我々は、プラトンがイデアから出発していたと思いこんできた。また、ソクラテス以前のソフィストたちの議論を聞いて、すかさず師のソクラテスと共にその議論の場から脱出して、イデアの彼方から颯爽と降りてきたバットマンのような男と思ってきたがそうではなかったと、松岡正剛氏が述べている。更に、プラトンは「失望」から出発していたともいっている。すなわち、政治に失望し、ポリスに失望し、ソクラテスを理解しきれない自分に失望した。プラトンの出発は「負」からの出発だった。もともとプラトンはレスラーだった。イストミア祭の格闘技大会では2度の優勝を飾っている。勇躍、オリンピアの祭典にも出場したが、ここでは負けつづけた。だから「幅広い」というギリシア語の意味と響きをもつ「プラトーン」という名も、おそらくはリングネームだった。きっと肩幅でも広かったせいだろう。当時のアテナイの青少年たちがことごとく「体育の愛」に燃えていたこと、ふたつにはプラトンの名に由来する「プラトニック・ラブ」すなわち「普遍的少年愛」について考えたいならそれも見落とせないと。
プラトンは、そうしたその後の歴史に呪詛をかけた始発者、レスラーとして挫折したプラトンは、ついで悲劇などでも書いて名を上げようとするが、これにも失敗する。各種のコンテストで芳しい成績をあげられなかった。プラトンはのちに詩を批判する。『国家』では詩人の役割に疑問を呈するところまで書いている。詩がわからないプラトンなど何の魅力もなさそうではあるが、そんなプラトンには見切りをつけたいと言い出した後世の詩人や思想家もいた、ニーチェやハイデガーだ。本当にプラトンに詩がないかといえばそうでもない。詩人の日々など理解できないが、秀れた身体資質をもって励んできたアスリートやマーシャルアーティストがいて、その懸命なフィジカル・プレーに思わず美や詩の集中を感じるということもある。プラトンそのものに詩を感じられるというべきなのかもしれない。青年プラトンは悲劇や詩劇を書いて人を驚かせようと思ったが失敗する。体育でも詩劇でも身を立てられないプラトンは漠然と政治に気持ちを向けてゆく。当時、政治は人間が抱く最高の理想だった。プラトンは、理想の人に出会う、それがソクラテスであった。
ソクラテス63歳、プラトン20歳、紀元前407年頃、その気概と人格と哲学に魅了される。ソクラテスの哲学とは、まさにフィロソフィア(知の愛)、青年は一気に「愛知(知を愛する)」に没入してゆく。プラトンはソクラテスの私塾に入る。私塾とはいえ、これはソクラテスがただひたすら目の前にいる者に喋り続けているようなもので、それが聞きたくなければ去ればよかった。プラトンはそのまま8年間か9年間を、ソクラテスの傍らでその痛快快活の談論に耳を傾け、いつだって一つの話に終わらない議論に感動する。品性の教育、真理に対する畏敬、祖国への熱愛、プラトンがソクラテスから摂取したものは、「思惑」からどのように離れられるかということ、それがソクラテスの哲学だった。けれどもプラトンが、なるほど師はそのように言っていると確信するには、師が宿命的に抱えた苛烈な闘いをどこかで引き継ぐ覚悟が必要だった。プラトンによって発見された「負」からの出発だった。
プラトンがアテナイに生まれた前427年は、ペロポネソス戦争が始まって4年目にあたる。この戦争はアテナイの民主制とスパルタの反民主制の闘いで、戦争は27年も続き、おまけにアテナイの敗北で終わる。プラトンが師に出会えて3年後のこと。植民地化されたアテナイには、反民主派の「三十人政権」が樹立。この政権にはプラトンの従兄弟のクリティアスや叔父のカルミデスも入っていて、すでにソクラテスのもとで政治の理想に燃えつつあった青年プラトンにもお誘いがかかったが、プラトンは多少の躊躇と期待をもってこの動向を見守ることにする。期待はすぐに裏切られる。躊躇は当たっていた。僭主的な政権はスパルタの強力な軍事力をバックにして恐怖政治を開始、多くの者が国外に亡命しはじめる。レオン逮捕事件がおこる。僭主はソクラテスら数人を呼んでサラミス島のレオンを強制連行することを命じた。ソクラテスは無実のレオンの逮捕にも不正な命令にも不快感を見せ、さっさと自宅に帰ってしまう。この話は『ソクラテスの弁明』にも出てくる有名な場面だ。ここまではまだ師の颯爽とした行為に、青年はただただ憧れるだけだった。ところが、次の予想もつかない有名な事件がプラトンを混乱させる。三十人政権のほうは倒れた。武装した新たな民主政権が覇権を奪取した。アテナイのデモクラシーとはいえ、こうした武力がどこかで必要だった。一言でいえばアテナイ民主制とは軍事的民主制だった。ともかくも、これで師も弟子もやっとホッとしていたところ、あろうことか3人の告発者によって、ソクラテスが意外な科(とが)で裁判にかけられる。「青年を堕落させ、国家の認める神々を認めず、別の新しい鬼神を信じている」というのが告発の理由だった。いつの世でもそうであるが、一貫した思想が語れる者のところに青年青女が集まる時は、世間の権威者と煽情者たちは、嫉妬半分・誤解半分・牽制半分で告発をしたがるものだ。裁定は死刑。『パイドン』に劇的に語られているように、このときソクラテスはこの「不正」を甘んじて受け入れ、毒杯を仰いで死んでいく。プラトンはどうしたか。西洋哲学史では、ここでプラトンが政治に絶望したことになっている。死んだ師がもういなくなってしまったアテナイから、プラトンは逃げ出す。社会紊乱罪のソクラテスの弟子として逮捕される危険もあった。青年は混乱したまま、旅に出る。プラトン28歳のときだ。
青年プラトンには、挫折と転向と遍歴が続く。思いもよらぬ結末で、かけがえのない師を失った。ソクラテスはつねづね「諸君は金や評判や名誉ばかりに汲々として恥ずかしくないのか。諸君は知と真実と魂のことはどうするのか」と言い、濡れ衣を着せられれば自身を裁く法廷にあえて立ち、最後は「私は息のつづくかぎり哲学することをやめない」と言って死を受け入れた。プラトンはこの宿命的で不可解なソクラテスの死を、まるごと背負った。正義の人とおぼしいソクラテスが国法の名において自ら死んでいったということを、そのころのプラトンはまったく理解できなかった。プラトンを読むとは、まさに「このプラトンの不可解な転換点」からプラトンを読むということになる。『国家』の読み方も、そこにある。これこそがプラトンの用意した「負のCPU」の発動だった。プラトンは師を失ってしばらくして、師の談論を再生することを思いつく。旅での滞在地を含む各地で、いわゆる初期対話篇を著しはじめる。最初は師の最後に何がおこったのかを再生記録するための『ソクラテスの弁明』、続いては『プロタゴラス』や『ゴルギアス』。なかでも『メノン』にある次の言葉に惹かれる。「マテーシス(学習)はアナムネーシス(想起)である」。これは、「魂が生前にすでに感じていたことを想起することこそが、学ぶことの本性なのである」と言う。プシュケーの意味も、すごい。魂が未生(みしょう)のままに体験したであろうことを学習することが、そもそも学ぶことだという。この言葉は生前のソクラテスが言ったことになっているが、まさにこのアナムネーシス(想起)において、プラトンにとってはソクラテスを対話によって思い出しながら蘇らせる作業の中で、プラトンはついにプラトンになってゆく。
プラトンが「対話」(ディアレクティケー)という方法を選びつづけたこと、全ヨーロッパ哲学はここにもういっぺん戻ったらどうなのか。ソクラテスの裁判記録ともいうべき『ソクラテスの弁明』を除くすべての著作を対話にしたというのは、そこにプラトン自身が語り手としてはまったく登場せず、最晩年の『法律』以外のすべての著作でソクラテスが生き生きと話しつづけているというのは、プラトンの思想が「対話という方法」そのものにあった。対話の想起こそが想起の編集なのだ。プラトンが対話篇で示したのはソクラテスの思想であって、プラトン自身の思想ではないなどというバーネットやテイラーの見方が学界で流行したが、こんな見方はまったく当たらない。当たらないどころか、そういう足の引っ張りあいを“発明”したことが、哲学史の困窮を生み、それだけを真似たがる学者や研究者の跋扈を許し、プラトンを読み損ねる歴史を続けてきた。
プラトンの旅は約12年に及ぶ。プラトンの遍歴時代とよばれる。シケリア(シシリー島)やエトナ山にも行っている。この旅の最後でピタゴラス派の一団に出会えたことがプラトンの思想形成に大きなヒントを与えた。それはそれ、そのプラトンがやっとアテナイに戻ってきたのは前387年のこと、ここでプラトンはついに感動的なことをやってのける。「アカデミア」を立てた。この学園の名は、いまは世界中のアカデミーや団体の語源になっているが、そのころはまだアッチカの伝説的な英雄アカデモスに因んでいた。学園とはいえ、そこは神域ともいうべきスペースであって、社殿・祭壇・立像が建てられた。祭壇の主宰神はエロスとムゥサ(ミューズ)、立像はプロメテウスとヘパイストス。これらを配して、そのあいだにエクセドラ(講堂)、ギュムナシオン(体育館)、ムセイオン(博物資料標本館)、そして、図書館あるいは文庫館があった。プラトンはその片隅に地所をもち、残された生涯をそこで送る。アカデミアについては、むろん発掘は試みられているものの、まだ全貌があきらかにはなってはいない。施設は借り物だったという説もある。このアカデミアにすべてを投与すると決断したプラトンに、今日に及んだプラトンのマスタープランの原図そのものを見る。プラトンはここにおいていっさいのイデア(知)とプシュケー(魂)に形を与えることを試みる。プラトンはいよいよ覚悟して『饗宴』『パイドン』そして『国家』に着手する。とりわけ『国家』第5巻に至ったとき、プラトンの滾(たぎ)る思いが逆巻いた。それはアカデミアで初めて可能となる。それが「哲人王」と「哲人の統治」という構想だ。その後に誰が提案するどんな構想よりも理想に走っていた。
国家というものが「生物の国家」から長時間をかけて発生し、やがて「記憶の国家」「契約の国家」「観念の国家」「浪漫の国家」「機械の国家」「階級の国家」「情報の国家」などをあたかも脱皮するかのようにへて、ついに「無名の国家」に向かっていくという、いわば全歴史上の国家のカマエとハコビを提示、全12部仕立て、各部を12~15章に、それをさらに12~16節に組み上げた。ここでは、プラトンは第2部第00章第4節かに第8節に坐っている。この国家論は生物史観にはじまって無名の存在学に向かっている。そこには進行の厳密がある。
プラトンの国家は「負のCPU」から生じたものだが、それが現実のポリスの失政と、自身の失敗を通過したために、そのマスタープランには哲学の人格化がおかれた。それが「哲人王」と「哲人の統治」ヴァーチャル・コンセプトだった。これは「最善のものが腐敗すれば、それは最悪のものになる」というソクラテスの怖るべき教えの逆襲をうけるかもしれないという恐怖と闘ったプラトンにして初めて樹立できた理想主義だった。哲人王なんてダビデ・ソロモンの時代ならいざ知らず、すでにギリシャの日々にさえ出現しそうもないはずなのに、プラトンはそんな理想を国家の奥に据えた。
我々は日本国憲法がどのように出現し、どのように定着してしまったかを知っている。その一方で、どこかに理想の日本国憲法というものがあるのではないか、それはどういうものか、うっすら想定している。少なくともそういう想定は許される。しかし、その理想の憲法を想定している場所は、いわば負の領域である。実際にもそういう理想の憲法が戦時中にも戦後においても、現実化されたことはない。そして現行の憲法だけが唯一の、うつつ(現実)であって、仮の想定された憲法は、どこかに、うつ(空)として漂っている。その想定された憲法をもつ日本が、ヴァーチャルな負の領域にある。
プラトンがなぜ『国家』第10巻目の最後の最後になって「エルの物語」を提示したか。プラトンが持ち出したもの、それは神話だ。神話であるが、それは魂が肉体を得る前に自身の運命を選ぶ場面を示したものだ。国家が魂を救済する可能性はないと書かれていた。国家とはつねに「忘却の水」を飲ませないための機構なのではなくて、つねに群なすエルたちに「忘却の水」を飲ませておく機構なのだ。プラトンの国家は現実の国家になってはいけないように書かれた “負の国家” だった。まさにプラトンは「マテーシスはアナムネーシスだ」というその想起の方へ、最後の最後になって国家を押しこめた。それは凸の国家などではなかったはずだ。プラトンの国家、それはやはり凹の国家だった。
プラトンはいよいよ『パルメニデス』に向かった。プラトンには『パルメニデス』という題名の対話篇がある。プラトン以降の哲学者はパルメニデスから、「実体の不滅」という概念を継承したといわれる。プラトンのイデア論はパルメニデスの不生不滅の考えとヘラクレイトスの万物流転の考えを調和させようとした試みともいわれる。ここから先のプラトンは、イデアの世界とイデアを模倣する世界の区別に立ち向かうプラトンになる。すでに負のCPUは起動しはじめたのだから、そこには凹んだ国家があたかも現実の鏡像のごとく茫然と見えているだけで、次のプラトンの計画は理想に至る方法を峻別する道具の選定に入る。プラトンの国家は誰によってもCPUの中には入ってくるはずはない。ここからが全ヨーロッパの哲学がプラトンの脚注になっていくドラマのスタートになる。『国家』で国家を語ったのは、プラトンではなくてソクラテスだった。ポリスに排斥された想起の中にのみ、ソクラテスの国家すなわちプラトンの国家があった。プラトンが著述以外でアカデミアでやり続けたことは「魂の気遣い」だったのかもしれない。
プラトンの「思惑」(ドクサ)についていえば、思惑というものは、たえず自分が首尾一貫しているとか、ピュアーであると思いたがるものでもあり、逆につねに自身を迷わせている悪魔のようなものと思いたがるものであり、それなら、その思惑のふるまいに文句をつけながら、すかさず思惑なき思索を完了するには、どういうことを自分に課せばよいか。プラトンは、こういうことを思想史上初めて一貫して説明できた哲人、この「思惑なき思索」を発端させることが、西洋が初めて体験することになる「哲学」だった。
ホワイトヘッドが「全西洋の哲学はプラトンの脚注にすぎない」と言った。プラトンの哲学は、イデアとプシュケー、二つの言葉に集約される。それは「知」と「魂」、「理念」と「精神」と言ってもよい。イデアは抽象そのものであって、同時に具体そのものでもある。プラトンは、プシュケーには3段階があるとも言う。理知の魂、気概の魂、欲望の魂の3つ。プラトンには、プシュケーも純粋無雑なものでなく、抽象であって具体そのものでもあった。そのようにも松岡正剛氏は述べている。
プラトンは、そうしたその後の歴史に呪詛をかけた始発者、レスラーとして挫折したプラトンは、ついで悲劇などでも書いて名を上げようとするが、これにも失敗する。各種のコンテストで芳しい成績をあげられなかった。プラトンはのちに詩を批判する。『国家』では詩人の役割に疑問を呈するところまで書いている。詩がわからないプラトンなど何の魅力もなさそうではあるが、そんなプラトンには見切りをつけたいと言い出した後世の詩人や思想家もいた、ニーチェやハイデガーだ。本当にプラトンに詩がないかといえばそうでもない。詩人の日々など理解できないが、秀れた身体資質をもって励んできたアスリートやマーシャルアーティストがいて、その懸命なフィジカル・プレーに思わず美や詩の集中を感じるということもある。プラトンそのものに詩を感じられるというべきなのかもしれない。青年プラトンは悲劇や詩劇を書いて人を驚かせようと思ったが失敗する。体育でも詩劇でも身を立てられないプラトンは漠然と政治に気持ちを向けてゆく。当時、政治は人間が抱く最高の理想だった。プラトンは、理想の人に出会う、それがソクラテスであった。
ソクラテス63歳、プラトン20歳、紀元前407年頃、その気概と人格と哲学に魅了される。ソクラテスの哲学とは、まさにフィロソフィア(知の愛)、青年は一気に「愛知(知を愛する)」に没入してゆく。プラトンはソクラテスの私塾に入る。私塾とはいえ、これはソクラテスがただひたすら目の前にいる者に喋り続けているようなもので、それが聞きたくなければ去ればよかった。プラトンはそのまま8年間か9年間を、ソクラテスの傍らでその痛快快活の談論に耳を傾け、いつだって一つの話に終わらない議論に感動する。品性の教育、真理に対する畏敬、祖国への熱愛、プラトンがソクラテスから摂取したものは、「思惑」からどのように離れられるかということ、それがソクラテスの哲学だった。けれどもプラトンが、なるほど師はそのように言っていると確信するには、師が宿命的に抱えた苛烈な闘いをどこかで引き継ぐ覚悟が必要だった。プラトンによって発見された「負」からの出発だった。
プラトンがアテナイに生まれた前427年は、ペロポネソス戦争が始まって4年目にあたる。この戦争はアテナイの民主制とスパルタの反民主制の闘いで、戦争は27年も続き、おまけにアテナイの敗北で終わる。プラトンが師に出会えて3年後のこと。植民地化されたアテナイには、反民主派の「三十人政権」が樹立。この政権にはプラトンの従兄弟のクリティアスや叔父のカルミデスも入っていて、すでにソクラテスのもとで政治の理想に燃えつつあった青年プラトンにもお誘いがかかったが、プラトンは多少の躊躇と期待をもってこの動向を見守ることにする。期待はすぐに裏切られる。躊躇は当たっていた。僭主的な政権はスパルタの強力な軍事力をバックにして恐怖政治を開始、多くの者が国外に亡命しはじめる。レオン逮捕事件がおこる。僭主はソクラテスら数人を呼んでサラミス島のレオンを強制連行することを命じた。ソクラテスは無実のレオンの逮捕にも不正な命令にも不快感を見せ、さっさと自宅に帰ってしまう。この話は『ソクラテスの弁明』にも出てくる有名な場面だ。ここまではまだ師の颯爽とした行為に、青年はただただ憧れるだけだった。ところが、次の予想もつかない有名な事件がプラトンを混乱させる。三十人政権のほうは倒れた。武装した新たな民主政権が覇権を奪取した。アテナイのデモクラシーとはいえ、こうした武力がどこかで必要だった。一言でいえばアテナイ民主制とは軍事的民主制だった。ともかくも、これで師も弟子もやっとホッとしていたところ、あろうことか3人の告発者によって、ソクラテスが意外な科(とが)で裁判にかけられる。「青年を堕落させ、国家の認める神々を認めず、別の新しい鬼神を信じている」というのが告発の理由だった。いつの世でもそうであるが、一貫した思想が語れる者のところに青年青女が集まる時は、世間の権威者と煽情者たちは、嫉妬半分・誤解半分・牽制半分で告発をしたがるものだ。裁定は死刑。『パイドン』に劇的に語られているように、このときソクラテスはこの「不正」を甘んじて受け入れ、毒杯を仰いで死んでいく。プラトンはどうしたか。西洋哲学史では、ここでプラトンが政治に絶望したことになっている。死んだ師がもういなくなってしまったアテナイから、プラトンは逃げ出す。社会紊乱罪のソクラテスの弟子として逮捕される危険もあった。青年は混乱したまま、旅に出る。プラトン28歳のときだ。
青年プラトンには、挫折と転向と遍歴が続く。思いもよらぬ結末で、かけがえのない師を失った。ソクラテスはつねづね「諸君は金や評判や名誉ばかりに汲々として恥ずかしくないのか。諸君は知と真実と魂のことはどうするのか」と言い、濡れ衣を着せられれば自身を裁く法廷にあえて立ち、最後は「私は息のつづくかぎり哲学することをやめない」と言って死を受け入れた。プラトンはこの宿命的で不可解なソクラテスの死を、まるごと背負った。正義の人とおぼしいソクラテスが国法の名において自ら死んでいったということを、そのころのプラトンはまったく理解できなかった。プラトンを読むとは、まさに「このプラトンの不可解な転換点」からプラトンを読むということになる。『国家』の読み方も、そこにある。これこそがプラトンの用意した「負のCPU」の発動だった。プラトンは師を失ってしばらくして、師の談論を再生することを思いつく。旅での滞在地を含む各地で、いわゆる初期対話篇を著しはじめる。最初は師の最後に何がおこったのかを再生記録するための『ソクラテスの弁明』、続いては『プロタゴラス』や『ゴルギアス』。なかでも『メノン』にある次の言葉に惹かれる。「マテーシス(学習)はアナムネーシス(想起)である」。これは、「魂が生前にすでに感じていたことを想起することこそが、学ぶことの本性なのである」と言う。プシュケーの意味も、すごい。魂が未生(みしょう)のままに体験したであろうことを学習することが、そもそも学ぶことだという。この言葉は生前のソクラテスが言ったことになっているが、まさにこのアナムネーシス(想起)において、プラトンにとってはソクラテスを対話によって思い出しながら蘇らせる作業の中で、プラトンはついにプラトンになってゆく。
プラトンが「対話」(ディアレクティケー)という方法を選びつづけたこと、全ヨーロッパ哲学はここにもういっぺん戻ったらどうなのか。ソクラテスの裁判記録ともいうべき『ソクラテスの弁明』を除くすべての著作を対話にしたというのは、そこにプラトン自身が語り手としてはまったく登場せず、最晩年の『法律』以外のすべての著作でソクラテスが生き生きと話しつづけているというのは、プラトンの思想が「対話という方法」そのものにあった。対話の想起こそが想起の編集なのだ。プラトンが対話篇で示したのはソクラテスの思想であって、プラトン自身の思想ではないなどというバーネットやテイラーの見方が学界で流行したが、こんな見方はまったく当たらない。当たらないどころか、そういう足の引っ張りあいを“発明”したことが、哲学史の困窮を生み、それだけを真似たがる学者や研究者の跋扈を許し、プラトンを読み損ねる歴史を続けてきた。
プラトンの旅は約12年に及ぶ。プラトンの遍歴時代とよばれる。シケリア(シシリー島)やエトナ山にも行っている。この旅の最後でピタゴラス派の一団に出会えたことがプラトンの思想形成に大きなヒントを与えた。それはそれ、そのプラトンがやっとアテナイに戻ってきたのは前387年のこと、ここでプラトンはついに感動的なことをやってのける。「アカデミア」を立てた。この学園の名は、いまは世界中のアカデミーや団体の語源になっているが、そのころはまだアッチカの伝説的な英雄アカデモスに因んでいた。学園とはいえ、そこは神域ともいうべきスペースであって、社殿・祭壇・立像が建てられた。祭壇の主宰神はエロスとムゥサ(ミューズ)、立像はプロメテウスとヘパイストス。これらを配して、そのあいだにエクセドラ(講堂)、ギュムナシオン(体育館)、ムセイオン(博物資料標本館)、そして、図書館あるいは文庫館があった。プラトンはその片隅に地所をもち、残された生涯をそこで送る。アカデミアについては、むろん発掘は試みられているものの、まだ全貌があきらかにはなってはいない。施設は借り物だったという説もある。このアカデミアにすべてを投与すると決断したプラトンに、今日に及んだプラトンのマスタープランの原図そのものを見る。プラトンはここにおいていっさいのイデア(知)とプシュケー(魂)に形を与えることを試みる。プラトンはいよいよ覚悟して『饗宴』『パイドン』そして『国家』に着手する。とりわけ『国家』第5巻に至ったとき、プラトンの滾(たぎ)る思いが逆巻いた。それはアカデミアで初めて可能となる。それが「哲人王」と「哲人の統治」という構想だ。その後に誰が提案するどんな構想よりも理想に走っていた。
国家というものが「生物の国家」から長時間をかけて発生し、やがて「記憶の国家」「契約の国家」「観念の国家」「浪漫の国家」「機械の国家」「階級の国家」「情報の国家」などをあたかも脱皮するかのようにへて、ついに「無名の国家」に向かっていくという、いわば全歴史上の国家のカマエとハコビを提示、全12部仕立て、各部を12~15章に、それをさらに12~16節に組み上げた。ここでは、プラトンは第2部第00章第4節かに第8節に坐っている。この国家論は生物史観にはじまって無名の存在学に向かっている。そこには進行の厳密がある。
プラトンの国家は「負のCPU」から生じたものだが、それが現実のポリスの失政と、自身の失敗を通過したために、そのマスタープランには哲学の人格化がおかれた。それが「哲人王」と「哲人の統治」ヴァーチャル・コンセプトだった。これは「最善のものが腐敗すれば、それは最悪のものになる」というソクラテスの怖るべき教えの逆襲をうけるかもしれないという恐怖と闘ったプラトンにして初めて樹立できた理想主義だった。哲人王なんてダビデ・ソロモンの時代ならいざ知らず、すでにギリシャの日々にさえ出現しそうもないはずなのに、プラトンはそんな理想を国家の奥に据えた。
我々は日本国憲法がどのように出現し、どのように定着してしまったかを知っている。その一方で、どこかに理想の日本国憲法というものがあるのではないか、それはどういうものか、うっすら想定している。少なくともそういう想定は許される。しかし、その理想の憲法を想定している場所は、いわば負の領域である。実際にもそういう理想の憲法が戦時中にも戦後においても、現実化されたことはない。そして現行の憲法だけが唯一の、うつつ(現実)であって、仮の想定された憲法は、どこかに、うつ(空)として漂っている。その想定された憲法をもつ日本が、ヴァーチャルな負の領域にある。
プラトンがなぜ『国家』第10巻目の最後の最後になって「エルの物語」を提示したか。プラトンが持ち出したもの、それは神話だ。神話であるが、それは魂が肉体を得る前に自身の運命を選ぶ場面を示したものだ。国家が魂を救済する可能性はないと書かれていた。国家とはつねに「忘却の水」を飲ませないための機構なのではなくて、つねに群なすエルたちに「忘却の水」を飲ませておく機構なのだ。プラトンの国家は現実の国家になってはいけないように書かれた “負の国家” だった。まさにプラトンは「マテーシスはアナムネーシスだ」というその想起の方へ、最後の最後になって国家を押しこめた。それは凸の国家などではなかったはずだ。プラトンの国家、それはやはり凹の国家だった。
プラトンはいよいよ『パルメニデス』に向かった。プラトンには『パルメニデス』という題名の対話篇がある。プラトン以降の哲学者はパルメニデスから、「実体の不滅」という概念を継承したといわれる。プラトンのイデア論はパルメニデスの不生不滅の考えとヘラクレイトスの万物流転の考えを調和させようとした試みともいわれる。ここから先のプラトンは、イデアの世界とイデアを模倣する世界の区別に立ち向かうプラトンになる。すでに負のCPUは起動しはじめたのだから、そこには凹んだ国家があたかも現実の鏡像のごとく茫然と見えているだけで、次のプラトンの計画は理想に至る方法を峻別する道具の選定に入る。プラトンの国家は誰によってもCPUの中には入ってくるはずはない。ここからが全ヨーロッパの哲学がプラトンの脚注になっていくドラマのスタートになる。『国家』で国家を語ったのは、プラトンではなくてソクラテスだった。ポリスに排斥された想起の中にのみ、ソクラテスの国家すなわちプラトンの国家があった。プラトンが著述以外でアカデミアでやり続けたことは「魂の気遣い」だったのかもしれない。
プラトンの「思惑」(ドクサ)についていえば、思惑というものは、たえず自分が首尾一貫しているとか、ピュアーであると思いたがるものでもあり、逆につねに自身を迷わせている悪魔のようなものと思いたがるものであり、それなら、その思惑のふるまいに文句をつけながら、すかさず思惑なき思索を完了するには、どういうことを自分に課せばよいか。プラトンは、こういうことを思想史上初めて一貫して説明できた哲人、この「思惑なき思索」を発端させることが、西洋が初めて体験することになる「哲学」だった。
ホワイトヘッドが「全西洋の哲学はプラトンの脚注にすぎない」と言った。プラトンの哲学は、イデアとプシュケー、二つの言葉に集約される。それは「知」と「魂」、「理念」と「精神」と言ってもよい。イデアは抽象そのものであって、同時に具体そのものでもある。プラトンは、プシュケーには3段階があるとも言う。理知の魂、気概の魂、欲望の魂の3つ。プラトンには、プシュケーも純粋無雑なものでなく、抽象であって具体そのものでもあった。そのようにも松岡正剛氏は述べている。