も限られてて、わざわざ大阪まで『修行』に行ったんやけど、とにかく早く帰らなあかんからって、もう必死で勉強した。」

「オレ、ナマケモンやから、あんなに勉強したんは一生にあん時だけかもしれんなあ。」


父の医院は順調にいったのだと思う。7年間の開業医生活の間、父は本当に多忙だった。日中の患者さんの数も多かったが、それ以外に夜間や休日でも救急車で担ぎこまれる人たちで忙しく、それは手伝っていた母も同様だった。

「このままでは家庭が無くなる」と母が言い出したのだと、流行っている医院を閉じる決心をした理由を、後に父はそう説明した。だが、父の側にもきっかけになるような出来事があったらしい。開業を止める当時、小学生の姉と私に父がした説明はこうだった。

「僕はずっと、弱い立場の人、本当に困っている人のためのお医者サンになりたかったんだ。」

詳しいことは、もう少し後になってから聞いた。

「ある時、子どもが風邪を引いたって、女の人が子どもを連れてきた。」

「それがなあ・・・とにかく見たことも無いような子どもなんや。オレ、脳性麻痺の子どもなんて、それまで学校でも病院でも見たことなかった。そもそも学校でも教わらんし、教科書に書いったったって覚えも無い。」

「オカアチャンは判るんやな、風邪やっていうことが。だから医者に診せにきたんやけど、医者のオレは何していいかも判らん。じゃあ取り合えず喉でも見ようって、口開けてもらおうとしたら、これが全然開けようとせん。困ってなあ。」

父は当時を思い出してか、ため息を吐いた。

「今なら解る。アテトーゼ型のCP(脳性麻痺)は、筋肉が不随意運動するから、どっちかっていうと反対の動きになるんや。あの子は一生懸命口開けようとしてくれたんやけど、そう思えば思うほど、口は反対に閉じてしまうんや。でもそんなこと、あの頃は知らんかった。」

「その時のことがショックで、福井(県庁所在地)の肢体不自由児施設いうのを探して、休みの日に訪ねていった。そこで初めてそこの医者に、CPがどういうもんかとか、こういう分野に来る医者がどれほど少ないかとか、色んなこと聞いた。まあ、確かにこの時のことも、開業止めたのと関係あるといえばあるかもわからんなあ。」

父があの時私たちに言った「弱い立場の人」「本当に困っている人」というのは、この親子のような人のことを指していたんだ・・・と、その時は単純に思った。

しかし、さらに時が過ぎ、父の晩年になって初めて、私は父の言った「弱い立場の人」というのが本当は何を指していたのかを知った。



何の話から始まったのだったか、金沢の家のどの部屋でだったかさえ、私は覚えていない。ここまで覚えていないということ自体、私としては珍しいことで、ただ父の話の内容だけが鮮明に記憶に残っている。

戦後間も無い、自分がまだ医学生で、実家は預金の封鎖その他で困窮し「竹の子生活」を余儀なくされていた頃のことを、その時父は話していた。

「自分らも働かなきゃって訳で、友達とアイスキャンデー売ったり、進駐軍の宿舎用の本格的なプール掘りに行ったり、あれこれやったけどそんな中に、舞鶴まで行くアルバイトがあった。学校に募集が来てたんで、自分も行ってみた。」

「舞鶴にはその頃、大陸から引き揚げてくる人たちが大勢居た。そこで自分らが何をするんかは、向こうに着くまで知らんかった。」

「行ってみてびっくりした。仕事の内容っていうのは・・・」

父は声を落として、話し方もゆっくりになった。私たちが聞き漏らしたり、誤解したりすることが無いよう、注意深い言い方で話を続けた。

「まず、引き揚げてきた人の中から、14歳から45歳(と父は言ったと思うが、違っているかもしれない)の女の人だけ別にして、一人ずつ部屋に呼んで、書類を作るのに協力してもらう。」

「書類っていうのは、その人に妊娠しているかどうかを訊いて、もしそうなら産む意志があるかどうか訊いて、その意志が無い場合は中絶できるように取り計らうためのものだった。」

父は例によって平静な顔だったが、それでも真情を感じさせる眼でこちらを見ていた。

「僕は本当に、泣きながら仕事をした。」

「そして、そのとき本心から思った。僕は『弱い立場の人のための医者』になるんだと。」



そうして開業を止めた後、父は金沢に引っ越して、小児整形の勉強を大学でしながら、肢体不自由児施設に勤務することになった。

「なんも知らんもんやから、大学の医局では若い人に次から次へとモノを訊いた。とにかく恥のかきっぱなしなんやけど、そんな事言うてられん。ほんまに四十の手習いや。」

「でもみんな親切やったなあ。そこまで正直に『知らない』とは、普通言えないもんですとかなんとか、褒めてもらったりした。」


父の勤めていた施設の外来部分は、その後医者である父の方針もあって、「特殊な子の行く施設」ではなく、「ボロやけど誰もが相談に行ける小児整形外科病院」に変わっていったと、本人の口から聞いたことがある。父がそのためにどれくらい努力したかを見ながら、私は育ったという気がする。開業を止めても、父の忙しさはそれほど変わらないように見えた。

私が高校生の頃、何かでその外来の待合室を通りかかった際、掲示板のような場所にいかにも父らしい貼り紙を見つけた。めったに見ることがなかったけれど、父は毛筆で美しい文字を書く人だった。おそらく自筆と思われるその貼り紙はこんな風な内容だった。

「医者は病気を治せません。病気は子どもの発育の力で治ります。私共は、そのために出来る限りの努力をします。ご家族の方がたもどうぞご協力下さいますよう、お願い申し上げます。」

家に帰ってから父にその話をすると、「『医者は病気を治せません』ってトコは、横に線引いて強調してあったやろ。」と、父はちょっと威張って?言った。自分としては本気でそう思うので、看護婦さんたちの反対を押し切って、冒頭にはっきり書いたのだと。

「オレはヤブやからなあ」というのはそれ以前から父の口癖だったけれど、謙虚な人だったということ以外にも、色々な経験から父なりに思うところがあったのかもしれない。


「10年毎に僕は職業を変えてきた」と言っていた父は、結局その施設の医者として生涯を終えた。かれこれ20年、そこで仕事をしたことになる。「こんな雪の降る寒いトコやなくて、太平洋側のあったかいトコ行って、仕事探して住もうかあ・・・。」などと言っては、母に止められていたのを思い出す。

実際に「太平洋側」に住む知人の前で同じ事を言い、その人が本気で仕事を探してくれているのを後から知って、平謝りに謝っている姿も見たことがある。傍に居た母に「見なさい。あなたが馬鹿なことを言うから・・・。」と本気で怒られて以来、父は同じ事を言いかけても、一瞬我に返って止めるようになった。私には、なんだか父が気の毒に思えた。


父は60歳で亡くなった。突然の死だった。

それまでも10年以上に渉って、肝臓病との「つき合い」が続いていた。最後の頃は、軍隊で痛めた片膝も悪くなって、イヤだイヤだと言うのを周囲に押し切られ、車椅子で仕事をしたりもしていたらしい。「学園の子どもらが『センセも一緒だ、一緒だ。』って喜んでた。」などと、本人は嬉しいような困ったような顔をしていた。

あの頃は、どうしても人の血液に触る機会の多い臨床医の場合、慢性肝炎、肝硬変は一種の職業病と言えたかもしれない。父も伯父も母方の祖父も、当時は名前も付いていなかった「C型肝炎ウィルス」による肝臓病で亡くなった。伯父は1ヶ月ほど人事不省で、そのまま意識が戻らなかった。祖父は劇症肝炎だったことが、解剖後にやっと判明した。研究者だった父方の祖父だけが、天寿を全うした。医者と言う職業の危険さを、私は感じる機会が多かった。

ただ、父も最後は肝硬変から癌が発生し入退院を繰り返してはいたが、亡くなったのはそれが直接の理由ではなかった。解剖しても、直接の死因と言えそうな所見は見当たらなかったという。

歯科に通っていた母の留守中、小康状態で比較的元気だった父は、自宅の居間のソファーに横になって、好きだった映画のビデオを観ているうちに、眠ってしまったのだろう。そして、なぜかそのまま、父の心臓は停止してしまった・・・。

家に帰ってきた母は父が息をしていないことに気づき、慌てて救急車を呼んだが、救急車が来た時には既に、父は生きてはいなかった。


姉からの電話で父が亡くなったことを知り、私は大急ぎで1歳半の子どもを連れて飛行機に乗った。金沢に着き、葬儀場に足を踏み入れた途端、祭壇に飾られている父の大きな写真が眼に入った。父はあの本当に楽しそうな笑顔で、そこに居た。私は、それがあまりにも楽しそうな表情だったために、却ってショックを受けた。

が、その写真は、長い間父と仕事をして来られた看護士さんたちが、学園の子どもたちと一緒に写っている中から、選んで下さったものだと後から知った。子どもたちと一緒に居る時の父は、本当に楽しそうに見えたのだと。

「センセのお写真(遺影)に使うんなら、笑ってる顔のがいいよねって、私らみんなで思ったんです。だから・・・。」

父とは一番つき合いが長かった筈の年配の婦長さんは、沈んだ表情でそう言われ、私は父が周囲の人たちに愛されていたのを実感した。葬儀は学園葬ということだった。


先に着いていた年長の従兄弟が、その祭壇の裏側に安置されている父の棺へと案内してくれた。従兄弟は前年、やはり父親を亡くしたばかりだったが、父の顔を一緒に見ながら、隣で黙っている私に言った。

「叔父さんは、なんだかほんとに眠ってるみたいだ。楽しい夢でも見てるように、眼を閉じたまま笑ってる。」

私の眼にも、父の死に顔は眼を閉じて微笑んでいるように見えた。これまでに見た棺の中のどの顔にも似ていない、幸せそうな表情だった。私には、どうしてもこの人が死んでいるのだとは思えなかった。自分の父親だからではなく、その「幸せそうな微笑み」が「死」とは結びつかなかったのだ。


その時、ふと思った。

「そうか・・・この人は次の人生に入ったんだ。」

繊細な感受性を持つロマンチストと生真面目な努力家が一人の人間の中に同居したまま、戦争が終わるまでの19年の人生とその後の長かった「余生」を、それでも一生懸命生きた父の、第三の人生が既に始まっているのだと。


「楽しい夢を見ているようなこの顔が本当なら、父はそれを、今度は何と呼ぶだろう。」

「余生」の次に続く名前を、次に会う時には忘れずに訊いてみよう。そう思った時、私はやっと、棺の側を離れる気持ちになった。










コメント (6)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「父親」?の出現 (『楽し... | トップ | 2007年に観た映画 (オ... »

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (はにわ)
2007-11-19 12:44:58
相変わらずの長文、力作ですね。
どなたもコメントしてらっしゃらならないので、不慣れながら、足跡をのこしてみます。
お父様の「余生の人生」と、ムーマさんの離人感と
つながりがあるなあ、って思いました。
この後、いろいろな記憶の記録が残されるんでしょうか。じっくり書いてください。
楽しみにしています。
返信する
足跡、嬉しいです (ムーマ)
2007-11-19 16:14:10
はにわさん、書いて下さってありがとう。
ほんとに嬉しいです。

この文章だけ読んだら、父のあのニギヤカさ、楽しそうな雰囲気は伝わらないかもしれないな~って、書いた後から思いました。でもまあ、仕方ないか・・・。今の私には、このくらいがせいぜい?です。

実は最近映画を観ていて、フラッシュ・バックとでもいうような感覚に襲われることが続いているので、映画の感想が書きにくくって困惑してます。この歳になって40年前の記憶に振り回されるなんて、私は一体何をしているんだろう・・・って、さすがに情けない気もするので。

でも、過去に振り回されるのも、映画を観ていて文字通り「拉致」されかけるのも、人生の醍醐味??なのだろーと。この歳まで生きていられるとは本当に思っていなかったので、神サマからの贈り物と思って、楽しんで味わうことにします。

これからも、なんとかして書こうと思います。どうぞまた、見に来てやって下さい。

返信する
いえいえ、伝わってます (はにわ)
2007-11-19 19:36:33
ロマンチストで、理想化肌のお父様の魅力も、十分、
伝わってますよ。
それも書こうかなと思ったんだけど・・・なんせ、自分の父が、飲んだくれの田舎親父だったもんで、違うなあ、と感心するだけで、終わってしまいました。

そういえば、私も父が亡くなって何年もたってから
「愛すべき」飲んだくれだったと、思うようになりました。しみじみ。

返信する
「愛すべき」っていい言葉ですね (ムーマ)
2007-11-20 11:49:15
身近な人が亡くなったら、いつか必ずそう思うようになるんだろうな・・・って、今回私も思いました。

私自身はいつまでたってもオトナになれない部分があって、私の中の自分でも知らないトコロに、未だに「愛すべき」の付けられそうにない故人が何人か居るのだと思います。(自分ではとっくに「愛すべき」が付いていると思っていたのに・・・。)

でも、いつかその人達のことも、はにわさんのように「しみじみ思う」日が来るのだろうと、はにわさんのコメントを見て、改めて思いました。

どうもありがとう。また来て下さいね。
返信する
記憶 (イエローフロッグフィシュ)
2010-10-11 15:21:23
とても優しく、まじめで、楽しいこと大好きな父上に乾杯。
返信する
ありがとうございます。 (ムーマ)
2010-10-13 16:31:19
イエローフロッグフィシュさん、ようこそ~。

こんな古いモノを読んで下さって、そしてコメントまで残して下さって、ほんとにほんとに嬉しいです。

優しいイエローフロッグフィシュさんに、私も乾杯!

返信する

コメントを投稿

人の記憶」カテゴリの最新記事