ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公は貧しさのため大学を中退した23歳のラスコーリニコフ。頭脳が明晰ではあったが妄想癖があった。彼は1つの理論をもっていた。それは人類には凡人と非凡人の2種類が存在し、非凡人は人類のために何をしてもよいというもの。人類を幸せにするために、凡人の1人である虫けらみたいな金貸しの婆さんを殺してその財産を人のために使っても何の問題もないとラスコーリニコフは考える。そして実際に行動を起こす。ラスコーリニコフは自分がナポレオンの生まれ変わりのような気分になっていた。
ラスコーリニコフは斧で金貸しの婆さんを殺す。そのとき、部屋に入ってきた婆さんの妹のリザヴェータまでも斧で殺してしまう。この予期しない2番目の殺人はラスコーリニコフを苦しめることになる。ラスコーリニコフは殺人をする前日、居酒屋でマルメラードフという飲んだくれの元官吏と知り合う。マルメラードフは人生の敗北者ではあるが、ラスコーリニコフに向かって、「お若いの。行き場がないということがどんなにつらいことかあなたにはわからないでしょう。」という。この言葉は「罪と罰」の1つの主題でもある。マルメラードフには家族があった。妻のカテリーナ・イワーノヴナ、長女のソーニャそしてソーニャの下の幼い3人の子たちで合計6人家族である。マルメラードフとカテリーナは再婚同志だ。3人の幼い子はカテリーナの連れ子であった。
マルメラードフの一家は彼が真面目に働かないため、いつも赤貧洗うがごとくの状況だった。カテリーナはマルメラードフを呪い、ソーニャを詰(なじ)った。ある日、ソーニャはカテリーナの枕元に30ルーブリのお金を置いた。それを見たカテリーナはソーニャを抱き、接吻しながら泣く。そのお金はソーニャが身を売って(娼婦)得たお金だった。そのときソーニャは10代半ばの少女。体を張ってソーニャはマルメラードフ一家を助けた。マルメラードフの一家は当時のロシアの最下層の人たちを象徴する人たち。マルメラードフは馬車にひかれて死んでしまう。ラスコーリニコフはもっているすべてのお金をカテリーナに葬式代として渡す。これ以後、ラスコーリニコフとソーニャは切っても切れない関係になる。ドストエフスキーの「罪と罰」は人間の根源的な欲求を満たしてくれる。その根源的な欲求とは「許されること」にある。人間は罪を犯す存在だ。人が母親を絶対的なものとして慕うのは、母親はいかなる状況でもわが子を許すからなのかもしれない。
ソーニャとリザヴェータは年は離れていたが、2人でロシア語訳の聖書を読みあう仲だった。ソーニャは無神論者と思われているラスコーリニコフの本性を見抜いていた。ラスコーリニコフはソーニャの目からすれば、人類全体の幸福を願う、愛ある人間だった。ラスコーリニコフがソーニャに自分が犯した犯罪を告白したとき、ソーニャは自分のかけがえのない友人リザヴェータを殺されたにもかかわらず、ラスコーリニコフに向かって「大通りに出て、私がやったと大声でいいなさい。そして、大地に接吻しなさい。」という。その時、ソーニャはラスコーリニコフを許していたのだ。それは人間の理性・知性を超えた感情である。ソーニャはラスコーリニコフを世界で一番不幸な人間だと見ていた。最後にラスコーリニコフは自首をする。自己犠牲をできる人だけが人を許すことができる。「罪と罰」はこの単純で永遠の真理をラスコーリニコフとソーニャという2人を通して具体的に提示する。ソーニャは自己犠牲の人だ。彼女は人類すべてのために自分を犠牲にできる人だった。知性の人であるラスコーリニコフもソーニャの愛にはかなわなかった。人類のために自己犠牲をする娼婦のソーニャと殺人者のラスコーリニコフは天国に行くことはできない。これも「罪と罰」を深く重くしている大きな主題。
ドストエフスキーのもう一つの作品、「カラマーゾフの兄弟」は倒錯の世界でもある。悪と善、真と偽、希望と絶望、愛と憎しみ、人類がもつあらゆる理性と感情が入り乱れてぶつかりあって火花をだしている世界。この世界では善は悪になり、悪は善になり、真は偽になり、偽は真になり、愛することは憎むことになり、憎むことは愛することになる。また、不条理が不条理でなくなる世界でもある。悪魔も登場して正義感ぶったことをいう。異常な世界であるが正真正銘の人間の世界。人間とは何重にも仮面をかぶっている得体の知れない生き物だと「カラマーゾフの兄弟」は見せてくれている。
イワンがアリョーシャに元将軍の地主の話をする。その地主は犬が大好きであった。たくさんの犬を飼い、優秀な猟犬に育てる。地主の村の子が誤って地主の飼い犬の1匹に石をぶつけてしまう。その犬はびっこを引くようになる。それを地主が見つけ、びっこを引く原因を調べる。地主は石を投げつけた子供とその親をよびつける。地主は子供を素っ裸にし、逃げるように命じる。地主はたくさんの猟犬たちに逃げた子供を追いかけさせ、かみ殺させる。この話をしたあと、イワンはアリョーシャに向かって、「この地主をお前はどうする?」ときく。間髪を入れずアリョーシャは、「虐殺すべきです!」と答える。このアリョーシャの言葉を聞いて、イワンはにやりと笑う。アリョーシャは修道院の修道僧であった。アリョーシャはすべての人を許すといったキリストの教えをはからずも踏みにじった。
「カラマーゾフの兄弟」は世界最高峰の文学の1つといわれる。人類の悪や不条理をこれでもかと描きながら、その先に光が用意されている。その光は、虐待された子供たちの未来だ。「カラマーゾフの兄弟」の主題は「父親殺し」と「子供の虐待」だ。事件はモスクワから遠く離れた町で起こる。淫蕩の塊であるカラマーゾフ家の当主のフョードルが殺される。フョードルの長男であるミーチャが容疑者になった。フョードルには長男のミーチャ、次男のイワン、三男のアリョーシャの3人の息子がいた。もう1人、フョードルの私生児といわれたスメルジャコフもいた。スメルジャコフはこの作品の陰の主人公ともいえる。彼の存在がこの作品を重く深くする。ミーチャとフョードルは憎しみ合っていた。遺産相続で長い間もめており、グルーシェニカという女性の奪い合いをしていた。2人は恋敵でもあり、2人の確執はピークに達し、いよいよミーチャがフョードルを杵で殺したと町の住民は思う。ミーチャは裁判にかけられ、無罪を主張するが、有罪になり、20年間のシベリア送りとなる。実際にフョードルを殺したのはスメルジャコフだった。スメルジャコフはミーチャの公判の前日に自殺していた。スメルジャコフは自分の犯行をイワンに話す。
「カラマーゾフの兄弟」には中学生たちも登場する。アリョーシャは心の底から子供が好きだった。12,3人の中学生がアリョーシャを取り巻く。子供たちもアリョーシャが好きだった。アリョーシャはさながら12使徒に囲まれたキリストみたいだった。父親殺しという世にも残忍な事件を扱いながら、ドストエフスキーは抜け目なく未来の人類である子供たちを登場させている。この子供たちの未来には希望があった。子供たちは父親殺しを超えていくはずである。どんな状況にあっても人類の未来に光がさすのを感じさせてくれる。ドストエフスキーの「白痴」で特に印象深いのは、主人公のムイシュキン公爵の語る死刑囚の話。銃殺刑となった囚人はあと5分で銃殺される状況になる。彼はその残り5分を3つに分けて使おうと決める。最初の2分間は友人たちのことを考え、次の2分間は自分自身のことを考え、最後の1分間はこの世の名残に回りの景色をじっくりみようと決める。時間がたつにつれ彼はある想念に悩ませられる。もし俺が生き残ったとしたら俺は無限の時間を手にすることができる。それでも1分を大事に使ってどんな少しの時間も無駄にはしないというものだった。この想念が肥大し、彼は苦しくなり一刻も早く銃殺にしてくれと心の中で叫ぶ。ムイシュキン公爵はこの話をするとき、もう1つ死刑についての話をしている。彼は死刑反対論者であったが、その理由は死刑は確実に死ぬ時がわかるからだという。確実にいつ死ぬとわかっているときの恐怖はとても人の心では耐えられないという。この2つの話はドストエフスキーの創作ではない。彼が実際に体験した話だから興味をそそられる。ドストエフスキーは1848年、ある社会主義思想のサークルの急進的なメンバーとして逮捕される。最初の判決は銃殺刑であり、ムイシュキン公爵が語る銃殺の場面を経験する。ドストエフスキーは完全に殺されると思っていた。ところが、銃殺の準備が整ったとき、突然皇帝の恩赦が発表され銃殺刑の囚人たちは命拾いする。その後、ドストエフスキーはシベリア送りとなる。4年のシベリアでの囚人生活が作家ドストエフスキーに計りしれない影響を与えたと思われる。
一方、夏目漱石の作品の「こころ」には、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んだ時と相通ずるものがある。これらの作品は、人間の心の奥の奥に潜む魔物を追求している。「こころ」は上中下の3編、すなわち、上「先生と私」、中「両親と私」、下「先生と遺書」から構成されている。上と中は「私」の語りになっている。「私」は鎌倉の海辺で偶然「先生」と出会い、それ以来「先生」に惹かれて東京の「先生」の家にたびたび行くようになる。「先生」には財産があってそれなりに暮らしていける。「先生」には美しい奥さんがいた。「私」は「先生」の家に出入りするようになって、「先生」に興味をもつ。いつしか、「先生」の家の書生みたいな感じになっていった。「先生」が夜出かけて家を留守にする時、「私」は「先生」に呼び出され、奥さんの用心棒を命じられたりする。奥さんによると、「先生」はある時から人が変わったようになったという。「先生」は月に1度、雑司ヶ谷の墓地に墓参りに行く。その墓には「先生」の友人が眠っている。「先生」はその友人のことについては「私」に一切話さない。「先生」は何か人に言えない秘密をもっている。「私」は大学を卒業しても就職先が見つからない。「私」の父が病で倒れて、田舎に帰り、父の看護をしながら、就職先の世話をしてもらうために「先生」に手紙を書いた。「先生」からの返事はない。
そのうち明治天皇が崩御し、そして9月の御大喪の日、乃木大将が殉死する。数日して先生からたいへん分厚い手紙が「私」に届く。「先生」の遺書であった。「私」は東京行きの汽車に乗る。汽車の中で「先生」の遺書を読む。下「先生と遺書」は全編「先生」の遺書だ。この遺書には「先生」の秘密が書かれていた。「先生」はある時期から自分の逃げ場は「死」しかないと決めていた。それは友人を裏切った「自己」を否定したかったからだ。友人Kは「先生」の幼な友達で、中学・高校・大学のときの同級生。2人が大学生のとき、Kは家の問題で学業を続けていくのが困難になる。Kに同情した「先生」はKを自分の下宿に住まわせる。その下宿には家主である未亡人とその娘(「先生」の遺書ではお嬢さんとよばれ、今の「先生」の奥さん)が住んでいた。お嬢さんは美しく、女学校の生徒だった。仏教の研究をするKは無口で無愛想な人間だったが、Kはお嬢さんに惚れ、そのことを「先生」に告白する。お嬢さんに気があった「先生」は深く悩む。悩んだ結果、「先生」はお嬢さんの母親に「お嬢さんをください」という。母親は承諾する。このことを知ったKはまもなく自殺する。Kは遺書を残すが、お嬢さんのことは触れられていない。これ以来、「先生」は悩む。「先生」は自殺するほど卑怯な人(遺書の中で「先生」は自分のことを卑怯者と蔑む)なのであろうか。恋愛は自由である。好きな人と結婚してどこが悪いといったら「こころ」という小説は成り立たない。「こころ」には「友を思う」という「倫理」が厳然と存在していた。「先生」は最終的に「倫理」を重んじた。それを、「先生」を敬愛する若い「私」(漱石)に教えた。当時の実際的な例として、乃木大将の自刃がある。乃木は明治天皇と倫理に殉じた。その「倫理」のことを、漱石は明治の精神というのだろうか。
夏目漱石は松山中学で1年間教鞭をとったあと、熊本の第五高等学校へと赴任、第五高等学校在任中に文部省からイギリス留学を命じられる。漱石は何を研究しようかと思い悩んだ末、英文学を研究して文学とは何かを極めようとした。食うや食わずの生活をして一心不乱に勉強し、漱石は神経衰弱になった。日本に帰国してから、漱石は第一高等学校、東京帝国大学などで英文学を教えながら、イギリス以来の研究を継続する。そして「文学論」を書く。後に、これは失敗作だといっている。イギリスから帰国後、漱石は心の中に何かもやもやとしたものをもっていた。彼は生徒たちに英文学を教えることが嫌になっていた。漱石は教えること以外に活動することを模索する。朝日新聞に入社し作家となる。
漱石の「私の個人主義」を読めば、なぜ漱石が東京帝国大学の講師という超エリートの職をなげうって作家の道に進んだかがわかる。「私の個人主義」は漱石が大正3年に学習院で行った講演を筆記したもの。「私の個人主義」の中で、漱石はイギリス留学中に自分の生きるべき道を決めたという。それは「自己本位」とは何かを立証することだった。そのために科学的な研究や哲学的な思索に耽(ふけ)ようとした。漱石にとってはそれは小説という舞台で初めて可能だった。この講演は漱石が「こころ」を書いたあとに行われたもの。「自己本位」と「こころ」の中の先生の行動が重なる。自己本位とは個人主義、漱石にいわせると個人主義とは利己主義とは全く違うものだ。個人は自由にふるまってもいいが、かならずそれには義務が伴うと漱石はいう。さらに、自由に行動するには徳が必要であるという。徳を人格者と置き換えても良い。第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うなら、同時に他人の個性も尊重しなければならない。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うなら、それに付随している義務というものを心得なければならない。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重(おもん)じなければならないと語っている。
イギリスにはノーブレスオブリージ(貴族の義務)という言葉がある。権力をもった人は戦争になったら最前線で戦わなければならない。権力・金力をもつ人はそれに伴って義務が生ずるということ。逆に義務感のない人は権力をもてない。漱石はイギリスが嫌いというが、イギリスは自由の国ではあるが非常に調和のとれた国だとほめる。漱石はイギリスという国の本質を見抜いている。時は日本中が国家主義に沸きかえっている時期。国家主義は国のために自己を抹殺する。漱石は公然とこれに反発する。漱石は国家的道徳よりも個人的道徳のほうがはるかに優れているという。その言葉の裏には国が優れたものになるためには個人が優れたものにならなければならないという。個人の問題は漱石文学の重要なテーマといえる。
夏目漱石の作品に長編小説が多いのは、新聞に連載するのを仕事としている小説記者としては当然だった。小説記者となって初めての小説「虞美人草」から最後の未完の「明暗」まで、漱石は年に1つぐらいのペースで長編小説を書いた。短いものも書いている。特に小品と呼ばれるものは漱石独自の世界。小品とは随筆と短編小説を合わせたような作品。木曜会というものがある。漱石の家には漱石を慕うたくさんの若い知識人たちが集まった。1人ひとりばらばらに行ったのでは漱石の仕事に差し支えるので、鈴木三重吉が毎週木曜日に集まろうと提案して決めた。三重吉は「吾輩は猫である」の迷亭のモデルといわれた男。ただ、迷亭と同じで愛嬌満点ではあるが、どこかいいかげんなところがあった。三重吉は文鳥を飼っていて漱石に文鳥を飼うことをすすめた。半ば強引に三重吉は漱石に文鳥を買ってあげる。「文鳥」はこの文鳥について書かれた小品である。
漱石が終(つい)の棲家としたのが早稲田にある家。この家は漱石山房といわれ、現在では漱石公園として一般に開放されている。公園には漱石山房のテラスを再現した建物があり、また漱石に関する資料を展示した小さな資料館がある。漱石公園は早稲田大学のすぐ近くにある。漱石の書斎は板敷きの10畳の洋間。絨毯が敷かれ紫檀の机と座布団が置かれている。漱石は椅子にではなく、床に坐って書いていた。書斎には縁側がついており、文鳥はその縁側で飼われた。「文鳥」は鈴木三重吉が漱石に文鳥を買ってあげてから文鳥が死ぬまでのことを書いている。主人公は「自分」で、もちろん「自分」は漱石自身であり、「自分」が文鳥のことを淡々と語る。
「自分」はとりたてて文鳥が好きであるわけではないが、飼っているうちにだんだんと愛情らしきものが芽生えてくる。飼いたての頃は水の取り替えや餌は「自分」がやる。朝早く起きて、箱から文鳥がいる駕籠を外に出す。文鳥の鳴き声は可愛いい。三重吉にいわせると文鳥はちよちよと鳴くらしい。「自分」は文鳥を見ているとふと昔の女のことを思い出す。その女に対して感じた甘美な思いが蘇る。その女はとうの昔にどこかへ嫁いでいた。「自分」は毎日、書斎で小説を書いている。ペンのさらさらという音が書斎にかすかに響く。
「自分」はいつしか文鳥の世話を家人にまかせる。ある日、家人が餌をやるのを怠り、文鳥は死ぬ。「自分」は下女をしたたか叱る。文鳥は裏庭に埋められる。「文鳥」を読むと、漱石の書斎の静けさが直に伝わってくる。それを可能にしたのが、文鳥のちよちよという泣き声であり、原稿を書くペンのさらさらという音、同時にこの2つの音が漱石の孤独を際立たせる。文鳥は昔の女の生まれ変わりではないかと思わせる。昔の女は実在しない。あくまで昔の女は何かの象徴だろう。
漱石の作品、「行人」について。
夏目漱石研究の大御所といえば、江藤淳が思い浮かぶ。江藤はいろいろな角度から漱石を分析しているが、その分析の一つに漱石が三兄の妻の登世を恋していたというのがある。江藤の「漱石とその時代」を読むと、本当に漱石は兄嫁を恋していたのかと疑問に思われる。江藤は確信をもって漱石の兄嫁に対する恋をいう。漱石の「行人」で、まず思い出すのが江藤淳の指摘、「行人」の主題の1つが弟と兄嫁との恋仲についてだ。「行人」は行き着くところまで行き着いたといった感のする小説。「行人」執筆中、漱石は再び胃潰瘍を悪化させ連載の中断を余儀なくされる。「行人」の内容を思うと中断もなるほどと納得させられる。胃が破裂するような内容。「行人」を書くことは自殺行為に等しいとさえ思われる。「それから」や「門」では友人の妻を奪うという反社会的なことがテーマだが、「行人」になるとさらに先鋭化し、いよいよ弟と兄嫁の不倫というテーマになる。漱石は男と女の関係をとことん原初的なまでに追及している。「行人」を読むと、いいようのない重い気持になる。この小説には夢も希望も描かれてない。あのドストエフスキーの作品でも陰惨極まる事件のあとでは希望が語られる。「行人」にはその希望がまったくない。「行人」の世界は狂気の世界といってもよい。「行人」は一郎・二郎の兄弟と一郎の妻直の3人を中心として展開していく物語で、舞台は東京ではなく大阪そして和歌山が中心になっている。物語は二郎の一人称語りで進められる。一郎は学者である。二郎は一郎の弟で同じ家に住んでいる。一郎・二郎の両親は健在で、二郎の下に妹のお重、そして、一郎には妻の直と娘がいる。7人の3世代の家族と使用人が一緒に住んでいる。一郎はつねにあることを疑っていた。二郎と直が恋仲ではないかと。一郎・二郎・直そして母親の4人が使用人の縁談のことで大阪にいったとき、一郎は疑いを二郎にそれとなく打ち明ける。二郎はとりあわなかったが、一郎は直の本当の気持を教えてほしいと二郎に懇願した。大阪から和歌山に4人が遊びにでかけたとき、一郎は二郎と直の2人だけを和歌の浦に行かせる。その日和歌の浦は暴風雨に襲われ、2人はそこで1泊せざるを得なかった。その夜、直は二郎にいつでも死ぬ覚悟があることを伝えた。直は直で一郎とのことで悩んでいた。実際に、二郎と直が関係があったわけではない。すべて一郎の疑心暗鬼から生まれた妄想。4人が東京に帰ってからしばらくすると、一郎の様子が目に見えておかしくなってきた。彼は極端に無口になり、書斎に閉じこもることが増えた。家族のものは腫れ物に触るように一郎を扱った。二郎は家にいたたまれなくて、家を出て下宿する。あるとき、二郎の父親が二郎の下宿を訪ねてくる。父親は二郎に一郎を旅に出して気晴らしをさせようと提案。二郎は一郎と最も仲のよいHに兄を夏休みに旅行に連れ出すよう頼む。Hは承諾し、Hと一郎は夏休みに入ると2人して旅行に出かける。旅行に出る前、二郎はHに兄の様子を手紙で知らせてほしいと頼む。2人が旅行に行ってから何日か過ぎたあと、Hから二郎に分厚い手紙が届く。その手紙には一郎の奇行のことが縷々と述べられていた。一郎はもはや狂人であった。一郎は不安でたまらない状態であった。人を信ずることは無論できず、自殺すらできない精神状態であった。二郎がHの手紙を読み終えたところで物語は終わる。「行人」も前作の「彼岸過迄」と同様、結論のない小説。「行人」を読み進めていくうち、漱石の思考がぐるぐる回転して深みにはまり込んでいく。神経衰弱であった漱石だからこそ「行人」が書けたか、逆に「行人」を書く思考の持ち主だったから神経衰弱になったか。「行人」は読者を重い気持にさせてくれる。
「道草」について。
夏目漱石は文学史の上では「余裕派」といわれる。何故漱石が余裕派といわれるか。「吾輩は猫である」は風刺的な小説で、余裕をもって世の中を見ているとでも思われたのであろうか。漱石が作家として登場した頃は、文壇は自然主義文学が主流だった。自然主義文学でなければ文学にあらずといった風潮。そこへ夏目漱石という風変わりな小説家が現れる。漱石は人気作家になってしまう。文壇の人間たちは、漱石がたいへんな教養人であることは認めたが、漱石の小説が一流の文学作品だとは認めようとしなかった。漱石も自分が文壇からどのように見られているかを当然認識していて、文壇とは距離をおいて付き合い、自然主義文学をさめた目でみていた。漱石が「道草」を発表すると文壇は騒然とする。「道草」は自然主義文学そのものだと文壇の人間たちは思った。「道草」は大正4年に、「硝子戸の中」に引き続いて書かれた自伝的長編小説。「硝子戸の中」は随筆で、幼年時代のことを語る。「道草」ではいよいよ小説として自分の過去をリアルに書いた。それまでの漱石の作品は実体験をそのまま書いたものはなく、すべて虚構性に富むものばかり。「道草」はそれまでの漱石の作品とは明らかに作風が違った。いよいよ漱石も自然主義文学者になったのだと誰しもが思った。
漱石が意図的に自然主義の文学を書こうとして「道草」を書いたとは思えない。「道草」は書かれるべくして書かれた小説。漱石は「こころ」まで長編小説を書き続け、いよいよ自分の存在の核心をテーマにして書かざるを得なくなった。その核心とは漱石の幼少期の育てられ方にある。漱石はこの世に生まれ落ちるとすぐ里子に出されたが、すぐに実家に引き取られ、その後1歳のときに父親の友人塩原昌之助の養子となった。漱石が9歳のとき、養父母が離婚し、漱石は実家に戻る。ところが21歳まで漱石の籍は塩原家に置かれたまま。それまで漱石の本名は塩原金之助であった。この養父母とは漱石が実家に復籍するとき縁を切ったが実際は違った。養父塩原は漱石が有名作家になったとき、金を無心に漱石家を訪れる。「道草」は塩原の金の無心が中心テーマになっている。「道草」の主人公は大学教師の健三である。健三のモデルは漱石自身だ。健三はヨーロッパ留学から帰ってきたばかりで、大学の近くに家を構えていた。ある日、大学から家に帰るとき、健三は道である人間を見る。その男は年老いてみすぼらしかったが、健三には見覚えがあった。健三はある予感を感じた。その年老いた男は島田といい、健三の養父だ。健三は幼い時、島田家の養子であった。島田夫婦が離婚したため健三は実家に戻された。その後、養育費を健三の親が島田に支払い、健三と島田家とは縁が切れたはずだった。島田は生活が苦しく、健三に金の無心をしにきた。健三は断ることができたのだが、いくらかの金を渡した。たびたび島田は健三の家を訪ねるが、まとまった金をやって島田が2度と健三の家に来ないようにした。島田との問題は決着するが、健三は島田の問題も含めて「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」と思っている。「道草」は漱石晩年の作品。漱石はいよいよ自分の実体験に仮託して主観的真実を語るところまできた。その真実とは、人間社会には結論はないということだった。
「明暗」について。
「明暗」は漱石最後の作品。完結することなく未完に終わっている。「明暗」が完結しても漱石が追求するものに完結はない。螺旋階段のようにぐるぐる廻りながら高みに行くような感じ。それまでの作品とはあきらかに異質である。まず、登場人物の層が厚い。小林なる人物を登場させる。この男は卑しくそして陰気で唾棄すべき性格の持ち主だが、どこか知的で人類に対する愛情も持っていて、どこか悪魔的である。このような人物はそれまでの作品には1人もいない。小林は仕事もせずに人にたかって生きているような人間で、高等遊民とはかけ離れた存在だ。ドストエフスキーの作品にでてくるような人物。「明暗」の中で小林はドストエフスキーについても言及する。「明暗」の主人公は津田という男だが、津田にはお延という妻とお秀という妹がいる。この2人がびっくりするぐらい自己主張をする。それまでの漱石の作品では、「三四郎」の美禰子、「それから」の三千代、「門」のお米にしても自己主張はしていない。「明暗」で初めて漱石は女性に自己主張させている。「明暗」は未完とはいえ、漱石の作品の中では最も長い。小説の時間の経過は10日に満たない。あのドストエフスキーの「罪と罰」も7日以内の物語。「明暗」は非常に緊張した小説だ。漱石は全く異質な作品で何を言いたかったのだろうか。「こころ」を書き上げた漱石は「則天去私」の境地に達していた。はたして「則天去私」が「明暗」のモチーフなのか。「私」を去ることのできない人間を描いている。その果てに何か救いのようなものを見つけようとすれば、それはドストエフスキーの世界になる。ドストエフスキーの後を追いかけているようにも感じる。
「明暗」は津田という会社員を中心に展開する物語。津田が痔で入院するところから始まる。津田には結婚して間もない妻のお延がいる。津田が勤める会社の社長夫婦が仲人をした。表向きは仲のよい夫婦だ。ところが、お延は津田に対して不安を感じていた。それは津田には自分以外に愛している人がいるのではないかという不安。津田の旧友と称する小林が津田の留守に訪ねてきたとき、お延は小林の物言いからその不安が間違いないものであることを確信する。津田に対する疑心暗鬼の中、お延は津田の妹のお秀と津田の病室で言い争う。お秀は津田夫婦の自己中心的な姿勢を責めた。お延もそれに対して反論する。この女2人の言い争いは決着がつかない。津田は昔の恋人清子のことが忘れられない。津田は病院を退院すると、清子がいるという温泉地へ療養するとお延に言ってでかける。そこで津田は清子と再会する。ここで絶筆となる。漱石は小説のタイトルには神経を使わなかったというが、この「明暗」というタイトルはかなり考えたもの。確かに「明暗」は人間関係の明るい部分と暗い部分を見事に描いている。
ラスコーリニコフは斧で金貸しの婆さんを殺す。そのとき、部屋に入ってきた婆さんの妹のリザヴェータまでも斧で殺してしまう。この予期しない2番目の殺人はラスコーリニコフを苦しめることになる。ラスコーリニコフは殺人をする前日、居酒屋でマルメラードフという飲んだくれの元官吏と知り合う。マルメラードフは人生の敗北者ではあるが、ラスコーリニコフに向かって、「お若いの。行き場がないということがどんなにつらいことかあなたにはわからないでしょう。」という。この言葉は「罪と罰」の1つの主題でもある。マルメラードフには家族があった。妻のカテリーナ・イワーノヴナ、長女のソーニャそしてソーニャの下の幼い3人の子たちで合計6人家族である。マルメラードフとカテリーナは再婚同志だ。3人の幼い子はカテリーナの連れ子であった。
マルメラードフの一家は彼が真面目に働かないため、いつも赤貧洗うがごとくの状況だった。カテリーナはマルメラードフを呪い、ソーニャを詰(なじ)った。ある日、ソーニャはカテリーナの枕元に30ルーブリのお金を置いた。それを見たカテリーナはソーニャを抱き、接吻しながら泣く。そのお金はソーニャが身を売って(娼婦)得たお金だった。そのときソーニャは10代半ばの少女。体を張ってソーニャはマルメラードフ一家を助けた。マルメラードフの一家は当時のロシアの最下層の人たちを象徴する人たち。マルメラードフは馬車にひかれて死んでしまう。ラスコーリニコフはもっているすべてのお金をカテリーナに葬式代として渡す。これ以後、ラスコーリニコフとソーニャは切っても切れない関係になる。ドストエフスキーの「罪と罰」は人間の根源的な欲求を満たしてくれる。その根源的な欲求とは「許されること」にある。人間は罪を犯す存在だ。人が母親を絶対的なものとして慕うのは、母親はいかなる状況でもわが子を許すからなのかもしれない。
ソーニャとリザヴェータは年は離れていたが、2人でロシア語訳の聖書を読みあう仲だった。ソーニャは無神論者と思われているラスコーリニコフの本性を見抜いていた。ラスコーリニコフはソーニャの目からすれば、人類全体の幸福を願う、愛ある人間だった。ラスコーリニコフがソーニャに自分が犯した犯罪を告白したとき、ソーニャは自分のかけがえのない友人リザヴェータを殺されたにもかかわらず、ラスコーリニコフに向かって「大通りに出て、私がやったと大声でいいなさい。そして、大地に接吻しなさい。」という。その時、ソーニャはラスコーリニコフを許していたのだ。それは人間の理性・知性を超えた感情である。ソーニャはラスコーリニコフを世界で一番不幸な人間だと見ていた。最後にラスコーリニコフは自首をする。自己犠牲をできる人だけが人を許すことができる。「罪と罰」はこの単純で永遠の真理をラスコーリニコフとソーニャという2人を通して具体的に提示する。ソーニャは自己犠牲の人だ。彼女は人類すべてのために自分を犠牲にできる人だった。知性の人であるラスコーリニコフもソーニャの愛にはかなわなかった。人類のために自己犠牲をする娼婦のソーニャと殺人者のラスコーリニコフは天国に行くことはできない。これも「罪と罰」を深く重くしている大きな主題。
ドストエフスキーのもう一つの作品、「カラマーゾフの兄弟」は倒錯の世界でもある。悪と善、真と偽、希望と絶望、愛と憎しみ、人類がもつあらゆる理性と感情が入り乱れてぶつかりあって火花をだしている世界。この世界では善は悪になり、悪は善になり、真は偽になり、偽は真になり、愛することは憎むことになり、憎むことは愛することになる。また、不条理が不条理でなくなる世界でもある。悪魔も登場して正義感ぶったことをいう。異常な世界であるが正真正銘の人間の世界。人間とは何重にも仮面をかぶっている得体の知れない生き物だと「カラマーゾフの兄弟」は見せてくれている。
イワンがアリョーシャに元将軍の地主の話をする。その地主は犬が大好きであった。たくさんの犬を飼い、優秀な猟犬に育てる。地主の村の子が誤って地主の飼い犬の1匹に石をぶつけてしまう。その犬はびっこを引くようになる。それを地主が見つけ、びっこを引く原因を調べる。地主は石を投げつけた子供とその親をよびつける。地主は子供を素っ裸にし、逃げるように命じる。地主はたくさんの猟犬たちに逃げた子供を追いかけさせ、かみ殺させる。この話をしたあと、イワンはアリョーシャに向かって、「この地主をお前はどうする?」ときく。間髪を入れずアリョーシャは、「虐殺すべきです!」と答える。このアリョーシャの言葉を聞いて、イワンはにやりと笑う。アリョーシャは修道院の修道僧であった。アリョーシャはすべての人を許すといったキリストの教えをはからずも踏みにじった。
「カラマーゾフの兄弟」は世界最高峰の文学の1つといわれる。人類の悪や不条理をこれでもかと描きながら、その先に光が用意されている。その光は、虐待された子供たちの未来だ。「カラマーゾフの兄弟」の主題は「父親殺し」と「子供の虐待」だ。事件はモスクワから遠く離れた町で起こる。淫蕩の塊であるカラマーゾフ家の当主のフョードルが殺される。フョードルの長男であるミーチャが容疑者になった。フョードルには長男のミーチャ、次男のイワン、三男のアリョーシャの3人の息子がいた。もう1人、フョードルの私生児といわれたスメルジャコフもいた。スメルジャコフはこの作品の陰の主人公ともいえる。彼の存在がこの作品を重く深くする。ミーチャとフョードルは憎しみ合っていた。遺産相続で長い間もめており、グルーシェニカという女性の奪い合いをしていた。2人は恋敵でもあり、2人の確執はピークに達し、いよいよミーチャがフョードルを杵で殺したと町の住民は思う。ミーチャは裁判にかけられ、無罪を主張するが、有罪になり、20年間のシベリア送りとなる。実際にフョードルを殺したのはスメルジャコフだった。スメルジャコフはミーチャの公判の前日に自殺していた。スメルジャコフは自分の犯行をイワンに話す。
「カラマーゾフの兄弟」には中学生たちも登場する。アリョーシャは心の底から子供が好きだった。12,3人の中学生がアリョーシャを取り巻く。子供たちもアリョーシャが好きだった。アリョーシャはさながら12使徒に囲まれたキリストみたいだった。父親殺しという世にも残忍な事件を扱いながら、ドストエフスキーは抜け目なく未来の人類である子供たちを登場させている。この子供たちの未来には希望があった。子供たちは父親殺しを超えていくはずである。どんな状況にあっても人類の未来に光がさすのを感じさせてくれる。ドストエフスキーの「白痴」で特に印象深いのは、主人公のムイシュキン公爵の語る死刑囚の話。銃殺刑となった囚人はあと5分で銃殺される状況になる。彼はその残り5分を3つに分けて使おうと決める。最初の2分間は友人たちのことを考え、次の2分間は自分自身のことを考え、最後の1分間はこの世の名残に回りの景色をじっくりみようと決める。時間がたつにつれ彼はある想念に悩ませられる。もし俺が生き残ったとしたら俺は無限の時間を手にすることができる。それでも1分を大事に使ってどんな少しの時間も無駄にはしないというものだった。この想念が肥大し、彼は苦しくなり一刻も早く銃殺にしてくれと心の中で叫ぶ。ムイシュキン公爵はこの話をするとき、もう1つ死刑についての話をしている。彼は死刑反対論者であったが、その理由は死刑は確実に死ぬ時がわかるからだという。確実にいつ死ぬとわかっているときの恐怖はとても人の心では耐えられないという。この2つの話はドストエフスキーの創作ではない。彼が実際に体験した話だから興味をそそられる。ドストエフスキーは1848年、ある社会主義思想のサークルの急進的なメンバーとして逮捕される。最初の判決は銃殺刑であり、ムイシュキン公爵が語る銃殺の場面を経験する。ドストエフスキーは完全に殺されると思っていた。ところが、銃殺の準備が整ったとき、突然皇帝の恩赦が発表され銃殺刑の囚人たちは命拾いする。その後、ドストエフスキーはシベリア送りとなる。4年のシベリアでの囚人生活が作家ドストエフスキーに計りしれない影響を与えたと思われる。
一方、夏目漱石の作品の「こころ」には、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んだ時と相通ずるものがある。これらの作品は、人間の心の奥の奥に潜む魔物を追求している。「こころ」は上中下の3編、すなわち、上「先生と私」、中「両親と私」、下「先生と遺書」から構成されている。上と中は「私」の語りになっている。「私」は鎌倉の海辺で偶然「先生」と出会い、それ以来「先生」に惹かれて東京の「先生」の家にたびたび行くようになる。「先生」には財産があってそれなりに暮らしていける。「先生」には美しい奥さんがいた。「私」は「先生」の家に出入りするようになって、「先生」に興味をもつ。いつしか、「先生」の家の書生みたいな感じになっていった。「先生」が夜出かけて家を留守にする時、「私」は「先生」に呼び出され、奥さんの用心棒を命じられたりする。奥さんによると、「先生」はある時から人が変わったようになったという。「先生」は月に1度、雑司ヶ谷の墓地に墓参りに行く。その墓には「先生」の友人が眠っている。「先生」はその友人のことについては「私」に一切話さない。「先生」は何か人に言えない秘密をもっている。「私」は大学を卒業しても就職先が見つからない。「私」の父が病で倒れて、田舎に帰り、父の看護をしながら、就職先の世話をしてもらうために「先生」に手紙を書いた。「先生」からの返事はない。
そのうち明治天皇が崩御し、そして9月の御大喪の日、乃木大将が殉死する。数日して先生からたいへん分厚い手紙が「私」に届く。「先生」の遺書であった。「私」は東京行きの汽車に乗る。汽車の中で「先生」の遺書を読む。下「先生と遺書」は全編「先生」の遺書だ。この遺書には「先生」の秘密が書かれていた。「先生」はある時期から自分の逃げ場は「死」しかないと決めていた。それは友人を裏切った「自己」を否定したかったからだ。友人Kは「先生」の幼な友達で、中学・高校・大学のときの同級生。2人が大学生のとき、Kは家の問題で学業を続けていくのが困難になる。Kに同情した「先生」はKを自分の下宿に住まわせる。その下宿には家主である未亡人とその娘(「先生」の遺書ではお嬢さんとよばれ、今の「先生」の奥さん)が住んでいた。お嬢さんは美しく、女学校の生徒だった。仏教の研究をするKは無口で無愛想な人間だったが、Kはお嬢さんに惚れ、そのことを「先生」に告白する。お嬢さんに気があった「先生」は深く悩む。悩んだ結果、「先生」はお嬢さんの母親に「お嬢さんをください」という。母親は承諾する。このことを知ったKはまもなく自殺する。Kは遺書を残すが、お嬢さんのことは触れられていない。これ以来、「先生」は悩む。「先生」は自殺するほど卑怯な人(遺書の中で「先生」は自分のことを卑怯者と蔑む)なのであろうか。恋愛は自由である。好きな人と結婚してどこが悪いといったら「こころ」という小説は成り立たない。「こころ」には「友を思う」という「倫理」が厳然と存在していた。「先生」は最終的に「倫理」を重んじた。それを、「先生」を敬愛する若い「私」(漱石)に教えた。当時の実際的な例として、乃木大将の自刃がある。乃木は明治天皇と倫理に殉じた。その「倫理」のことを、漱石は明治の精神というのだろうか。
夏目漱石は松山中学で1年間教鞭をとったあと、熊本の第五高等学校へと赴任、第五高等学校在任中に文部省からイギリス留学を命じられる。漱石は何を研究しようかと思い悩んだ末、英文学を研究して文学とは何かを極めようとした。食うや食わずの生活をして一心不乱に勉強し、漱石は神経衰弱になった。日本に帰国してから、漱石は第一高等学校、東京帝国大学などで英文学を教えながら、イギリス以来の研究を継続する。そして「文学論」を書く。後に、これは失敗作だといっている。イギリスから帰国後、漱石は心の中に何かもやもやとしたものをもっていた。彼は生徒たちに英文学を教えることが嫌になっていた。漱石は教えること以外に活動することを模索する。朝日新聞に入社し作家となる。
漱石の「私の個人主義」を読めば、なぜ漱石が東京帝国大学の講師という超エリートの職をなげうって作家の道に進んだかがわかる。「私の個人主義」は漱石が大正3年に学習院で行った講演を筆記したもの。「私の個人主義」の中で、漱石はイギリス留学中に自分の生きるべき道を決めたという。それは「自己本位」とは何かを立証することだった。そのために科学的な研究や哲学的な思索に耽(ふけ)ようとした。漱石にとってはそれは小説という舞台で初めて可能だった。この講演は漱石が「こころ」を書いたあとに行われたもの。「自己本位」と「こころ」の中の先生の行動が重なる。自己本位とは個人主義、漱石にいわせると個人主義とは利己主義とは全く違うものだ。個人は自由にふるまってもいいが、かならずそれには義務が伴うと漱石はいう。さらに、自由に行動するには徳が必要であるという。徳を人格者と置き換えても良い。第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うなら、同時に他人の個性も尊重しなければならない。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うなら、それに付随している義務というものを心得なければならない。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重(おもん)じなければならないと語っている。
イギリスにはノーブレスオブリージ(貴族の義務)という言葉がある。権力をもった人は戦争になったら最前線で戦わなければならない。権力・金力をもつ人はそれに伴って義務が生ずるということ。逆に義務感のない人は権力をもてない。漱石はイギリスが嫌いというが、イギリスは自由の国ではあるが非常に調和のとれた国だとほめる。漱石はイギリスという国の本質を見抜いている。時は日本中が国家主義に沸きかえっている時期。国家主義は国のために自己を抹殺する。漱石は公然とこれに反発する。漱石は国家的道徳よりも個人的道徳のほうがはるかに優れているという。その言葉の裏には国が優れたものになるためには個人が優れたものにならなければならないという。個人の問題は漱石文学の重要なテーマといえる。
夏目漱石の作品に長編小説が多いのは、新聞に連載するのを仕事としている小説記者としては当然だった。小説記者となって初めての小説「虞美人草」から最後の未完の「明暗」まで、漱石は年に1つぐらいのペースで長編小説を書いた。短いものも書いている。特に小品と呼ばれるものは漱石独自の世界。小品とは随筆と短編小説を合わせたような作品。木曜会というものがある。漱石の家には漱石を慕うたくさんの若い知識人たちが集まった。1人ひとりばらばらに行ったのでは漱石の仕事に差し支えるので、鈴木三重吉が毎週木曜日に集まろうと提案して決めた。三重吉は「吾輩は猫である」の迷亭のモデルといわれた男。ただ、迷亭と同じで愛嬌満点ではあるが、どこかいいかげんなところがあった。三重吉は文鳥を飼っていて漱石に文鳥を飼うことをすすめた。半ば強引に三重吉は漱石に文鳥を買ってあげる。「文鳥」はこの文鳥について書かれた小品である。
漱石が終(つい)の棲家としたのが早稲田にある家。この家は漱石山房といわれ、現在では漱石公園として一般に開放されている。公園には漱石山房のテラスを再現した建物があり、また漱石に関する資料を展示した小さな資料館がある。漱石公園は早稲田大学のすぐ近くにある。漱石の書斎は板敷きの10畳の洋間。絨毯が敷かれ紫檀の机と座布団が置かれている。漱石は椅子にではなく、床に坐って書いていた。書斎には縁側がついており、文鳥はその縁側で飼われた。「文鳥」は鈴木三重吉が漱石に文鳥を買ってあげてから文鳥が死ぬまでのことを書いている。主人公は「自分」で、もちろん「自分」は漱石自身であり、「自分」が文鳥のことを淡々と語る。
「自分」はとりたてて文鳥が好きであるわけではないが、飼っているうちにだんだんと愛情らしきものが芽生えてくる。飼いたての頃は水の取り替えや餌は「自分」がやる。朝早く起きて、箱から文鳥がいる駕籠を外に出す。文鳥の鳴き声は可愛いい。三重吉にいわせると文鳥はちよちよと鳴くらしい。「自分」は文鳥を見ているとふと昔の女のことを思い出す。その女に対して感じた甘美な思いが蘇る。その女はとうの昔にどこかへ嫁いでいた。「自分」は毎日、書斎で小説を書いている。ペンのさらさらという音が書斎にかすかに響く。
「自分」はいつしか文鳥の世話を家人にまかせる。ある日、家人が餌をやるのを怠り、文鳥は死ぬ。「自分」は下女をしたたか叱る。文鳥は裏庭に埋められる。「文鳥」を読むと、漱石の書斎の静けさが直に伝わってくる。それを可能にしたのが、文鳥のちよちよという泣き声であり、原稿を書くペンのさらさらという音、同時にこの2つの音が漱石の孤独を際立たせる。文鳥は昔の女の生まれ変わりではないかと思わせる。昔の女は実在しない。あくまで昔の女は何かの象徴だろう。
漱石の作品、「行人」について。
夏目漱石研究の大御所といえば、江藤淳が思い浮かぶ。江藤はいろいろな角度から漱石を分析しているが、その分析の一つに漱石が三兄の妻の登世を恋していたというのがある。江藤の「漱石とその時代」を読むと、本当に漱石は兄嫁を恋していたのかと疑問に思われる。江藤は確信をもって漱石の兄嫁に対する恋をいう。漱石の「行人」で、まず思い出すのが江藤淳の指摘、「行人」の主題の1つが弟と兄嫁との恋仲についてだ。「行人」は行き着くところまで行き着いたといった感のする小説。「行人」執筆中、漱石は再び胃潰瘍を悪化させ連載の中断を余儀なくされる。「行人」の内容を思うと中断もなるほどと納得させられる。胃が破裂するような内容。「行人」を書くことは自殺行為に等しいとさえ思われる。「それから」や「門」では友人の妻を奪うという反社会的なことがテーマだが、「行人」になるとさらに先鋭化し、いよいよ弟と兄嫁の不倫というテーマになる。漱石は男と女の関係をとことん原初的なまでに追及している。「行人」を読むと、いいようのない重い気持になる。この小説には夢も希望も描かれてない。あのドストエフスキーの作品でも陰惨極まる事件のあとでは希望が語られる。「行人」にはその希望がまったくない。「行人」の世界は狂気の世界といってもよい。「行人」は一郎・二郎の兄弟と一郎の妻直の3人を中心として展開していく物語で、舞台は東京ではなく大阪そして和歌山が中心になっている。物語は二郎の一人称語りで進められる。一郎は学者である。二郎は一郎の弟で同じ家に住んでいる。一郎・二郎の両親は健在で、二郎の下に妹のお重、そして、一郎には妻の直と娘がいる。7人の3世代の家族と使用人が一緒に住んでいる。一郎はつねにあることを疑っていた。二郎と直が恋仲ではないかと。一郎・二郎・直そして母親の4人が使用人の縁談のことで大阪にいったとき、一郎は疑いを二郎にそれとなく打ち明ける。二郎はとりあわなかったが、一郎は直の本当の気持を教えてほしいと二郎に懇願した。大阪から和歌山に4人が遊びにでかけたとき、一郎は二郎と直の2人だけを和歌の浦に行かせる。その日和歌の浦は暴風雨に襲われ、2人はそこで1泊せざるを得なかった。その夜、直は二郎にいつでも死ぬ覚悟があることを伝えた。直は直で一郎とのことで悩んでいた。実際に、二郎と直が関係があったわけではない。すべて一郎の疑心暗鬼から生まれた妄想。4人が東京に帰ってからしばらくすると、一郎の様子が目に見えておかしくなってきた。彼は極端に無口になり、書斎に閉じこもることが増えた。家族のものは腫れ物に触るように一郎を扱った。二郎は家にいたたまれなくて、家を出て下宿する。あるとき、二郎の父親が二郎の下宿を訪ねてくる。父親は二郎に一郎を旅に出して気晴らしをさせようと提案。二郎は一郎と最も仲のよいHに兄を夏休みに旅行に連れ出すよう頼む。Hは承諾し、Hと一郎は夏休みに入ると2人して旅行に出かける。旅行に出る前、二郎はHに兄の様子を手紙で知らせてほしいと頼む。2人が旅行に行ってから何日か過ぎたあと、Hから二郎に分厚い手紙が届く。その手紙には一郎の奇行のことが縷々と述べられていた。一郎はもはや狂人であった。一郎は不安でたまらない状態であった。人を信ずることは無論できず、自殺すらできない精神状態であった。二郎がHの手紙を読み終えたところで物語は終わる。「行人」も前作の「彼岸過迄」と同様、結論のない小説。「行人」を読み進めていくうち、漱石の思考がぐるぐる回転して深みにはまり込んでいく。神経衰弱であった漱石だからこそ「行人」が書けたか、逆に「行人」を書く思考の持ち主だったから神経衰弱になったか。「行人」は読者を重い気持にさせてくれる。
「道草」について。
夏目漱石は文学史の上では「余裕派」といわれる。何故漱石が余裕派といわれるか。「吾輩は猫である」は風刺的な小説で、余裕をもって世の中を見ているとでも思われたのであろうか。漱石が作家として登場した頃は、文壇は自然主義文学が主流だった。自然主義文学でなければ文学にあらずといった風潮。そこへ夏目漱石という風変わりな小説家が現れる。漱石は人気作家になってしまう。文壇の人間たちは、漱石がたいへんな教養人であることは認めたが、漱石の小説が一流の文学作品だとは認めようとしなかった。漱石も自分が文壇からどのように見られているかを当然認識していて、文壇とは距離をおいて付き合い、自然主義文学をさめた目でみていた。漱石が「道草」を発表すると文壇は騒然とする。「道草」は自然主義文学そのものだと文壇の人間たちは思った。「道草」は大正4年に、「硝子戸の中」に引き続いて書かれた自伝的長編小説。「硝子戸の中」は随筆で、幼年時代のことを語る。「道草」ではいよいよ小説として自分の過去をリアルに書いた。それまでの漱石の作品は実体験をそのまま書いたものはなく、すべて虚構性に富むものばかり。「道草」はそれまでの漱石の作品とは明らかに作風が違った。いよいよ漱石も自然主義文学者になったのだと誰しもが思った。
漱石が意図的に自然主義の文学を書こうとして「道草」を書いたとは思えない。「道草」は書かれるべくして書かれた小説。漱石は「こころ」まで長編小説を書き続け、いよいよ自分の存在の核心をテーマにして書かざるを得なくなった。その核心とは漱石の幼少期の育てられ方にある。漱石はこの世に生まれ落ちるとすぐ里子に出されたが、すぐに実家に引き取られ、その後1歳のときに父親の友人塩原昌之助の養子となった。漱石が9歳のとき、養父母が離婚し、漱石は実家に戻る。ところが21歳まで漱石の籍は塩原家に置かれたまま。それまで漱石の本名は塩原金之助であった。この養父母とは漱石が実家に復籍するとき縁を切ったが実際は違った。養父塩原は漱石が有名作家になったとき、金を無心に漱石家を訪れる。「道草」は塩原の金の無心が中心テーマになっている。「道草」の主人公は大学教師の健三である。健三のモデルは漱石自身だ。健三はヨーロッパ留学から帰ってきたばかりで、大学の近くに家を構えていた。ある日、大学から家に帰るとき、健三は道である人間を見る。その男は年老いてみすぼらしかったが、健三には見覚えがあった。健三はある予感を感じた。その年老いた男は島田といい、健三の養父だ。健三は幼い時、島田家の養子であった。島田夫婦が離婚したため健三は実家に戻された。その後、養育費を健三の親が島田に支払い、健三と島田家とは縁が切れたはずだった。島田は生活が苦しく、健三に金の無心をしにきた。健三は断ることができたのだが、いくらかの金を渡した。たびたび島田は健三の家を訪ねるが、まとまった金をやって島田が2度と健三の家に来ないようにした。島田との問題は決着するが、健三は島田の問題も含めて「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」と思っている。「道草」は漱石晩年の作品。漱石はいよいよ自分の実体験に仮託して主観的真実を語るところまできた。その真実とは、人間社会には結論はないということだった。
「明暗」について。
「明暗」は漱石最後の作品。完結することなく未完に終わっている。「明暗」が完結しても漱石が追求するものに完結はない。螺旋階段のようにぐるぐる廻りながら高みに行くような感じ。それまでの作品とはあきらかに異質である。まず、登場人物の層が厚い。小林なる人物を登場させる。この男は卑しくそして陰気で唾棄すべき性格の持ち主だが、どこか知的で人類に対する愛情も持っていて、どこか悪魔的である。このような人物はそれまでの作品には1人もいない。小林は仕事もせずに人にたかって生きているような人間で、高等遊民とはかけ離れた存在だ。ドストエフスキーの作品にでてくるような人物。「明暗」の中で小林はドストエフスキーについても言及する。「明暗」の主人公は津田という男だが、津田にはお延という妻とお秀という妹がいる。この2人がびっくりするぐらい自己主張をする。それまでの漱石の作品では、「三四郎」の美禰子、「それから」の三千代、「門」のお米にしても自己主張はしていない。「明暗」で初めて漱石は女性に自己主張させている。「明暗」は未完とはいえ、漱石の作品の中では最も長い。小説の時間の経過は10日に満たない。あのドストエフスキーの「罪と罰」も7日以内の物語。「明暗」は非常に緊張した小説だ。漱石は全く異質な作品で何を言いたかったのだろうか。「こころ」を書き上げた漱石は「則天去私」の境地に達していた。はたして「則天去私」が「明暗」のモチーフなのか。「私」を去ることのできない人間を描いている。その果てに何か救いのようなものを見つけようとすれば、それはドストエフスキーの世界になる。ドストエフスキーの後を追いかけているようにも感じる。
「明暗」は津田という会社員を中心に展開する物語。津田が痔で入院するところから始まる。津田には結婚して間もない妻のお延がいる。津田が勤める会社の社長夫婦が仲人をした。表向きは仲のよい夫婦だ。ところが、お延は津田に対して不安を感じていた。それは津田には自分以外に愛している人がいるのではないかという不安。津田の旧友と称する小林が津田の留守に訪ねてきたとき、お延は小林の物言いからその不安が間違いないものであることを確信する。津田に対する疑心暗鬼の中、お延は津田の妹のお秀と津田の病室で言い争う。お秀は津田夫婦の自己中心的な姿勢を責めた。お延もそれに対して反論する。この女2人の言い争いは決着がつかない。津田は昔の恋人清子のことが忘れられない。津田は病院を退院すると、清子がいるという温泉地へ療養するとお延に言ってでかける。そこで津田は清子と再会する。ここで絶筆となる。漱石は小説のタイトルには神経を使わなかったというが、この「明暗」というタイトルはかなり考えたもの。確かに「明暗」は人間関係の明るい部分と暗い部分を見事に描いている。