長くなった「ひとこと感想」その7。(ややネタバレかも。)
観た直後のメモには、短く、「“間借り人”(マックス・フォン・シドー)の表情が、見ていて飽きなかった。少年の母親の行動は、(リアルというより)フィクションの良さかも」。
この監督の作品には、いつも多くの要素(テーマ?)が盛り込まれていると感じる。だから、感想を・・・と思っても、アタマが満杯になってしまって、整理して書くことが出来ない。(『めぐりあう時間たち』なんて、まさにそう。)
でも一つだけ、自分が観ている間はちょっと誤解していた(らしい)ことに気づいたので、書いておこうと思う。
私は最初、オスカーの父親はオスカーに似た資質の持ち主(オスカー自身の言葉で「(僕は)アスペルガー症候群という診断は未確定」)なのだと思っていた。
だから、オスカーの感覚が理解できて、息子のためにいろいろな支えになることが出来る。一緒に「調査探検」や「矛盾合戦」をしたり、テコンドーを教えたり・・・それも「本心から一緒に楽しんで」出来る人だったのだと。そういう父親の資質も含めて愛していたのが母親で、だから彼女は息子のオスカーのことも本当に可愛いと思い、父親と息子の絆が強くなっていくのを、適当な距離を測りながら、大らかに見守っていたのだと。
けれど、今こうして思い返してみると、あの映画は12歳の少年の側から見える風景を、その感覚のままに表現しようとしていた・・・と改めて感じる。だから、あの父親像も、大部分はオスカーの眼に映った父親像であって、父親本来の姿ではなかったのかもしれないと。
生化学を専攻し、科学者になりたかったけれど、(家族のための現実的な選択として)宝石商になったという父親は、自分自身は父親の顔を知らない。だから余計に、オスカーというちょっと変わった、でもとても鋭敏な感覚のアンテナを持つ、知的に早熟な息子に、バランスの取れた大人として幸せな人生を送れるようになってもらうために、一生懸命だったのかもしれない。
まあ、父親がどういう資質・性格の人だったとしても、オスカーはいつか父親のような、穏やかで愛情深い賢い大人になるだろう・・・と、私は思う。オスカーをよく理解してくれている祖母と、息子の気持ちがわからず心配が募っても、喧しく言わずに自由にさせてくれる(そして影ながらサポートしてくれる!)母親と、おまけに、あの飄々とした“間借り人”まで付いているんだから。
この“間借り人”との関係、距離感が見ていてとても気持ち良かった。
「父親」という、唯一自分をこの世界に繋いでくれていた?存在を、「9・11」で突然失って、全てが「理解不能」な世界になってしまった・・・そんなオスカーの必死の努力(「カギが合う鍵穴を見つければ、パパが僕に伝えたかったことがわかるはず。それがわかれば、このワケノワカラナイ世界が、なんとか理解出来るものになるはず」)を、たぶんどこか深い所で直観的に理解して、“間借り人”は鍵穴探しに毎日つき合ってくれた・・・私はそんな気がする。
それは二次大戦中にドレスデンの爆撃を経験した人故の理解だったかもしれないし、自分の息子と縁が薄かった人の、少年に対するある種の好奇心?のようなモノでもあったのかもしれない。
片手に「イエス」、片手に「ノー」と入れ墨?してまで、人と「話す」ことを自分に禁じてしまった“間借り人”だからこそ、この時のオスカーとコミュニケーションが取れたのだ・・・というのも、私には印象的だった。
映画全体としては、「喪失」という深刻な内容でありながら、ある種ファンタジーを感じさせるような寓話にも見える。美しい色彩、可愛らしい衣装、オスカーの感覚を観客に悟らせるためのさまざまな「音」の演出・・・などなど、観ていて感覚を刺激される作品でもある。
けれど結局のところ、私はオスカーと父親と“間借り人”の3人だけを、最初から最後まで見ていた気がする。オスカーが言うところの、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」という感覚は、私自身、昔も今も、多少は感じるものでもあるので余計に、父親の接し方だけでなく、“間借り人”の「のめり込まない」「近づきすぎない」感覚を、「いいな・・・」と思ったのかもしれない。
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